1894(明治27)年
8月15日
朝鮮、第1次金弘集内閣成立。内部大臣朴泳孝、外部大臣金允植、度支部(大蔵)大臣魚允中ら知日派要職。但し、金弘集さえ清国勝利を予想して、秘かに書状を送り、後日朝鮮政府の立場を釈明する準備工作をする。
8月17日
閣議、陸奥外相、対朝鮮政策4案提示し決定求める(①自主独立放任、②保護国化、③日清両国の共同担保、④永世中立国化)。保護国化を「目的」とするという基本が決定。
速戦即決が困難である以上、支配下においた朝鮮からできるだけ多くの利権を獲得する為、陸奥外相は、大鳥公使に、列強が干渉する前に「マトリアール的ノ事業ヲ日本ノ手ニ取ル事」を実行するよう指示し、「当分ノ内ハ恩ヨリモ寧ロ威ヲ以テ脅シ付ケ」、将来「清国流ノ政府ガ再興」しても無効とならぬよう条約で鉄道・電信・鉱山の利権を獲得せよと命じる。
ついで陸奥は朝鮮政略の4つの選択を閣議に問う。(甲)朝鮮を独立国として遇する、(乙)名義上独立と公認し事実上保護国とする、(丙)日清両国の共同保護下におく、(丁)列強の共同担保で朝鮮を永世中立国とする。陸奥は、(甲)は戦争の結果を「水泡」に帰す、(丙)は日清間に意見一致が不可能、(丁)は列強に「名誉卜利益」を分与し「到底世論ノ攻撃ヲ免レ」ず、と否定。
残る(乙)には、①従来、朝鮮独立・領土保全を列強に公言してきたから、「他外国ノ非難卜猜忌トヲ招キ、或ハ之ガ為メニ無数ノ葛藤ヲ生ズル憂」があり、②将来朝鮮が侵略された時、「独力ヲ以テ終始同国ノ外患ヲ防禦シ、之ヲ保護スルコトヲ得ベキカ」との2つの疑点がある。この日(17日)閣議はこの2点について自信がない為、確定を後日に譲り「乙案ノ大意ヲ目的」とすることに決定。この方針に基づき、「朝鮮をわが手中に繋留」する目的で、20、26日、暫定合同条款及び大日本大朝鮮国両国盟約を朝鮮に押し付ける。
8月19日
野津道貫第5師団長、漢城到着。大島混成旅団は第5師団に合併。9月15日、平壌包囲、一斉攻撃の計画。
8月19日
連合艦隊、第5師団第4次輸送を援護して長直路を出港。21日、ベーカー島に着、上陸援護。24日、牙山を仁川方面の仮根拠地とし、艦隊の一部をおき、指揮官を坪井少将とする。25日、長直路に戻る。
8月20日
李鴻章、朝鮮国王から援助要請の密電をうける。この頃、大院君・高宗・閔妃の夫々が日清両国に二重外交を行う。
8月20日
日朝暫定合同条款調印。
①朝鮮政府は日本の内政改革勧告受入れ、②日本による京仁・京釜鉄道敷設承認、③開戦前に無断施設した軍用電線の条約化など。
8月20日
「国民新聞」、イギリスが条約改正に応じたのは「彼は日本の思ひしよりも頼母敷を知」り、他方清国が「必ずしも恒久にして真実なる与国と云ふ可らざることを発見」したからだと論じる。
既に4月20日、「国民新聞」は、アジアにおけるイギリス市場を維持するには、清国・日本と同盟すべきだというイギリス人ハルレットの意見を紹介し、大隈外相の条約改正交渉に「聞魔顔」を示したイギリスが「今や地蔵面と一変」したのは、東洋に対するヨーロッパ列国の動向が一変し、このためイギリスの方針が日清英同盟へと変ったからと論じている。
8月23日
内村鑑三、「日本は東洋における進歩主義の戦士である。ゆえに進歩の大敵である支那諸国を除けば、日本の勝利を希望しないものは世界万国にあるわけがない」(「国民之友」)。
「新文明を代表する小国」にして 「東洋 における進歩主義の戦士」である日本が 「旧文明を代表する大国」中国を打ち負かすことは歴史の必然である。「・・・日本の勝利は歴史の保証する所、人類進歩の促がす所、摂理の約する所、億兆の望む所なり」。
(この頃は、まだ非戦論の立場には立っていない)
8月25日
北里柴三郎、ペスト菌を発見。
8月25日
高野房太郎、労働騎士団に手紙。組織の実態についての情報を求める。ジョン・ヘイズより返信。
8月26日
大日本大朝鮮両国盟約調印
攻守同盟。清国との戦争に協力、朝鮮政府は日本軍の進退・糧食準備に便宜を与える、平和回復後廃止など規定。日本軍の人馬・糧食の徴発ができるようになる。日本軍・金弘集政権への民衆の反撥。
8月26日
半井桃水の弟・重太が夭折
8月27日
森鴎外(32)、陸軍中路(のち第2軍)兵站軍医部長として朝鮮釜山に赴く。一旦帰国し、広島で執務。11月、大連出征。
8月27日
米、ウィルソン・ゴーマン関税法成立。平均関税率が39.9%に引下げ。
8月28日
福沢諭吉、激越な言葉をつらねて国民の「大奮発」を促す。
「日本国中一人も残らず一心同体の味方にして、目差す敵は支那国なり。我が国中の兄弟姉妹四千万の者は同心協力してあらん限りの忠義を尽くし、外にある軍人は勇気を奮って戦い、内に留守する吾々はまず身分相応の義捐金するなど差し向きの勤めなるべけれど、事切迫に至れば財産を挙げてこれを擲つは勿論、老小の別なく切り死にして、人の種の尽きるまでも戦うの覚悟をもって、ついに敵国を降伏せしめざるべからず」。
8月30日
大本営、第1師団に動員下命。
8月30日
改進党系「毎日新聞」、日英新条約成立を高く評価し、「我れ戦勝の余威に乗じて(清国と)新約を締ぶの日は、英仏諸国の清国に臨むが如く、我人民は清国に治外法権を存すべきは勿論にして、清国人民を我裁判下に立たしむること亦勿論の事なりとす」る。戦争が日清修好条規の不平等化機会をもたらす事を喜ぶ。
8月30日
漱石、正岡子規を訪ねる。
8月31日
川上音二郎一座、浅草座で「壮絶快絶日清戦争」初日の幕を開け大評判。これに刺激され、9月、春木座で「日本大勝利」。
つづく
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