詩人茨木のり子の年譜(改訂ー1)
1926(大正15)年6月12日
宮崎洪(ひろし)と勝の長女として、父の赴任地の大阪(回生病院)で生れる。
父はスイス留学の経験もある長野県出身の医師、母は山形県庄内出身。
茨木のり子はペンネーム。本名は三浦のり子(独身時代は宮崎のり子)。
父・宮崎洪;
宮崎は信州・長野の出身で、生家は善光寺門前で味噌・醤油を商っていた。
1920(大正9)年、金沢医学専門学校(後の金沢大学医学部)を卒業、病院勤務を経て、スイス・ベルン大学に留学、「ドクトルメヂチーネ」(医学博士)となる。
帰国後、済世会大阪病院耳鼻咽喉科医長となり、大阪在住時に長女のり子が誕生。
その後、京都帝国大学医学部解剖学教室専修科生、医学部副手などを経て、1932(昭和7)年、西尾に、さらに吉良に居を構える。
1942(昭和17)年、吉良吉田駅前に宮崎医院を開く。
宮崎医院は現在三代目(二代目はのり子の弟・英一、三代目は英一の長男で、のり子の甥の宮崎仁)が継いでいる。
のり子の夫も医師で、夫、父、弟、甥と、彼女の周辺は医師たちの家系が続いている。
もう一人の甥、英一の次男・宮崎治も国立成育医療研究センターの勤務医。
「茨木 ・・・父は長野県人。末っ子で後を継がなくてもよかったものですから、金沢医大を卒業してドイツへ留学して、戻って来て就職するについて愛知県に来たんです。
・・・
茨木 初めは大きな病院の副院長をしてまして、途中で戦争中無医村みたいなところがたくさんできまして、町議会で医師を招く運動があって、それで吉良吉田というところへ行ったわけです。
大岡 ああ、吉良上野介のね。
茨木 そこで開業したんです。
大岡 その時初めて開業されたんですか。
茨木 ええ、私が女学校を卒業するくらいに開業したんです。おそいんですよ、とても。それまでは勤務医でした。私は物心ついたら愛知県で育っていた、ということですね。京都で研究生活したときもあって京都でも暮らしましたし、幼稚園のとき愛知県へまいりました。・・・」
(大岡信との対談「美しい言葉を求めて」 谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波文庫)所収)
茨木のり子(39歳)第三詩集『鎮魂歌』(思潮社1965年)収録の長編詩「花の名」は、この2年前に亡くなった父・宮崎洪の追悼詩。
告別式の帰り道での追想と、列車に乗り合わせた「登山帽の男」との会話が交互に登場する。出だしはユーモラスである。
「花の名」
(略)
女のひとが花の名前を沢山知っているのなんか
とてもいいものだよ
父の古い言葉がゆっくりよぎる
物心ついてからどれほど怖れてきただろう
死別の日を
歳月はあなたとの別れの準備のために
おおかた費やされてきたように思われる
いい男だったわ お父さん
娘が捧げる一輪の花
生きている時言いたくて
言えなかった言葉です
棺のまわりに誰も居なくなったとき
私はそっと近づいて父の顔に頬をよせた
氷ともちがう陶器ともちがう
ふしぎなつめたさ
菜の花畑のまんなかの火葬場から
ビスケットを焼くような黒い煙がひとすじ昇る
ふるさとの海べの町はへんに明るく
すべてを童話に見せてしまう
鱶に足を喰いちぎられたとか
農機具に手をまき込まれたとか
耳に虻が入って泣きわめくちび 交通事故
自殺未遂 腸捻転 破傷風 麻薬泥棒
田舎の外科医だったあなたは
他人に襲いかかる死神を力まかせにぐいぐい
のけぞらせ つきとばす
昼もなく夜もない精悍な獅子でした
まったく突然の
少しの苦しみもない安らかな死は
だから何者からかの御褒美ではなかったかしら
(略)
父の葬儀に鳥や獣はこなかったけれど
花びら散りかかる小型の涅槃図
白痴のすーやんがやってきて廻らぬ舌で
かきくどく
誰も相手にしないすーやんを
父はやさしく診てあげた
私の頬をしたたか濡らす熱い塩化ナトリウムのしたたり
農夫 下駄屋 おもちゃ屋 八百屋
漁師 うどんや 瓦屋 小使い
好きだった名もないひとびとに囲まれて
ひとすじの煙となった野辺のおくり
棺を覆うて始めてわかる
味噌くさくはなかったから上味噌であった仏教徒
吉良町のチエホフよ
さようなら
(略)
母・大滝勝;
1905(明治38)年、山形県東田川郡三川(みかわ)町の庄内平野有数の大地主の家に七人兄弟姉妹の次女として生まれる。
当主は、江戸・天保年間には江戸城西丸普請に冥加金を献上したと三川町史に記載されている。
戦後の農地改革によって豪農の世は終わるが、イギリス人研究者ロナルド・ドーアは大滝家に滞在し『日本の農地改革』(岩波書店、1965)という書物を書き残している。
勝は、明治の終わりから大正はじめにかけて小学校や女学校に通っている。女学校は鶴岡にある鶴岡高等女学校(現県立鶴岡北高校)。
母のくに
鶴岡市内から北へ車で十数分、地名でいうと山形県東田川部三川(みかわ)町東沼。広い敷地に、堂々たる家屋の農家が立っている。代々、当主は大瀧三郎右衛門を名乗って、戦前は庄内平野有数の地主だった。茨木の母、大瀧勝の実家である。
茨木十一歳、小学校五年生の日、勝は結核で亡くなる。後年、茨木は「母の家」と題する詩を書いている。
《雪ふれば憶う
母の家
たる木 むな木 堂々と
雪に耐えぬいてきた古い家(中略)
母はみの着て小学校へ通った
櫛はわらじをはいて二里の道を女学校へ通った
それがたった一つ前の世代であったとは!》
エッセイ「東北弁」では、「家のなかで奔放に庄内弁をしゃべりまくる母は天馬空を行くがごとしであった」のが、標準語を使うときはしおらしく、別人のように見えたとある。
《私が言葉というものになにほどか意識的になり、後年詩などを書いて踏み迷う仕儀に至るのも、遠因は母が二刀流のように使う二つの言葉のおもしろさに端を発していたのかもしれない》
とも記している。
母が故人となって以降も、茨木はよく山形に帰郷した。「沼のばばさま」こと祖母の大瀧光代が孫娘の茨木を可愛がった。後年、茨木の伴侶となる三浦安信も庄内の人であるが、彼との見合いをすすめたのもばばさまである。
(後藤『評伝』)
《参考資料》
後藤正治『清冽 詩人茨木のり子の肖像』(中央公論社)
後藤正治『評伝茨木のり子 凛としてあり続けたひと』(『別冊太陽』)
金智英『隣の国のことばですもの 茨木のり子と韓国』(筑摩書房)
成田龍一「茨木のり子 - 女性にとっての敗戦と占領」(『ひとびとの精神史第1巻 敗戦と占領 - 1940年代』)
井坂洋子『詩はあなたの隣にいる』(筑摩書房)
芳賀徹『みだれ髪の系譜』(講談社学術文庫)
中村稔『現代詩の鑑賞』(青土社)
高良留美子『女性・戦争・アジア ー 詩と会い、世界と出会う』(土曜美術社)
小池昌代「水音たかく - 解説に代えて」(谷川俊太郎編『茨木のり子詩集』所収)
蘇芳のり子『蜜柑の家の詩人 茨木のり子 - 詩と人と』(せりか書房)
『展望 現代の詩歌 詩Ⅳ』(明治書院)
『文藝別冊「茨木のり子」』所収論考
長谷川宏「茨木のり子の詩」
若松英輔「見えない足跡 - 茨木のり子の詩学」
姜信子「麦藁帽子にトマトを入れて」
河津聖恵「どこかに美しい人と人との力はないか
- 五十六年後、茨木のり子を/から考える」
野村喜和夫「茨木のり子と金子光晴」
細見和之「茨木のり子の全人性」
《茨木のり子著作》
大岡信との対談「美しい言葉を求めて」(谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波文庫)所収)
茨木のり子「はたちが敗戦」(『ストッキングで歩くとき』堀場清子編たいまつ新書1978年)
茨木のり子「「櫂」小史」(『現代詩文庫20茨木のり子』所収)
茨木のり子『ハングルへの旅』(朝日新聞社)
茨木のり子『わたくしたちの成就』(童話屋)
茨木のり子/長谷川宏『思索の淵にて - 詩と哲学のデュオ』(近代出版)
茨木のり子『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書9)
茨木のり子『個人のたたかい ー金子光晴の詩と真実ー』(童話屋)
茨木のり子『茨木のり子全詩集』(花神社)
谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波文庫)
高橋順子選『永遠の詩② 茨木のり子』(小学館)
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