2021年12月26日日曜日

詩人茨木のり子の年譜(改訂ー4) 1945(昭20)19歳 「ろくにお風呂にも入れず、薬瓶のつめかえ、倉庫の在庫品調べ、防空壕掘りなど真黒になって働き、原爆投下のことも何も知らなかった」(「はたちが敗戦」)      

 


詩人茨木のり子の年譜(改訂ー4)


1945(昭20)19歳

この年から、医学系の女子の専門学校にも動員がかかる。

この年の夏、茨木は世田谷区上馬にあった海軍療品廠、海軍のための薬品製造工場に泊り込みで詰めていて、「ろくにお風呂にも入れず、薬瓶のつめかえ、倉庫の在庫品調べ、防空壕掘りなど真黒になって働き、原爆投下のことも何も知らなかった」とある。

東京の空は日夜、爆撃機B29が来襲した。空襲警報が鳴り、防空頭巾をかぶって防空壕に入る日々 -。


昭和二十年、春の空襲で、学生寮、附属病院、それと学校の一部が焼失し、毛布を切って自分で作ったリュックサックに身のまわりのものをつめて、ほうほうのていで辿りついた郷里は、東海大地震で幅一メートルくらいの亀裂が地面を稲妻型に走っており怖しい光景だった。激震で人も大勢死んだが、戦時中のことで何一つ報道されてはいなかった。

医師も軍医として召集され、無医村になったところがあちこちに出来、父は吉良町の町議会から懇望されて、既にその町で開業していた、が、まるで野戦病院の観を呈していた。繃帯、ガーゼの類もなくなり、オシメ、古浴衣の袖ありとあらゆるポロ布を消毒して傷口に当てていた。治療してもらう患者は、ポロ布持参であり、家では一日中、煉炭でグツグツ消毒煮であった。

なにもかもが、しっちゃかめっちゃかの中、学校から動員令がきた。東京、世田谷区にあった海軍療品廠という、海軍のための薬品製造工場への動員だった。

「こういう非常時だ、お互い、どこで死んでも仕方がないと思え」という父の言に送られて、夜行で発つべく郷里の駅頭に立ったとき、天空輝くばかりの星空で、とりわけ蠍座がぎらぎらと見事だった。当時私の唯一の楽しみは星をみることで、それだけが残されたたった一つの美しいものだった。だからリュックの中にも星座早見表だけは入れることを忘れなかった。

東京の疲労は一段と深くなっていて、大半は疎開したのだろう、残っている人達は、蒼黒く、或いは黄ばんだ顔で、のろのろと動いていた。輸送機能も麻痺したらしく、布団を送った学生の集結地から世田谷区上馬の動員先まで一人一人が布団をかついでいけということになった。重くかさばる布団袋を地面をひきずり、国電にひきずりこみ、やっとの思いで運んだ。現在国立第二病院になっているところで、自由ケ丘のあたりを通るとき、そのときの蟻のようだった私たちの姿が幻覚されることがある。

七月初から八月十五日迄、短い期間だったが暑いまっさかり、ろくにお風呂にも入れず、薬瓶のつめかえ、倉庫の在庫品調べ、防空壕掘りなど真黒になって働き、原爆投下のことも何も知らなかった。八月十三日の夜、宿舎で出た魚が腐敗したものだったらしく、そこに配属されていた学生十人ばかりが全員吐いたり下したりで苦しんだ。

八月十五日はふうふうして出たが、からだがまいって、重大放送と言われてもピンとこなかった。大きな工場で働いていた全員が集まり、前列から号泣が湧きあがったが、何一つ聴きとれずポカンとしていた。自分たちの詰所に戻ってから、同級生の一人が「もっともっと戦えばいいのに!」と呟くと、直接の上司だった海軍軍曹が顔面神経痛をきわだたせ、「ばかもの!何を言うか! 天皇陛下の御命令だ」それから確信を持って、きっぱりとこう言ったのだ。「いまに見てろ! 十年もたったら元通りになる!」

(「はたちが敗戦」)



敗戦放送の翌日、友人と二人で郷里に向かう。東海道線は大混乱で、蒲郡までたどりついたが、無賃乗車であった。

東海道線で小田原を過ぎて熱海の手前、根府川という小さな駅がある。詩「根府川の海」の一連はこうである。

《ほっそりと

蒼く

国をだきしめて

眉をあげていた

莱ツパ服時代の小さいあたしを

根府川の海よ

忘れはしないだろう?》

根府川の海 茨木のり子 (『対話』1955年11月不知火社刊 初出「詩論」1953年2月 詩人27歳)


郷里の吉良は、東京の激動と混乱が嘘のようにのんびりとしていた。

秋になって、再び上京。

大森の軍需工場の跡地が学校の仮の寮となっていた。


敗戦後、さまざまな価値がでんぐりかえって、そこから派生する現象をみるにつけ、私の内部には、表現を求めてやまないものがあった。

学校の再開もおぼつかなかったし、家の仕事を手伝いながら、いろいろ思いめぐらしているところへ秋頃、突然学校から文書が届き、「試験をやるにつき出てくるように。この試験を受けたものは、ともかく四年生に進級させる」というようなこと、が書かれていた。試験をするも何も、授業も勉強もしておらず、そんな具合でただただ四年生になるのかと渋ったが、父は「行ってこい」の一点張りで、「薬学への道を決めたのは私だが、お前もそれを肯い志を立てた以上、途中放棄はいけない。ともかく薬剤師の免許を取れ。それさえも出来ないようなら、これからやりたいという文学の道だって貫くことは出来なかろう」と理路整然と説かれ、それもそうかと説得されてしまい上京した。

焼けた学生寮に代り、今度は大森の、かつての軍需工場の寮が宿舎になった。東京の荒廃はすさまじく、防空壕を仮すまいとし虫のように出たり入ったりする人々の営みが、あちらにもこちらにも点々と連なっていた。銀座も瓦礫の山で、場所によっては一望千里の趣があった。アメリカ兵、復員兵が盗れ、闇市に食を求める人々が犇めき、有楽町、新橋駅のガード下あたり毒茸のようにけばけばしいパンパンが足をぼりぼり掻きながら群れていた。

同級生の中には進駐軍を恐れ、娘の操を守るべく、はやばやと丸坊主になってしまった人もいて、しばらくの闇頭巾をかぶって登校していた。

(「はたちが敗戦」)


《参考資料》

後藤正治『清冽 詩人茨木のり子の肖像』(中央公論社)

後藤正治『評伝茨木のり子 凛としてあり続けたひと』(『別冊太陽』)

金智英『隣の国のことばですもの 茨木のり子と韓国』(筑摩書房)

成田龍一「茨木のり子 - 女性にとっての敗戦と占領」(『ひとびとの精神史第1巻 敗戦と占領 - 1940年代』)

井坂洋子『詩はあなたの隣にいる』(筑摩書房)

芳賀徹『みだれ髪の系譜』(講談社学術文庫)

中村稔『現代詩の鑑賞』(青土社)

高良留美子『女性・戦争・アジア ー 詩と会い、世界と出会う』(土曜美術社)

小池昌代「水音たかく - 解説に代えて」(谷川俊太郎編『茨木のり子詩集』所収)

蘇芳のり子『蜜柑の家の詩人 茨木のり子 - 詩と人と』(せりか書房)

『展望 現代の詩歌 詩Ⅳ』(明治書院)


『文藝別冊「茨木のり子」』所収論考

長谷川宏「茨木のり子の詩」

若松英輔「見えない足跡 - 茨木のり子の詩学」

姜信子「麦藁帽子にトマトを入れて」

河津聖恵「どこかに美しい人と人との力はないか

 - 五十六年後、茨木のり子を/から考える」

野村喜和夫「茨木のり子と金子光晴」

細見和之「茨木のり子の全人性」


《茨木のり子の作品》

大岡信との対談「美しい言葉を求めて」(谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波文庫)所収)

茨木のり子「はたちが敗戦」(『ストッキングで歩くとき』堀場清子編たいまつ新書1978年)

茨木のり子「「櫂」小史」(『現代詩文庫20茨木のり子』所収)

茨木のり子『ハングルへの旅』(朝日新聞社)

茨木のり子『わたくしたちの成就』(童話屋)

茨木のり子/長谷川宏『思索の淵にて - 詩と哲学のデュオ』(近代出版)

茨木のり子『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書9)

茨木のり子『個人のたたかい ー金子光晴の詩と真実ー』(童話屋)

茨木のり子『茨木のり子全詩集』(花神社)

谷川俊太郎選『茨木のり子詩集』(岩波文庫)

高橋順子選『永遠の詩② 茨木のり子』(小学館)


茨木のり子の詩と茨木のり子関連記事 (最終更新日2021-12-26)



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