2024年5月7日火曜日

大杉栄とその時代年表(123) 1894(明治27)年10月21日~27日 日本、英の講和条件打診を拒否(日本の領土的野心に対する懸念) 第3師団、鴨緑江渡河し九連城・安東県占領 第1師団、遼東半島南西岸上陸 可興他で北接東学農民軍の日本軍への一斉攻撃 井上馨公使、漢城着任 川上操六兵站総監命令「東学党に対する処置は厳烈なるを要す,向後悉く殺戮すへし」    

 

井上馨

大杉栄とその時代年表(122) 1894(明治27)年10月10日~20日 第1軍混成立見旅団、義州占領 清軍、九連城を中心に防禦配置 第7議会、広島に召集(挙国一致体制) 内相井上馨、朝鮮駐在公使任命 北接東学農民軍の第1回蜂起 陸軍大将大山巌、第2軍司令官として出征 第1軍、鴨緑江畔に到着 より続く

1894(明治27)年

10月21日

江戸川乱歩、誕生。

10月22日

午後5時37分、庄内地震。マグニチュード7.3、死者・行方不明者726人、全半壊6255、焼失2148

10月23日

政府、イギリスの講和条件打診に拒否の回答。世界は、日本の戦争目的が単に朝鮮の領土保全や戦費賠償でないことを認識。(朝鮮の保護国化、旅順を含む中国領土分割の野心を認識し危惧を抱く。後年の「三国干渉」の道開く)。

陸奥はイギリス公使の質問に答える為に講和条件を起草。甲案は、日本の望む「極度」を明言し、朝鮮の独立(事実上の保護国化)、旅順と大連湾の割与、軍費賠償、欧州諸国と同一特権を保証する通商条約承認を条件とし、乙案は、列強の干渉を緩和する為に朝鮮独立の列強による共同保障を認め、旅順と大連の割与の代りに台湾を要求し、他は同じという案。伊藤首相は甲案に同意する、占領していない旅順・大連割譲と軍費賠償は作戦進行の後に宣言するのがよいと注意。

この日、陸奥はイギリス公使の催促をうけて、「事体ノ進歩ヲ以テ尚ホ未だ談判上、満足ノ結果ヲ保証スルニ足ラズ」と回答、事実上イギリスの申出を拒絶。列強は、この回答で日本の戦争目的が清国分割にあることを知る

10月24日

午前11時10分頃、日本軍第1軍第3師団佐藤支隊第2大隊第5中隊、内杜武谷の地点で鴨緑江渡河開始。11時47分、渡河完了。左岸に展開・前進し、後続の第6、7、8中隊と共に左岸占領。夜6時より静波門北方で架橋工事開始、25日午前6時完成(全長193m)。

他方、24日午後11時30分、歩兵第6連隊は船3隻で渡河(25日午前5時30分完了)し、虎山の清軍守備隊を攻撃。清軍には聶や宋らが派遣した新鋭の援軍が続々到着。日本側にも歩兵第12連隊が応援。午前10時30分~午後0時20分にかけて、清軍は退却。

10月24日

日本軍第2軍(陸軍大臣大山厳大将)第1師団遼東半島南西岸花園口に無血上陸開始。~11月1日。

10月24日

貔子窩で海岸防備している栄安、花園口付近に日本船停泊の報に斥候派遣、日本人通訳を捕え上陸状況を知る。25日夜、別に捕えられた通訳と共に金州に送られる。金州で再度取調べ、日本軍が金州・大連を目指すのを知り、徐邦道・趙懐業は北洋大臣李鴻章に報告、来援要請。

10月24日

日本軍洛東兵站部,東学農民軍約4000名が丹陽へと蜂起し,丹陽府を占領したと報告。これは,北接東学農民軍の一斉蜂起,安保・忠州・可興などへの襲撃の前哨戦。

10月26日

可興・忠州・安保(アンボ)における北接東学農民軍の日本軍への一斉攻撃

可興では,東学農民軍「東学党約二万人許」が牧渓東部,可興の東南2キロの内倉(ネチャン)に集結し,「正に可興(日本軍兵站部) を襲はん」とした。牧渓東岸まで進出した「約七八百名許」の東学農民軍の先陣と日本軍と,可興戦闘が行われた。対岸で「一人首領の如きもの青旗を振ひ叫号して令を伝ふるものの如し」。銃撃戦で撃退したが,日本兵憲兵上等兵一人が戦死。

これらの一斉蜂起や戦闘は,日本軍広島大本営が後備第19 大隊を日本から派遣する作戦をたてる要因になった。

10月26日

午前6時、日本軍第3師団前衛より、九連城に向けて出発。前夜、九連城の清軍は退却しており、これを占領。

一方、午前6時50分、安東県北方高地の清軍砲台を砲撃。応戦なし。ここも前夜退却。

九連城・安東県は戦わずに占領

10月26日

新公使井上馨、漢城着任。大鳥公使・大院君との関係清算。「右に大院君を斥け、左に王妃を抑える」政策。28日、信任状捧呈。

11月4日、国王謁見。閔妃も屏風を半ば開き会談に参加。井上の大院君批判に、王夫妻は王権復活・閔氏一族復帰を期待。

10月26日

『東朝』10月26日の「東学党追討」。「韓廷の嘱託に応じて東学党征伐の為め」日本軍2個小隊を忠清道に派遣したと報じる。

10月27日

午後8時15分、第3師団大迫支隊、大東溝を占領。11月1日、大孤山を占領。

10月27日

夜,仁川(インチョン)南部兵站監が受信した大本営の川上操六兵站総監電報に、「川上兵站総監より電報あり,東学党に対する処置は厳烈なるを要す,向後悉く殺戮すへし」とある。この広島の大本営からの命令は,東学農民に対して,厳しく激(烈) しくせよと,またこれから「ことごとく殺戮」すべし,という明確な命令である。

10月27日

『東朝』10月27日付の第一面トップの「鴨緑江戦報」で紙面中央のほぼ一段に「東学党の近状」が掲載。

釜山の特派員からのこの記事は,「真の東学党」と「類似東学党」を区別し,別個の対策を求める。記事が示す「東学党」の姿は,武器は火縄銃や槍刀など不十分なものだが,「概ね帽を戴かず只浅黄色の布片を頭に纏ひ肩より背に懸け同じ色なる襷をあや取り,中にハ胸に数珠を懸けし」など統一した集団を想像させる。「類似東学党」であっても,貧民たちが食にありつくために蜂起したことを「一揆の如きもの」と形容するなど社会矛盾の結果としての蜂起を受け容れているように読める。この記事によっても,慶尚道・忠清道・全羅道の各地に東学農民運動が広がっていることがわかる

10月27日

『日本』10月27日付「東学党の近状在釜山空々亭主人」では、この記者が,「知人の我軍兵両三名と忠清道より鳥嶺の険を踰え慶尚道尚州に出で大邱を過ぎ密陽を通り当港に帰り来りたる」を聞き取った内容の記事である。

その談話は,「進んで日本人に害を為さんとする者なく」,「敢て日本人を襲ふに非ずして官衙を襲はん為めなり」「現今起り居る東学軍は,忠清道に於けると慶尚道に於けるとを問はず,日本人に向て言ふ時には,貴国は我々に対し害を為せしに非ず,故に貴国人に対しては怨恨なし,全く関係なきなり,何を苦んて貴国人に向て害を為さんや,我々に起りし所以は我朝鮮国の酷吏を懲らすにありと云へる」とあって,排外主義でなく,日本人排除もなく,朝鮮政治改革派としての東学軍が描かれている。そこからこの記者が判断したのは,「今回蜂起の東学軍は本年五六月中に起りし東学軍の首領再ひ起て指揮するに非ざるが如し。即ち貧民或は無頼の徒相集り今回の擾乱に乗じ種々乱暴なる挙動を為すに過ぎざるが如し。」と,5 月全州占領に至った東学農民運動と,9月から蜂起した民衆を完全に区別している。改革派の東学農民運動には期待感すらあるので,この記事の末尾は「東学軍の方針目的を世人に紹介する亦た遠きにあらざるべし」,近々記事にするだろうという楽観論で結ばれている。


つづく

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