2021年12月24日金曜日

詩人茨木のり子の年譜(改訂ー3) 1942(昭17)16歳~1943(昭18)17歳 「そのために声帯が割れ、ふだんの声はおそるべきダミ声になって、音楽の先生から「あなたはあの号令で、すっかり声を駄目にしましたね」と憐憫とも軽蔑ともつかぬ表情で言われた。いっぱしの軍国少女になりおおせていたと思う。」(「はたちが敗戦」)       

 


詩人茨木のり子の年譜(改訂ー3)

1942(昭17)16歳

この年の秋、いまの名鉄西尾線・吉良吉田駅前(愛知県幡豆郡吉良町吉田)に、父、宮崎洪が宮崎医院を開く。

この頃、吉良は無医村状態で、町議会が隣町・西尾の山尾病院副院長の職にあった宮崎に懇願し、医院開設となった。

三河湾に画した吉良町に転居。


・・・・・戦時期の茨木は、自ら後年に綴った文章によれば、「いっぱしの軍国少女になりおおせていだと思う」としている(「はたちが敗戦」堀場編一九七八)。

通っていた高等女学校は全国に先駆けて校服をモンぺとした学校であり、「良妻賢母教育と、軍国主義教育とを一身に浴びていた」。また、三年生のとき、「分列行進の訓練」で「中隊長」として選ばれ「号令と指揮」を取ることになり、「全校四百人を一糸乱れず動かせた」(同前)。

小旗をふって「出征兵士」を見送り、食料増産のために農家へ出張する「勤労奉仕」も多く、「勉学というものには程遠く、戦争にばかり気をとられ、ウワウワとした落ちつきのない四年間」であり、その後、専門学校に進学してからも、戦死した山本五十六の「国葬」に参列し(一九四三年)、薬品工場への動員も経験している。

また、敗戦後に「化学の世界」から「文学の世界」へと「私個人もまた、一八〇度転換を遂げたかった」と記すとともに、敗戦後の光景を「アメリカ兵、復員兵が溢れ、闇市に食を求める人々が犇(ひし)めき、有楽町、新橋駅のガード下あたり毒茸のようにけばけばしいパンパンが足をぼりぼり掻きながら群れていた」と描写した。同級生には「進駐軍を恐れ」「娘の操を守るべく」丸坊主になってしまうものもいたことを、書きとめている(同前)。(成田龍一)


太平洋戦争に突入したとき、私は女学校の三年生になっていた。全国にさきがけで校服をモンぺに改めた学校で、良妻賢母教育と、軍国主義教育とを一身に浴びていた。

退役将校が教官となって分列行進の訓練があり、どうしたわけか全校の中から私が中隊長に選ばれて、号令と指揮をとらされたのだが、霜柱の立った大根畑に向って、号令の特訓を何度受けたことか。


かしらァ・・・・・右イ

かしらア・・・・・左イ

分列に前へ進め!

左に向きをかえて 進め!

大隊長殿に敬礼! 直れ!


私の馬鹿声は凛凛とひびくようになり、つんざくような裂帛(れっぱく)の気合が籠るようになった。そして全校四百人を一糸乱れず動かせた。指導者の快感とはこういうもんだろうか? と思ったことを覚えている。

そのために声帯が割れ、ふだんの声はおそるべきダミ声になって、音楽の先生から「あなたはあの号令で、すっかり声を駄目にしましたね」と憐憫とも軽蔑ともつかぬ表情で言われた。いっぱしの軍国少女になりおおせていたと思う。声への劣等感はその後長く続くことになるのだが。

女学校の隣が駅だったため、私たちはしょっちゅう列を組んで小旗をふり、出征兵士を見送るのも学校行事の一つだったし、増産のため農家へ出張する勤労奉仕も多く、稲刈、麦刈、田植、兎狩り、蝗狩り、もっこかつぎ、なんでもやった。今でも鍬のふるいかたなど「奥さんの実家は農家ですか?」と言われるほどうまい。

勉学というものには程遠く、戦争にばかり気をとられ、ワウワウとした落ちつきのない四年間だった。・・・・・

(「はたちが敗戦」)


1943(昭18)17歳

「女も資格を身につけて一人で生き抜く力を持たねばならぬ」という開明的な父の方針により、東京・蒲田にあった帝国女子医学・薬学・理学専門学校(現・東邦大学)薬学部に入学。

父の敷いたレールに乗って薬学を学びはじめた茨木であるが、まるで向いていない世界であった。

勤労動員と空襲がはじまり、学校での勉学は有名無実となっていく。

6月、山本五十六元帥の国葬に一年生全員参加。

父は私を薬学専門学校へ進めるつもりで、私が頼んだわけではなく、なぜか幼い頃からそのように私の進路は決っていた。父には今で言う「女の自立!」という考えがはっきりと在ったのである。女の幸せが男次第で決ること、依存していた男性との離別、死別で、女性が見るも哀れな境遇に陥ってしまうこと、それらを不甲斐ないとする考えがあって、「女もまた特殊な資格をを身につけて、一人でも生き抜いてゆけるだけの力を持たねばならぬ」という持論を折にふれて聞かされてきた。・・・・・

明治生れの当時の男性としては、すばぬけて開明的であったと思うが、そうなった原因を探ってみると、二つのことに思い至る。一つは父の長姉が若くして未亡人となり、それから苦心惨憺、検定試験を受けて女学校の先生となった辛苦のさまを末っ子の父がつぶさに見聞しただろうこと。長姉が不幸のトップを切ったために次姉たち二人は発奮して、二人ともお茶の水女高師を出ている。教育県として知られる長野県人であったとしても、祖父もまた男女の区別をつけない人であったらしい。

もう一つは若い時、父はドイツへ留学して医学を学んだ経験があり、それが日本女性とヨーロッパ女性とを常に比駿検討させたか? と思う。日本では結婚しない女は半端もの扱いだが、ヨーロッパでは一生独身でシャンと生きてゆく女が一杯居るというふうなこともよく聞かされたし、ドイツ語の先生として、かつて父が選んだ女史もそういう人だったそうで、女らしい反面「○○月謝を持ってきたか」などとはっきり言える人でもあり、いずれにしても日本の女は経済的にも心情的にもあまりにも男性依存度が高すぎるということだった。

娘を育てるについても、質実剛健、科学万般に強く、うなじをあげ胸を張って闊歩する化粧気すらないドイツ女性が理想のイメージとしてあったらしい。

というわけで、東京の浦田にあったその名も帝国女子医学・薬学・理学専門学校の薬学部に入学した。現在の東邦大学薬学部に当る。当時は推薦入学制度というのがあって、女学校の成績と家庭環境が良ければ、無試験で何パーセントかは採るという、のんびりしたところがあった。担任の先生が推薦状に名文を草して下さったらしいお蔭で、女学校卒業前に決定した。そして私ときたら白衣を着て実験などすることに憧れているばかりだった。

昭和十八年、戦況のはなはだがんばしからぬことになった年に入学して、間もなく戦死した山本五十六元帥の国葬に列している。その頃から誰の目にも雲行怪しくなってきて、学生寮の食事も日に日に乏しく、食べざかりの私たちはどうしようもなくお腹が空いて、あそこの大衆食堂が今日は開いていると聞くと誘いあわせて走り、延々の列に並び京浜工業地帯の工員たちと先を争って食べた。「娘十八番茶も出花」という頃、われひとともに娘にあるまじきあられもなさだった。食べものに関する浅ましさもさまざま経験したが、今、改めて書く元気もない。

それでも入学して一年半くらいは勉強出来て、ドイツ語など一心にやったが、化学そのものはちんぷんかんぷんで、無機化学、有機化学など私の頭はてんで受けつけられない構造になっていることがわかって、「しまった!」と臍かむ思いだった。教室に坐ってはいても、私の魂はそこに居らず、さまよい出でて外のことを考えでいるのだった。全国から集った同級生には優秀な人が多く、戦時中とは言っても高度な女学校教育を受けていた人達もいて、落差が烈しく、ついてゆけないというのは辛いことで、私は次第に今でいう〈落ちこぼれ〉的心情に陥っていった。

(「はたちが敗戦」)


新刊本が少なかったこの時期、『万葉集』(武田祐吉編)を買い求め、熟読する。


茨木 ・・・、私の少女時代には、それこそ新刊本は無くて、読むものは古典くらいしかない。だから万葉集なんてよく読みましたよ、くりかえし。

大岡 ああ、そうですか、やっぱりね。

茨木 十代の後期 - 十七歳位の時。

戦争中だったから「み民(たみ)あれ生ける験(しるし)あり」とか、「醜(しこ)の御楯(みたて)と出で立つわれは」などがもてはやされたわけですね。私はむしろ、若いから恋歌とか東歌に夢中になっていましたけど、ただ、学校で万葉集なんて習った覚えはないんですよね。教科書には古今集の十首くらい。万葉集は入っていなかったんです。

大岡 へ-え、それはユニークな教科書だったんだね。

茨木 それでね、私は自分で買って読んだ。武田祐吉編の、ザラ紙で印刷も悪いすさまじい製本のですが未だに愛着があって捨てられないんです。それを持ってお嫁に来て、まだあるけれど。

大岡 それも一人で発見したということですね。恋歌といえば、巻の一に出てくる額田王あたりから始めるということになりますね。

(大岡信対談)


《参考資料》

後藤正治『清冽 詩人茨木のり子の肖像』(中央公論社)

後藤正治『評伝茨木のり子 凛としてあり続けたひと』(『別冊太陽』)

金智英『隣の国のことばですもの 茨木のり子と韓国』(筑摩書房)

成田龍一「茨木のり子 - 女性にとっての敗戦と占領」(『ひとびとの精神史第1巻 敗戦と占領 - 1940年代』)

井坂洋子『詩はあなたの隣にいる』(筑摩書房)

芳賀徹『みだれ髪の系譜』(講談社学術文庫)

中村稔『現代詩の鑑賞』(青土社)

高良留美子『女性・戦争・アジア ー 詩と会い、世界と出会う』(土曜美術社)

小池昌代「水音たかく - 解説に代えて」(谷川俊太郎編『茨木のり子詩集』所収)

蘇芳のり子『蜜柑の家の詩人 茨木のり子 - 詩と人と』(せりか書房)

『展望 現代の詩歌 詩Ⅳ』(明治書院)


『文藝別冊「茨木のり子」』所収論考

長谷川宏「茨木のり子の詩」

若松英輔「見えない足跡 - 茨木のり子の詩学」

姜信子「麦藁帽子にトマトを入れて」

河津聖恵「どこかに美しい人と人との力はないか

 - 五十六年後、茨木のり子を/から考える」

野村喜和夫「茨木のり子と金子光晴」

細見和之「茨木のり子の全人性」


《茨木のり子の作品》

大岡信との対談「美しい言葉を求めて」(谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波文庫)所収)

茨木のり子「はたちが敗戦」(『ストッキングで歩くとき』堀場清子編たいまつ新書1978年)

茨木のり子「「櫂」小史」(『現代詩文庫20茨木のり子』所収)

茨木のり子『ハングルへの旅』(朝日新聞社)

茨木のり子『わたくしたちの成就』(童話屋)

茨木のり子/長谷川宏『思索の淵にて - 詩と哲学のデュオ』(近代出版)

茨木のり子『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書9)

茨木のり子『個人のたたかい ー金子光晴の詩と真実ー』(童話屋)

茨木のり子『茨木のり子全詩集』(花神社)

谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波文庫)

高橋順子選『永遠の詩② 茨木のり子』(小学館)


茨木のり子の詩と茨木のり子関連記事 (最終更新日2021-12-23)





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