1894(明治27)年
11月21日
東学農民軍討伐隊第1中隊,忠清道清風(チョンプン)の「城内洞(ソンネドン)進入」。
「同二十一日,午前七時,忠州出発。途中二里余,至る所の村落に東党の接首あるを聞き,その家屋に到りし所,逃走不在に付,家屋焼失す。また更に前進して四里を過くる所に村落あり,城内洞と云ふ,民家悉皆焼失せり。これ前に後備第十聯隊,東学此所に集合せしを撃退の際,焼きし者とぞ,我隊至るや,村民又恐怖し逃走す。午後五時清風に着泊,行程八里。」(陣中日誌)
11月21日
禿木の親戚の武笠銀助の娘はるが初めて稽古に来る。「暗夜」続稿(その7~12)を送る。その際、星野天知に「冬ごもりのたきもの」として、まとまった金を依頼する。
24日、星野天知から「暗夜」の原稿料を含め20円が渡される。"
11月22日
清国、米国公使を経由して、朝鮮独立承認・賠償金支払を条件に講和会談開始を提案。
27日、日本が拒否。
11月23日
中路を進む後備歩兵独立第19大隊南小四郎少佐、この日、前12時清州出発、文義県を経て至明楼に至り賊徒に遭遇し、戦闘数次にわたり沃川方向に撃退し、直ちに支隊を出しこれを追撃する。同日仁川伊藤司令官および京城公使館へ戦況を報告する。
〈中路隊の作戦遅延〉
日本軍「東学党討伐隊」の中路隊(後備第19大隊第3中隊と大隊長の大隊本部)は,ソウルを出て龍仁(ヨンイン),陽知(ヤンジ),竹山(チュクサン),鎮川(チンチョン),清州と南下してきた。兵力は、中隊が後備兵221名,本部隊が後備兵56名、合計277名である。また,後備第18大隊第1中隊の1小隊,そして巡査「若干名」も参加したと南大隊長は,「東学党征討経歴書」に記している。日本兵士は,あわせて約300名で、朝鮮政府の京軍,教導中隊316名も同行していた。清州では,地元の鎮南営兵100名が参加。こうして大隊本部第3 中隊の全軍は,あわせて約700名余と見られる。
ソウル出発時の当初の作戦予定では,中央部西よりの中路を,まず京畿道を南下,進軍の6日目,11月18日に,清道に鎮川から入る。以後,19日に清州,20日文義,21日増若,22日赤登洞,23日永同,24日秋風峠で忠清道を抜けて西南部の慶尚道へ入る予定であった。5日間で忠清道の北接東学農民軍討滅を終える計画であった。ところが,作戦予定は,忠清道へ入る前から遅延していた。
清州に入るのは,11月22日。文義へ入るのは,23日,3日遅れであった。
この後,21日に入る予定であった増若には,30日。赤登洞に22日に入る予定が,実際には,赤登洞手前の沃川に入ったのが12月1日。沃川を出るのは6日になった。14日遅れて沃川を出たことななる。18日をかけて,ようやく沃川を出て,いまだ忠清道のなかを進軍という様相となる。
〈文義・沃川戦争;渓谷と山岳地帯の戦い〉
大隊本部第3 中隊が文義に入ったのは11月23日で,沃川を出て錦山(クムサン)へ向かうのは12 月6日。この14日間,文義と沃川の間で,「数万名」(「東学党征討経歴書」) の北接東学農民軍と日本軍大隊本部第3 中隊との戦闘があった。一地域の戦闘としては,長期間の東学農民戦争であった。農民戦争最大の戦闘と言われた公州戦争は,戦闘休止時期があり,実質の戦闘期間は7日間であった。
公州は,文義の西方,30余キロにあり、公州戦争と中央山岳部の文義・沃川戦争とは,お互いに関係していた。
公州戦争が一時休止していた11月25日,公州の日本軍西路隊から中路を文義まで進んでいた南大隊長へ,「公州城危急」の報せと,至急来援要請がなんども入る。仁川兵站監部も救援を指令してきた。
そのため翌26日,大隊本部第3中隊は,中路を離れて西方へ転じ,燕岐(ヨンギ)街道に入って,公州城の援軍に向かい、その夜は,燕岐里手前の村に泊まった。ところが同夜,背後の増若で北接東学農民軍がふたたび大蜂起して,後方へ残留させていた日本軍小隊が清州まで退却したとの報せが届く。
そのため翌27日,大隊本部第3中隊は,再度反転して文義へ戻る。大隊本部第3 中隊の文義への退却から,文義・沃川の間の戦争は,12月6日までさらに10日間つづいた。公州戦争が終わるのは,その翌日,7日である。
大隊本部第3中隊は、文義へ南下,至明の戦い,公州救援のための西方転回,東学農民軍の再蜂起と北上,文義への退却という紆余曲折した動きをすることになる。
〈23日、24日の戦い〉
23日,大隊本部第3中隊は,清州を夜1 時30 分に出発,深夜をついて南下した(既述)。
東学農民軍は,文義の南,山々に囲まれた渓谷にある要地,至明で日本軍を待機していた。東学農民軍の反撃は強力で地雷も敷かれ,日本兵一人が実際に地雷で負傷した。大隊本部第3中隊は,東学農民軍を沃川手前の増若まで撃退するが,やがて文義へ退いた。
翌早朝,小隊を増若へ派遣して,農民軍が山岳と渓谷を迂回して北上し,日本軍の背後へまわるのを防いだ。
11月25日
第1軍山県司令官、大本営指令に反し独断で海城作戦下命。
11月25日
中路を進む後備歩兵独立第19大隊南小四郎少佐、この日、伊藤司令官より、東路にある東学党討伐隊に京城守備隊の1中隊を増加したとの電報を受ける。西路分進中隊長大尉森尾雅一より公州城の危急を報告し、再三来援を求める 〔牛金峙の戦い〕
勝敗の分岐点となった公州牛金峙の戦いでの惨状を全琫準は陳述で「二回の対戦後(公州戦は二度あった)、一万余名の軍兵を点呼すると、残ったものはわずか三千名であり、その後ふたたび対戦後に点呼すると五百余名に過ぎなかった」と述べている〔『東学農民革命100年』つぶて書房〕
翌26日、宮本支隊は周安付近において賊徒に遭遇し、戦闘はげしく努めるが賊徒数万、弾薬欠乏のため一時文義県に引き揚げその危急を報告する。
この日(25日),公州の第2中隊から全琫準らの南接東学農民軍の勢いが盛んで「形勢極めて危い」と救援要請があいついだ。大隊本部第3中隊自身も,北接東学農民軍の盛んなことに「困却」しており,東学農民軍が文義へ再北上して,日本軍の「背面を切断」することを恐れていた。
しかし26日,仁川兵站監部からも急報があり,1支隊を後方となる沃川方面へ残して背後を警戒しつつ,公州へと燕岐街道を進んで,燕岐里の手前,龍湖里(ヨンホリ)に宿泊した。ところが同夜,この沃川方面へ残した1支隊から,東学農民軍「数万名」(「東学党征討経歴書」) が沃川方面で大蜂起したと,つぎのように報せが入る。
「沃川方面に退いていた北接東学農民軍は,本軍,左翼軍,右翼軍の3つの軍陣を敷き,2つの軍が日本軍に激射する間に,右翼軍が山岳をたどって北上した。東学農民軍は,山々から「兵少なし,取巻」と大声をかけながら北上。朝鮮政府軍の教導中隊や鎮南兵は,戦意無く,沃川方面に残した中路軍支隊は,至明から文義,清州城まで退却した。文義の農民の大半が東学農民軍に加わった」
このように沃川方面で東学農民軍がふたたび蜂起,北上し、残留支隊清州退却の報せで,大隊本部第3中隊は,文義へと戻った。
沃川方面で蜂起したのは,「一万以上の敵」であり,日本軍「費消弾丸,一四三二発」(「増若付近戦闘詳報」),あるいは,「賊徒数万,弾丸為に欠乏」(「東学党征討経歴書」) であった。「大小五十余の旗を立て」という戦闘詳報などからも,数十の接組織(東学農民軍は接名を記した旗の下にまとまった)が参加していたのであり,「忠清道だけでなく,京畿道,江原道,慶尚道などから」集まった北接東学農民軍だったことを確認している。北接農民軍の戦法も高度で,「朝鮮の戦闘方法」だったと述べる。
〈高度の戦法、高い士気、優れた指導者を有する北接東学農民軍〉
公州へと救援に進軍する際、南大隊長は,次のように述べた。
「公州と文義の間は,山嶽丘陵これを阻て,且つ彼の東徒中,乱暴者の呉一相(オイルサン)の徒,この間に潜伏し居るやも知るへからす,若し彼にして,この間に在りて,後方に洩るる時は」
大隊長は,公州へと向かうあいだも,「背面を切断」する東学農民軍の現れるのを恐れたと述べ,具体的に文義・沃川北接東学農民軍の指導者の名前をあげた。呉一相という指導者を名指しし,「彼の東徒中,乱暴者」と述べる。
呉一相は,9月23日,忠州において,朝鮮政府の宣撫使から可興の福富大尉に渡された「忠清道東学党巨魁人名録」に、文義の指導者,接主として,朴桐瑩(パクトンヨン)とともにこの2人が記されている。「彼の東徒中,乱暴者」とは,東学農民軍のなかでも,抜きんでて戦闘意志が強く,熟練した指導者という意味を含む言葉であろう。
至明の戦いにしろ,増若の戦いにしろ,この文義の指導者呉一相と北接東学農民軍は,文義と増若,沃川の間を,渓谷や山岳の地理を利して,縦横に往来して活動していることが分かる。そういう指導者を文義が生み出しているということは,文義と沃川の間にも,地域の分厚い東学農民軍参加者がおり,その支持者の基層が広汎に存在していることを示している。この状況のなかで,南大隊長は,「我背面を断たるるの恐れ」,「背面を切断せらるるの恐れあり」 を述べた。
また大隊長が公州へ転ずる際に,後方での再蜂起を防ぐために残留させた1支隊の少尉は,「増若付近戦闘詳報」で北接東学農民軍の次のような戦いを報じていた。
「敵(東学農民軍) の右翼軍は,山を伝ひて文義方面に進行し,本軍と左翼軍は,我兵(日本軍1支隊) に向ひ一斉急射をなす,是に於て,韓兵(朝鮮政府軍) は怖れて退却す,敵はこれに勢を得て,山々より兵少し取巻との大声を発し,益々北進す」
北接東学農民軍は,山々に登って(高地から),「山々より兵少し取巻との大声を発し」た。(「(日本兵は) 少い,取り巻け」との大声を発して北進した)。ここには,日本兵の弱点をついた戦法が認められる。武器は破滅的な程に劣勢であったが,東学農民軍は地元を知悉し,地の利も得ていた。数が圧倒的に少数の日本軍は,東学農民軍の大海に囲まれて,孤立させられる危険が実際にあった。大隊長や少尉がのべている「恐れ」や「困却」は,言葉通りの恐怖であったであろう。「従軍日誌」筆者の,「文義より沃川に至る間の村落,悉皆東学党に組し」という文言は,事実そのものと思われる。
0 件のコメント:
コメントを投稿