治承4(1180)
7月
・興福寺で、別当僧正方と一乗院法印方とが争う。別当僧正が社司と同意して福原に春日の正体を移そうとした為という。
・諸国に配流の後白河法皇近臣の帰京が許される。源資賢、藤原光能、高階泰経、平親宗などが古京に戻るが、出仕はまだ許されず。
・旱魃と疫病の流行。
5月からの旱魃が、7月には所々の水が涸れ、17日に炎旱の祈りが行われる。8月6日、ようやく雨が降るが、既に損亡著しく、養和の飢饉の前触れとなる。
7月下旬、多くの人々が病気に罹る。兼実、良通の新妻も、摂政基通ら。高倉上皇の病気は重大な事態で、厳島詣は中止され、27日、宗盛のみが出かける。28日、東寺の禎喜が孔雀経法による病平癒の祈りを行い、頼盛屋敷が悪所とのことで蔵人頭重衡の宿所に移る。
・畠山庄司重能(重忠の父)・小山田有重・宇都宮朝綱、大番のため上洛。
7月5日
・源頼朝、伊豆走湯山住職に会い、以仁王の令旨を掲げて挙兵する決心を打ち明ける(「吾妻鏡」同日条)。
□「現代語訳吾妻鏡」。
「乙卯。晴。・・・昨日、御書を送って走湯山の僧侶である文陽房覚淵を召された。今日、北条の御屋敷に参ったので、武衛(源頼朝)は、その僧侶に語って仰った。「私は心に思うところがあって、法華経の読経一千部を終えた後に自分の真意を表明しようと以前から願っていたが、事態が急変したので、これ以上後に延ばすことが出来そうにない。そこで、転読した分八百部でもって、仏に(自分の願いを)申し上げようと思うがどうであろうか」。覚淵が申すには、「一千部に達していないとはいえ、申されることは、仏の思し召しにそむくものではありません。」という。そこで、仏前に香花を供え、その趣旨を仏に申し上げた。まず表白を唱えた。「君(頼朝)は、恐れ多いことに八幡大菩薩の氏人で、法華経八軸を護持するものです。八幡太郎(源義家)の遺跡を継承し、昔同様関東八カ国の武士を従えております。八逆を行う凶悪な八条入道相国(平清盛)の一族を退治なさることは、掌の内にあります。これはすべてこの法華経八百部を読誦したことの加護によるものです」。頼朝は特に感動され、儀式が終わった後に(覚淵に)布施を与えた。判官代(藤原)邦通が布施取の役を務めた。夜になり、導師(覚淵)は退出した。門の外に来たところで再び呼び返し、「世の中が静まったならば、蛭島の地を今日の布施として与えよう。」と仰った。覚淵はたいそう喜んで、退出したという。」
○義家(1039長暦3~1106嘉承元)
源頼義の嫡男。母は上野介平直方の娘。前九年の役の功により、康平6年、従五位下・出羽守に叙任。延久2年に下野守。園城寺僧鎮圧や白河天皇の八幡行幸の前駆を勤める。後三年の役では、これを私闘とみなした朝廷より恩賞が得られず、私財をもって麾.下の将兵に報いる。
7月7日
・藤原定家(19)、法勝寺御八講に参仕。
8日、最勝光院御八講に参仕。
15日、法勝寺盂蘭盆会に参るも、仏事既に終了。この日、外祖母藤原親忠妻、この日より瘧(オコリ、マラリア)病を病む。
16日、法勝寺如説仁王会に参仕。
17日、俊成マラリヤ発病。家中の人々、青侍・女房に至るまで並び臥す。
19日、俊成は、仏厳房を招き受戒。不動尊造立供養をする。
23日、定家は、八条院の鳥羽院での美福門院(八条院母、藤原徳子)月忌仏事に参仕。同日、俊成は大般若を行い、僧30人を招く。なお癒えず。俊成は定家に、この家を避けよというので北小路(成実邸)に宿る。
24日、母加賀も罹病
25日、俊成夫妻、七条坊門に移る。夫妻、瘧病・痢病を患い、8月まで病む。
「七月十五日。晴天。亭主、礼仏ノタメ御堂ニ参ゼラル。行歩叶ハザルニ依り、輿乍ラ参ゼラル。堂中、女房四五人、扶持シテ歩行。皆単衣重ヲ着ス。高倉卿・少納言・肥前・越中(袖)。法勝寺孟蘭盆ニ参ズ。事訖りテ人々退出スル間ナリ。七条坊門ニ宿ス。今夜月蝕卜云々。暑気ニ依り格子ヲ上ゲ、只明月ヲ望ム。終夜片雲無シ。蝕見エズ。如何。」(「明月記」)。
(俊成は、歩行困難のため輿にて法勝寺に赴く。扶持の女房たちの衣裳を書きとめる。月蝕というので期待して待ったが、蝕はなかった。天文方の予測が当らなかったのか。)
7月14日
・高倉上皇と七条院藤原殖子(24)の間に第4皇子尊成(たかひら)親王(後鳥羽天皇)、誕生。
7月19日
・「流星アリ、大サ炬火ノ如シ」(「百練抄」同日条)
7月20日
・この頃から高倉上皇が病となり、しだいに憔悴し、『玉葉』によれば24日にはすでに助からないといわれている。
7月23日
・頼朝に参じる人々。
□「現代語訳吾妻鏡」
「突酉。佐伯昌助という者がいた。筑前国住吉神社の神官だったが、去年五月三日に伊豆国に流されていた。同じ神社の祀官である昌守も、治承二年正月三日に当国に流されたという。その昌助の弟である住吉小大夫昌長が初めて武衛(源頼朝)のもとに参上した。また、永江蔵人大中臣頼隆も同じく初めて参上した。頼隆は伊勢神宮の両官の子孫で、ここ数年は波多野右馬允義常のもとにいて、最近になって主人に背くことがあったので参上したという。この二人は、源氏のために兼ねてから人知れず徳を表していただけではなく、それぞれ神職を勤めたいと求めてきたので、(頼朝のための)祈稀を命じるために仕えることをお認めになったという。」
○昌助(生没年未詳)
筑前国住吉社神主。治承3年伊豆に配流(「玉葉」治承3年5月3日条)。弟は昌長。
○昌守(生没年未詳)。
筑前国住吉杜の神官、昌助と共に伊豆に配流。
○昌長
佐伯昌助の弟。山木攻めで頼朝軍勢に従い、戦場で祈祷。
○頼隆
伊勢神宮両官の後胤。永江蔵人を称す。石橋山の戦で頼朝軍に同行
7月28日
・高倉上皇の病気は重大な事態となり、厳島に詣でる計画は中止され、宗盛のみが27日に出かけている。この日(28日)、東寺の禎喜(ていき)が孔雀経法による病平癒の祈りを行い、荒田の頼盛の屋敷が悪所であるということから蔵人頭の重衡の宿所に移り、翌日には兵杖・封戸(ふこ)・尊号(そんごう)を辞退している。
さらに病の重いことから、上皇は天下の事の沙汰を摂政に託し、今後は政治のことにはいっさい関与しない意向が伝わった。これに摂政は承知した旨を返答したものの、摂政自身が病に躍っており、面会できる状態ではなく、もちろんこのような上皇の意向を清盛が認めるはずもなく、上皇がやや病を持ち直すと、その後も院政は続き、大嘗会をどこで行うべきか、古京に帰るべきかなどの審議がなされている。
福原の重衡亭は安徳天皇の内裏となった清盛の別荘のすぐ南、雪御所の名で呼ばれた邸宅である。高倉上皇は4ヵ月弱をそこで過ごした。
7月30日
・尊号・随身辞退し、高倉が「天下の事」をすべてを委ねるとした基通が、「瘧病」を発し、病状は悪化していった。院と摂政がともに病に倒れるという非常事態に陥る。
多分この頃のことであったと想われるが、のち(8月29日)、兼実は太政官の実務を束ねる大夫史(たいふし)小槻隆職(おづきたかもと)の話として、兼実を内覧とするという「内議」があったと聞かされる。
こののち、兼実は頼朝の推挙により内覧になる。
つづく
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