知らないことが 茨木のり子
大学の階段教室で
ひとりの学生が口をひらく
ぱくりぱくりと鰐のようにひらく
意志とはなんのかかわりもなく
戦場である恐怖に出会ってから
この発作ははじまったのだ
電車のなかでも
銀杏の下でも
ところかまわず目をさます
錐体外路系統の疾患
学生は恥ぢてうつむき口を掩う
しかし 年若い友らにまじり
学ぶ姿勢をいささかも崩そうとはしない
ひとりの青年を切りさいてすぎたもの
それはどんな恐怖であったのか
ひとりの青年を起きあがらせたもの
それはどんな敬虔な願いであったのか
彼がうっすらと口をあけ
ささやかな眠りにはいったとき
できることなら ああそつと
彼の夢の中にしのびこんで
少し生意気な姉のように
”あなたを知らないでいてごめんなさい”
静かに髪をなでていたい
精密な受信器はふえてゆくばかりなのに
世界のできごとは一日でわかるのに
”知らないことが多すぎる”と
あなたにだけは告げてみたい。
(『対話』所収 初出「詩学」1955年10月 詩人29歳)
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