1895(明治28)年
2月
孫文、広州で興中会設立
2月
西園寺公望、「脚本改良の集談会」主催。演劇改良論議
2月
「青年文」創刊。
2月
川上眉山「書記官」
2月
広津柳浪「変自伝」
2月
平安神宮竣工。明治26年11月着工
2月
アンリ・マチス(26)、再びエコール・デ・ボザールを受験、合格。
3月、正式にモロー教室に入り、H.マンギャンらと知り合う。隣人の画家エミール・ヴェリと共に屋外で描くようになる。
2月1日
日清両国全権、広島で会商。
翌日、伊藤首相が清国全権の委任状が不備と指摘し、決裂。
12日、清国全権、長崎より帰国。
2月1日
京都電気鉄道、日本で最初の電車を京都の塩小路~伏見間で開通(後の京都市電)。モーターは25馬力1台だけのため速度が遅く、電車が通ることを警告するために電車の前を走る少年(先走り)を配置。
2月1日
雨天。一葉、村上浪六を訪ねる。世間では武骨な荒くれ男と噂するが、情に篤く、今度結婚する相手は吉原遊郭の縁でそこから出してやるためだという。
文学論;
「源氏物語」は立派な作品だが、紫式部も自分と同じ女性であり、あれを超える作品が出ないのは、描こうとする者がなかったからだ。古いものに囚われず、現代に即した書き方をすべきである。
人生論;
世に英雄豪傑というのは大袈裟で、隠れた偉人も多くいる。天地はすべて平等で、人間が勝手に身分というものを作り出したのであり、娼婦を卑しいとし、紳士がこれを踏み躙るのは許されることではない、など。
2月1日
ロシア、極東問題に関する第2回特別会議。日本の旅順・大連割譲要求への対応協議。
2~3月、露英仏3国間で協調して「朝鮮の独立とその領土保全」を要求すると結論。
7日「タイムズ」がこれをスクープ、3国は中国の寸土も日本の領土とすることを許さないであろうと伝える。陸奥外相は各国公使にその真偽調査を電訓。
2月1日
米、映画監督フォード、誕生。
2月2日
「東徒討伐の報告」(『日本』2月2日付)
朝鮮南部の全羅道や慶尚道ではなく,北部の黄海道地方の殲滅作戦の報道。平壌作戦以降設置されていた兵站司令部の漁隠洞から西南8里(約32キロ) の「セウタク」というところで,1月20日東学500名が山中少尉の部隊と戦闘し,「苦戦一時間余にして賊一名を傷け撃攘」したという。戦利品は「銃五十挺,鎗五本,旗三旈其の他書類」であり,銃の多さなど南部の東学より重装備なのは清国軍の敗走と関連しているかもしれない。
近くの殷栗では「東党の主領株四名」の捕縛と共に,「火薬五百二十斤,銃二百五十挺及び鎗刀書類等」を分捕った。この銃の多さと火薬の多さ(312キログラム) も,東学の侮れない武装力を示している。
そこで兵站司令部は,銀波は朝鮮兵部隊,山中部隊に漁隠洞守備隊から抽出した2個分隊を加えて,松禾から長淵に向かわせ,中山部隊は海州から長淵に向かわせ,挟撃して殲滅作戦を行う指示を出した。『東朝』は,同内容の記事を2月1日付に「黄海道東徒の形勢」として掲載していて,地名の「セウタク」には「松禾(ショウクワ)」をあてている。
2月3日
威海衛占領。
第2軍第2師団歩兵第4連隊第2大隊と第16連隊第2大隊、威海衛を偵察に出て、前夜中に清軍撤退を知る。午前9時30分頃、入城。10時30分頃、前衛前兵も入城。北岸の砲台を占領。
2月3日
一葉が、野々宮菊子に依頼していた10円の借金に対し、8円が送られる。また、菊子より紀元節に学校で行われる式典で読む祝文及び9日に行われる教育会で発表する生徒の誡告文の添削を求められる。
2月4日
後備歩兵独立第19大隊第1中隊第2小隊の第2分隊(「従軍日誌」筆者)は、東学党討伐大隊の本部が置かれていた羅州(ナジュ)へ,討伐をほぼ終結して2月4日に入る。大隊本部が1ヶ月置かれており,東学農民軍に対する処刑が行われていた。
「南門より四丁計り去る所に小き山有,人骸累重,実に山を為せり。是は前日,長興府の戦後,捜索厳しき故,東徒居所に困難し,追日我家毎に帰らんとせしを,彼の民兵,或は我が隊兵に捕獲せられ,責問の上,重罪人を殺し,日々拾二名以上,百三名に登り,依てこの所に屍を棄てし者,六百八十名に達せり。近方,嗅気強く,土地は白銀の如く,人油結氷せり。如斯死体を見しは,戦争中にも無き次第なり。この東学党の屍は,犬鳥の喰所となれり。」(「従軍日誌」)
(羅州城の南門から4丁ばかりのところに、小さな山(「人骸累重」)があった。戦いの後,日本軍は,朝鮮の民兵や日本軍自身によって、ひそかに家へ戻ってかくれようとする農民軍を探して捕らえ,「責問の上,重罪人を殺し」た。処刑は,毎日,少ない時は12名,多い時は103名にのぼった。死体は,680名になった。)
南大隊長の井上馨公使への報告では,羅州での処刑は,230名と記されていたが,「従軍日誌」では,その三倍の700名にちかかった。
〈大本営の「ことごとく殺戮命令」が兵士たちにもたらしたもの〉
●自殺
日清戦争で,朝鮮において,後備兵たちは東学農民軍討伐というもっとも凄惨な戦いの最前線に立たされた。第2次東学農民戦争は,日清戦争のなかで最大の朝鮮農民の犠牲者を出した。
朝鮮農民の戦死者は,3万名を越えるのは確実で,5万名に迫ると推計されている。14.9ミリの大口径ライフルのスナイドル銃と,徴兵制で訓練された日本兵士は,東学農民軍に対して凄惨な,苛酷な討伐を展開した。下士官たちは,東学農民軍を前世紀の粗末な武器をもつ未開の弱兵,「暴民」と呼んだ。「百発百中,実に愉快」と言い切っていた。
朝鮮兵站線守備隊で,東学農民軍討伐の最前線に常に居た二人の指揮官が,帰国を前に,朝鮮で自殺した。一人は,可興の司令官,後備第10聯隊第1大隊第1中隊の大尉福富孝元である。釜山の後備第10聯隊の陣営で,1895年4月28日午後,軍刀をもって頸動脈二ヶ所を切り,自決した。発見後,一時,5月2日「精神元に復し」たが,同月13日亡くなった。高知市出身で,つねに東学農民軍討伐の最前線にいた人物である。
もう一人は,釜山の小隊長,後備第10聯隊第1大隊第3中隊中尉,遠田喜代で,朝鮮南海岸の凄惨な討伐戦の指揮官であった。帰国を前に,1895年10月2日,地理実査に出て行方不明になり,捜索の末,6日深夜,蔚山(ウルサン)街道で自害しているのが発見された。松山市出身。妻と2人の子供がいた。
●逃亡
後備第10聯隊第1大隊,兵站線守備隊の「陣中日誌」(1894年10月19日)
第四中隊より逃亡兵護送として広島に派遣せり。
(第4中隊における逃亡兵の広島へ護送の記事)
1894年9月下旬から10月下旬にかけて,第4中隊は,鈴木安民大尉,中隊長の指揮下,慶尚道大邱(テグ),安東(アンドン),台封(テボン)など慶尚道一帯の東学農民軍討伐のもっとも中心的役割を果たしていた。鈴木大尉は,この「陣中日誌」に数多くの討伐報告書を残している。その第4中隊から,討伐作戦中に逃亡兵が出ている。
兵士の階級や氏名は不明である。
●発狂
同じ後備第10聯隊第1大隊第2中隊では,1894年秋,慶尚北道海平(へピョン)の兵站部司令官,香川少佐は,現場で「発狂」している。
(9月11日)
本日,洛東今橋少佐より,海平司令官,香川少佐,発狂の気味ある旨,電報あり
(9月12日)
海平兵站司令官,香川少佐,愈発狂に確定せるを以て,洛東司令官今橋少佐に命し,釜山へ還送の取計を為さしめ,又副官田中中尉に司令官代理を命す
このころ,東学農民軍の日本軍への電信線切断や蜂起は慶尚道の各地で起きており,9月24日,多富(タブ)司令官渡辺少佐から次の様な命令を出したと電報が届いた。「電線切断する事二回,東学党の所行たる事明かなり,守備兵を昼夜巡回せしめ,又は窃に伏兵を置き,怪しき者は打殺し,地方官より地方官へ告示させよ。誤りにてもかまはす,つまり半殺にして置く勿れ,特に夜間を注意せよ。○此事を海平,洛東へも直くに通せよ」。
9月30日には,釜山の第5 師団中路兵站監本部は,洛東司令官へ次のような電報を発した。「夜中巡回を密にし,怪しきものは,誰彼れの別なく,殺戮せよ」。
こうした命令が出された直後にあたる10月2日,利川の田中中尉から「井上軍曹,誤て自殺の時」と報じ,これを守備隊(第1中隊) 中隊長福富大尉へ報告した,と電報がとどく。この報告を受け取った福富大尉も日清戦争後,釜山の陣営で自殺した。
日本軍兵站線守備隊であった後備第10聯隊第1大隊は,第1中隊では,利川兵站部の軍曹が自殺し(1894年10月2日),第1中隊長もその後,釜山で自殺する(1895年4月28日)。第2中隊では,海平兵站部司令官の少佐が発狂して送還された(1894年9月11日)。第3中隊は,中尉が蔚山で自殺し(1895年10月),第4中隊で一人の逃亡兵を出している(1894年10月)。
上の後備第10聯隊第1大隊は,釜山から慶尚道を北上し,小白山脈を越え,忠清道を経て,京畿道をソウルへと入る兵站線守備隊であった。日清戦争の間,蜂起した東学農民軍と戦いつづけていた。その一大隊の指揮官を中心として,自殺が3名,発狂が1名,逃亡兵が1名出ている。これは公式記録に残された範囲で分かったことにすぎない。多数出た戦病死も,病名など明らかでないのだが,こうした死者が居た可能性がある。
つづく
0 件のコメント:
コメントを投稿