治承4(1180)
6月19日
・三善康信(頼朝乳母の甥、頼朝ブレーン)の使者(弟康清)、蛭ヶ小島に近い伊豆北条に到着。源頼政・仲綱挙兵との関連で、令旨を受けた諸国の源氏が追討されるかも知れず、早急に奥州に逃れるように進言。22日、使者は頼朝の書状を携えて帰洛。(「吾妻鏡」)。尚、康信は、寿永3(1184)年4月鎌倉下向。
□「現代語訳吾妻鏡」。
「庚子。散位(三善)康信の使者が北条に到着した。武衛(源頼朝)は人目のないところで対面された。使者は次のような康信の考えを申し上げた。「先月二十六日に高倉宮(以仁王)が討ち死にされた後、以仁王の令旨を受けた源氏は、すべて追討せよという命令が出されています。あなた様は源氏の正統ですから、特に御注意が必要です。早く奥州の方にお逃げ下さい」。この康信の母は、頼朝の乳母の妹である。その縁により康信の志は完全に源家にあり、さまざまな障害をかいくぐり、十日に一度、毎月三回使者を送って、洛中の情勢を伝えてきていた。そして今、源氏を追討する命令が出されたという重大事なので、弟の(三善)康清と相談し、病気と称して朝廷への出仕を休ませ、使者として遣わしたという。」。
○三善康信:
鎌倉幕府の初代問注所執事。法名善信。明法家三善家に生まれ、「中宮大夫属康信」(「吾妻鏡」治承5年閏2月19日条)が通称であり、太政官弁官局および二条天皇中宮(藤原育子)の中宮職に出仕する官僚と想定され、朝廷内で裁判訴訟に熟知した官僚としての才能が、後に頼朝の期待するところとなる。三善康光の男。右少史を経て応保2年2月19日、中宮属に任ぜられ、同年10月28日、従五位下に叙せられる。その後出家。母が頼朝の乳母の妹であったところから流罪中の頼朝に京都の情報を提供。
頼朝に請われて鎌倉に下向し、寿永3年(1184)初代問注所執事となり幕府の基礎を固める。特に奥州征伐の際には頼朝から鎌倉留守役を拝命される(「吾妻鏡」文治5年7月17日条)。また幕府政治の基礎を固める上で有益な記録類を保持していたと思われ、承元2年(1208)康信の名越の邸宅の文庫が火災で全焼し、「散位倫兼日記」等累代の文書が灰燼に帰し、茫然自失し落涙したという(「吾妻鏡」正月16日条)。承久の乱勃発に際し、病身ながら、御家人たちの人心が動揺せぬ内に軍を即時進発させることを主張し、幕府方の電撃的勝利をもたらす(「吾妻鏡」承久3年5月21日条)。
6月20日
・「三井寺の僧徒罪科の趣、宣旨を下されをはんぬ。」(「玉葉」同日条)。三井寺の門徒僧綱の所領没収、朝廷主催の法事には召さず、僧官を解くと決定。8月18日、処分解除。
「・・・仍って門徒・僧綱已下、皆悉く公請を停止し、見任並びに綱位を解却す。また末寺庄園、及び彼の寺僧の私領は、諸国の宰吏に仰せ、早々収公す。・・・」
6月23日
・九条兼実の1男良通(14)、藤原(花山院)兼雅の娘(母は清盛の娘、つまり清盛の外孫)と結婚(「玉葉」同日条)。平家嫌いの兼実であるが、保身のためと思える。
6月24日
・源頼朝、安達盛長・中原光家を使者に伊豆・相模の源氏累代の家人に召集呼びかける。~7月10日に戻る。首藤経俊・波多野義常らは同意せず、工藤茂光・土肥実平・岡崎義実・佐々木盛綱は味方となる。この月半ば、三善康信より「君は正統なり。殊に怖畏あるべきか」との書状が届き、この頃、挙兵を決意したと思われる。
□「入道源三位敗北の後、国々の源氏を追討せらるべきの條、康信が申状、浮言に処せられべからざるの間、遮って平氏追討の壽策を廻さんと欲す。仍って御書を遣わし、累代の御家人等を招かる。籐九郎盛長御使いたり。また小中太光家を相副えらると。」(「吾妻鏡」同日条)。
「籐九郎盛長申して云く、厳命に従うの趣、先ず相模の国内進奉の輩これ多し。而るに波多野右馬の允義常・山内首藤瀧口の三郎経俊等は、曽って以て恩喚に応ぜず。剰え條々の過言を吐くと。」(同7月10日条)。
□「現代語訳吾妻鏡」。
「乙巳。入道源三品(頼政)が敗北した後、諸国の源氏を追討するように命令が出された、という(三善)康信が伝えた情報は、噂として聞き流すわけにはいかないので、(頼朝は)逆に平氏を追討する計略をめぐらそうと考えた。そこで、御書を送って源氏累代の御家人たちを呼び寄せることとした。藤九郎(安達)盛長を使者とし、小中太(中原)光家を副えられたという。」。
「十日、庚申。藤九郎(安達)盛長が申し上げるには、「(頼朝の)厳命を受けて、まず相模国では請を差し出す者は多い。しかし波多野右馬允義常と山内首藤滝口三郎経俊は、呼びかけに応じないばかりか、いくつもの悪口さえ言っている。」とのことである」。
○安達盛長:
武蔵の在地武士、源家譜代の家人。安達氏の祖。頼朝の乳母の1人で、配流中の頼朝を援助した比企尼の長女丹後内侍が盛長に嫁す。この頃、相模・下総の源氏にゆかりのある武士たちを招致すべく使者として各地に立廻る。頼朝が鎌倉に根拠を置き、南関東支配を完成迄の間、常に頼朝側近にあって尽力、功績は極めて大。幕府開設後、頼朝はしばしば甘縄の盛長邸に赴き、挙兵当時の辛苦の懐旧談をする。
6月27日
・三浦義澄・千葉胤頼、京の大番役から帰国、源頼政・仲綱挙兵と結果を報告(「吾妻鏡」同日条)。東国の源氏勢力への弾圧が近いとの観測が伝えられ、挙兵準備について話し合われたと想像できる。
□「現代語訳吾妻鏡」。
「戊申。(三浦)義明の二男の三浦次郎義澄と、(千葉)常胤の六男の千葉六郎大夫胤頼が北条に参上し、「このところ京都に祇候しており、先月中旬に帰国しようとしたところ、宇治で合戦があったため、官兵に京都にとどめられていたので、今に遅れてしまいましたが、ここ数カ月の不安や心配を晴らすために参上いたしました。」と(頼朝)に申し上げた。二人はこのところ大番役のために在京していたのである。頼朝はこの二人とお会いになり、しばらくの間、密やかに話されていたが、その内容を他の人は知らない。」。
○千葉胤頼
千葉常胤6男。五位の位階を得て、千葉六郎大夫、東六郎大夫を称す。頼朝を烏帽子親として、一字を与えられる。以仁王の挙兵後、伊豆に下向して頼朝の許に参じる。
○千葉介常胤(1118元永元~1201建仁元)
下総権介千葉常重の男。母は平政幹の女。下総国の在庁宮人で有力武士団を形成。長承4年(1135)相馬御厨の下司職を父より譲られるが、父が官物を未進したため、御厨は国司藤原親通と源義朝の介入をうける。常胤は父の末進年貢を納付し、久安2年(1146)相馬郡司となり、改めて御厨を伊勢神宮に寄進。義朝の傘下に入り、保元の乱に参加。平治の乱後、相馬御厨は国衙によって没収され、佐竹義宗が支配権を主張、神宮庁の裁定結果、常胤は敗訴。
治承4年9月安房に逃れた頼朝は、常胤に参戦を促す。子の胤正・胤頼が「なんぞ猶予の儀に及ばんや」と決断を促し、常胤は参戦を決意、「当時の御居所は、させる要害の地にあらず、また、御嚢跡にあらず。速やかに相模国鎌倉に出でしめたまうべし。」と頼朝の鎌倉入りを進言(「吾妻鏡」治承4年9月9日条)。9月17日、常胤は、子の胤正・師常・胤盛・胤信・胤道・胤頼・嫡孫成胤等300余騎相具して参戦。頼朝は、「常胤をもって父となすべき」とこれを歓迎。同年10月、富士川合戦後、平家軍を迫って上洛しようとする頼朝を、常胤・三浦義澄らが、「まず東夷を平ぐるの後、関西にいたるべし」と諌める(「同」治承4年10月21日条)。寿永3年(1184)一ノ谷の軍勢に加わる。頼朝は、華美を好む武士に対し、「常胤・(土肥)実平がごときは、清濁を分たざるの武士なり」「おのおの衣服巳下、麁品(ソヒン)を用いて美麗を好まず。故にその家富有の聞こえありて、数輩の郎従を扶持せしめ、勲功を励まんとす」と、常胤の実直な生活を賞賛(「同」元暦元年11月21日条)。翌年、範頼軍に属し、豊後国に渡る。頼朝は、「千葉介、ことに軍にも高名し候いけり。大事にせられ候うべし」とその軍功を称え(「同」元暦2年1月6日条)、「千葉介常胤、老骨を顧みず旅泊に堪忍するの条、ことに神妙なり」「常胤の大功においては、生涯さらに報謝をつくすべからざる」と評す(「同」元暦2年3月11日条)。文治3年(1187)8月洛中狼籍を取り締まる使節として上洛。文治5年(1189)頼朝奥州征伐にあたり、旗一流を献じ、 東海道の大将軍をつとめる。奥州合戦の勲功賞として、所領を拝領。建久元年(1190)頼朝入洛に随行。建久3年、所領安堵の政所下文を下されるが、別に頼朝直判のある下文を所望(「同」建久3年8月5日条)。建久5年(1194)東大寺戒壇院の営作にあたる。建仁元年(1201)3月24日没(84)。
○三浦義明(1091寛治5~1180治承4)
父は三浦相模介義継(次)。娘は義朝の長男義平の母。義澄・佐原義連等の父。桓武平氏流と伝える。相模国三浦荘に本拠をもち、三浦氏を称する。また、相模国在庁官人として三浦大介と号す。義朝家人として従軍し、頼朝挙兵後は、子の義澄以下一族を石橋山の陣に向かわせるが、風雨に阻まれ丸子河辺までしか行けず間に合わず。その地で頼朝の敗戦を聞き、三浦に戻ろうとする途中の由比ガ浜で畠山重忠軍と合戦。勝利し衣笠城に引き上げるが、援軍を得た畠山軍に攻められ落城。義明は「今老命を武衛に投げうちて、子孫の勲功に募らんと欲す」(「吾妻鏡」治承4年8月26日条)と語り、一族を脱出させ一人城に残って防戦し、最期を遂げる(89)。後年、頼朝は義明の追善供養のため、三浦郡矢部郷内(横須賀市大矢部)に一堂の建立を命じる(「同」建久5年9月29日条)。
○三浦義澄(1127大治2~1200正治2)
三浦大介義明の次男。三浦次郎・三浦介、相模国守護。父と共に義朝家人として平治の乱に参戦。敗戦後、平氏政権下で京都大番役を勤める。頼朝挙兵後、父義明の命により一族と共に出陣。衣笠城に戻った所を畠山軍に攻められ落城。父の一命を賭した機転により脱出、安房に渡り頼朝と合流。10月、富士川の戦の帰途、相模の国府で勲功の賞が行なわれ、三浦介継承を許される。宿老の一人として軍議に参加。元暦元年(1184)範頼に従って西海に出陣。翌年正月、周防国に警備のため留まるが、義経に命じられて平氏追討の先鋒として壇ノ浦で活躍。奥州征伐でも軍功をあげる。建久3年(1192)、頼朝を征夷大将軍に任ずる除書を受け取る大役を果たす(「吾妻鏡」7月26日条)。頼家の代の合議制の13名の宿老の1人。正治2年(1200)正月23日没(74)。
6月27日
・新都福原から、高倉の七瀬の御祓の撫物が閑院に届き、定家も奉仕する。
「六月二十七日。晴天。昨日催シニ依り、束帯シ閑院ニ参ズ。七瀬ノ御祓(院)。御撫物長橋一合ニ取り入レ、新都ヨリ之ヲ渡ス。此ノ御所ニ於テ、奉行蔵人(経泰)之ヲ取り分ケ、使々ニ授ク。侍従成家・中務李信・侍従伊輔・下官・判官代信政五人ナリ。近衛ノ末ニ向フ。閑院ニ帰参シ、蔵人ニ付ケテ退出ス。七条坊門ニ宿ス。」(「明月記」)。成家は、定家の兄。
6月29日
・伊豆国の知行国主に平時忠が任命され、この日、時忠の養子時兼が伊豆守に補任。目代には、在国する山木兼隆が就任。
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