1894(明治27)年
10月10日
東学参礼集会、再蜂起論争
10月10日
~17日、日本軍第1軍混成立見旅団、義州占領。
10月10日
川上音二郎(30)、横浜・港座で「日清戦争」を興行。~21日。以来しばしば港座で興行。
10月10日
この頃、一葉、何度も借金依頼のため訪ねた村上浪六から、用立てを約束する手紙をもらう。
10月11日
急援軍の宋慶の毅字軍、九連城入り(29日旅順、8日鳳凰城)。
13日頃、黒竜江将軍依克唐阿、九連城入り。清軍の九連城を中心とした葦子溝から安東県に到る防禦配置確定。尚、葉志超提督・盛字軍統領衝汝貴は官職を奪われ、葉の軍は聶士成が後継。
10月12日
『東朝』10月12日付の「東学党の近状」
「洛東附近各兵站司令官の報告」では「豊基,丹陽報恩郡地方ハ尚該党の巣窟にして支那人数十名加はり居る由」と清国人の存在を報じ,「牙山残兵」の想定や「報恩地方其他にて支那人を合せて十二名を捕縛し今仁川に護送中」と報道。
洛東江の中心地洛東の東にあたる安東県醴泉・龍宮あたりは鎮圧したが,西にある豊基,丹陽,報恩辺などは未だ鎮圧できず,それに清国人数十名が加わっているという。これらの地方は清国軍が駐屯していた牙山から直線距離で約80kmである。日本軍にとって,ますます東学農民運動制圧の必要性が増してきた。
10月15日
第7議会、広島に召集。
9月15日、大元帥である明治天皇が大本営のある広島に行幸し、「当分の間」滞在することになり、第4回総選挙結果をうけた帝国議会も特例として広島市で開催することとなった
18日開院。23日閉会。臨時軍事費特別会計法(明治27年6月1日に遡り~戦争終結)を可決し、これに基づく第1次予算案1億5千万、交付。その他、公債募集に伴う法案など全ての議案が通過。議会の広島開催は戦争遂行のための挙国一致を作り上げるのに役立つ。翌年3月、第8通常議会で臨時軍事費予算1億円を追加交付。
10月15日
内相井上馨、朝鮮駐在公使任命。
16日、福沢諭吉「井上伯の渡韓を送る」(「時事新報」)。
10月16日
北接東学農民軍の清州付近,第1回蜂起。
この日、北接東学農民軍が行動開始、清州地域に集合し、22日,清州城を襲撃,4日後,26日に敗走する。しかし、この蜂起に敗北した後も,北接東学農民軍は,報恩その他で活動をつづけ勢力を集める。
10月16日
陸軍大将大山巌、第2軍司令官として出征。
10月16日
漱石、菅虎雄の世話で小石川の尼寺法蔵院(現小石川3丁目、伝通院脇の別院)に下宿する。松山に赴任するまで(~明治28年4月2日)。
この日付けの子規宛てはがき。
「塵界茫々毀誉の耳朶を撲(うつ)に堪ず此に環堵(かんと)の室を賃して蠕袋を葬り了んぬ猶尼僧の隣房に語るあり少々興覚申候御閑の節是非御来遊を乞」
同日、狩野亨吉、大塚(当時小屋)保治にもはがきで通知。
狩野には、「所々流浪の末遂に此所に蟄居致候御閑暇の節は御来遊可被下候」、
大塚には「遊子漂蕩の末遂に蠕袋を此所に葬り了り申候 御閑暇の節は御来会可被下候」とある。
狩野亨吉が訪ねてくる。この頃も毎日のように井上眼科に通う。
10月17日
10月15日、より釜山に近い地方の密陽付近で「暴民千五六百名蜂起」という大規模な暴動(「密陽附近暴民の蜂起」『東朝』10月17日号外)。伊藤兵站監から大本営宛の電報という形で発表されたこの記事は,暴民の「八名を斃し十名を傷く」という。ほぼ同じ記事が『日本』10月18日付にも「暴民蜂起」と題し掲載された
10月18日
北洋水師提督丁汝昌、修繕なった6隻のみ率い威海衛に移る。
10月18日
一葉、禿木より、近いうちに『西鶴全集』と、星野天知からの寄贈として『透谷集』とを持参するとの手紙を貰う。
19日、禿木より『暗夜』の続編を21日までに星野天知宛てに送るよう依頼される(結局締め切りには間に合わず翌月回しとなる)。
10月19日
文相西園寺公望、高等師範学校巡視での演説。西洋諸国の「開明進歩」と競ってともに肩を並べられる者は、東洋においては日本以外にないと、日本の優位について確信。
10月20日
~22日、日本軍第1軍主力、所串館・竜川・鉄山付近に到着。
24日、全軍、鴨緑江畔に到着。
10月20日
漱石、狩野亨吉を訪問するが不在。
10月20日
『東朝』10月20日の第一面トップは「日本排斥党」で,『日本』同日付も「日本排斥党起る」という見出しでほぼ同じ文章を掲げた。『東朝』『日本』とも同じ大本営掲示第131号に基づき、「全羅道に彰義軍と称する日本人撃攘主義の暴徒起れり。」という情報により,「朝鮮兵と我兵数小隊派遣」を報じた。
つづく
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