1894(明治27)年
8月
鴎外(32)、「しがらみ草紙」廃刊(第59号)
夏
小泉策太郎(三申)、「自由新聞」記者として入社。1歳年長の幸徳秋水と意気投合。
8月
一葉は戦争に冷静であったが、生活はその影響で困難を極める。年末までに借金の交渉相手は半井桃水、伊東夏子、田中みの子、兄の虎之助、村上浪六、久佐賀義孝など多数に上ったが、いずれも失敗。一方では、平田禿木を通じて「暗夜」までの作品を集めて『明治文庫』へという相談もあったが、『文学界』同人としては自分達の手で出したいという思惑もあって物別れに終る。
8月
ハンガリー、少数民族派、連合委員会設置。共通綱領採択、ハンガリー内での民族的自治要求。パーンフィ首相は対抗措置とる。
8月上旬
漱石、松島を旅行。瑞厳寺に詣でる。菖蒲田海水浴場のホテルで土井晩翠と出会う。
「八月上旬(不確かな推定)、毎年、夏の旅行として、松島に赴く。(伊香保から直行したか、東京を経由したか、実家に滞在した後であったかはよく分らぬ)瑞巌寺に詣でた際、老師南天棒(中原鄧州、天保十年(一八三九)-大正十四年(一九二五))の下で坐禅を組もうかと思ったがやめる。(松島は、船に乗って見物したと推定される)一泊以上滞在したものと推定される。松島に近い菖蒲田に滞在し、勉強したという説もある。」(荒正人、前掲書)
8月1日
清国、対日宣戦勅諭。
清国の政治指導は、形式的に大権を持つ光緒帝と実権のある李鴻章・西太后の間に分裂。李は避戦の政略から軍事行動に積極性を欠き牙山の清国軍を戦略上不利な状況においたまま、皇帝派の主戦論に押されて戦争に突入。清国では政略が戦略に介入し、合理的作戦計画立案が困難。また、対清戦争を目標に整備された徴兵令による国民的軍隊で、機動的な野戦師団と新式速射砲搭載の快速艦による均勢とれた艦隊で構成される日本軍に対し、朝鮮に出動した清国軍は、政敵から李鴻章を守る私兵で、兵站を欠き機動作戦の能力がなく、示威の為の軍隊である。世界有数の巨艦を擁する北洋艦隊も必要な修理・改装が怠られ、訓練不足とあいまって実際の戦闘力は疑わしい状況。それを知る李鴻章は、避戦主義をとり戦闘準備に遅れ、北洋陸海軍弱体化が権力喪失に繋がるため温存に懸命となり、消極作戦をとる。
清軍は二箇所に作戦計画を集中させる。一つは、北洋海軍を渤海湾の入り口に陣取らせ旅順要塞地と天津とを結ぶ航路を固守しつつ、陸軍の朝鮮進駐を援護すること。二つ目は、陸軍を平壌に集結させた後に再度南下して、朝鮮に入ってきた日本陸軍を攻撃することであった。
北洋大臣李鴻章の命令を受け鴨緑江を越え平壌に進駐してきた部隊は、左宝貴の奉軍、豊中夏の盛軍、馬玉崑の穀軍であった。ここへ葉志超と聶士成が率いて合流した蘆防軍が加勢し1万5千以上が集結した。葉志超は成歓で敗退した後公州と清州を経て江原道へ迂回して平壌へ入っていった。
一方、既に10年以上清国と決戦を準備してきた日本軍の対応は正確であった。清国に派遣された偵察員たちは清国各地から集められた軍隊が武装と訓練面で日本軍に比べ劣等である事実を把握しており、天津と香港などから清国の動向と軍隊に関する情報を仔細に調査し報告していた。日本は清の心臓に該当する地域を一挙に制圧する目標を立てた。
8月1日
日本、対清宣戦布告。
天皇、宣戦詔勅渙発。朝鮮を属邦として内乱に干渉、内乱を口実の出兵の不当性指摘。日朝修好条規以来朝鮮の独立国の権威を尊重してきた日本の正当性を強調。朝鮮の自主独立扶助が開戦の名目。
8月1日
豊島沖で清国艦隊を撃破し、日本は深刻に宣戦布告。大衆が戦勝気分に酔う中で、一葉は戦争の暗面を見るようになる。
禿木より、平田家から嫁を出すことになっている石川栄吉という人物について身辺捜査を依頼される。
2日、中島歌子が杏雲堂病院に入院
8月2日
朝鮮国王,各国公使に援助を要請
8月2日
日清開戦のため、新聞の事前検閲令が公布施行
8月2日
大本営、野津第5師団長に第3次輸送部隊を指揮して釜山~漢城に向かうよう命令。
14日、第10旅団長立見尚文少将に第4次輸送部隊を率い出発命令。
8月2日
大本営、連合艦隊に清国艦隊撃破を命じる。
8月4日
戸川秋骨、島崎藤村らが、禿木・孤蝶と共に一葉のもとに初めて来訪。西片町に住む経済学者田口卯吉邸に書生として寄宿する上田敏を訪れた帰りに、孤蝶の誘いで立ち寄る。
一葉と初対面の秋骨が描く一葉。
「丁度その時戦争に関する号外が出て夫を売る声が聞えたのを記憶して居る、すると女史が何と言はれたか覚えては居ないが、何でもそれに対して冷語を加へられた。その一句の冷語が酷く私の気に入って今まで恐はかつたその感は直ちに反対な懐かしい感と代ってしまった。
・・・女史の風貌には何といふ特徴もなかつたが、その吐き出す一言一句は多大な印象を与へた。見るもの聞くもの、何事も不平でたまらず、自分自身さへが厭でたまらず、さりとて自殺するほどの勇気もなかった自分は、曩(さ)きに北村透谷氏のやうな会心な話をきかしてくれる人を失ひ、心を打ち明ける友はあつても面白い話をしてくれる人を有たなかった自分は、今一葉女史の話を聞いて胸のすくやうな心持ちがした。」(「一葉女史の追憶」大正7年影印版『たけくらべ』付録)
一葉の「冷語」は、別の回想では「世間では大分騒いでゐますね」というもので、以前の国家主義的論調からすればかなり冷静で、この頃の戦意高揚の世間の動きにからすれば戦争に批判的なものといえる。
島崎藤村が8月14日付けで星野天知に宛てた書簡で、「先日は又秀・秋二見と共に一葉女史の許へ参り非常におもしろき会合に有之云々」「一葉女史尤も変調論(秋骨の書いた評論)を愛読するやにて実にめずらしきすねものと存候」とある。「変調論」は、「文学界」明治27年1月号に掲載された評論で、平凡な泰平より異常な変調を進歩の要因と主張している。
戸川秋骨:
本名明三。高瀬藩士戸川等照の長男。明治24年、明治学院を卒業。学院時代に藤村、孤蝶を知る。明治26年、『文学界』創刊に参加し同人として評論、随筆を寄稿。「英国騒壇の女傑ジョージイリオット」や「ゲーテが小川の歌」、「変調論」、「活動論」などを書いていた。明治26年末から北村透谷の後任として明治女学校の教壇に立つようになった。明治28年9月には東京帝国大学文科大学英文科に入学した。明治30年東京帝大卒、早稲田大、慶応大、明治学院大、文化学院などに出講。秋骨が最初に一葉を訪ねたのは日清戦争最中の明治27年8月4日丸山福山町を訪ねた時で、この時は秋骨の記述が正しければ、藤村も一緒であった。その後も、彼も禿木、孤蝶等と一葉を最も頻繁に訪ねた一人であった。
島崎藤村:
本名春樹。長野県馬籠村の本陣を経営した島崎重寛(正樹)の四男。明治学院を卒業後、明治25年に明治女学校高等科の教師として就職したが、教え子の佐藤輔子への失恋が原因で退職、関西へ漂泊の旅に出る。『文学界』が創刊されると劇詩や小品、評論などを寄せるようになった。特に第11号に掲載された少年が川の流れに浮かぶ花に語りかける「哀縁」は一葉にも感化を与えた。明治27年2月から10ヶ月、『文学界』の事務所は下谷区三輪町の藤村の兄秀雄の家に置かれた。下谷龍泉寺町から程近い所であったが、藤村はその時代は一葉を訪ねていない。丸山福山町の家に戸川秋骨と一緒に訪ねたのが最初である。明治27年9月1日付の天知宛書簡は彼女が秋骨の「変調論」を愛読することを伝えて、その 「すねもの」ぶりに関心を示している。明治28年秋に明治女学校に復職するが、秋骨の帝国大学入学に刺激を受けてその文学部選科を受験しようとして、学費を調達できず、断念して仙台の東北学院に作文教師として赴任した。
8月4日
清国四営、平壌入り。清軍1万2千、平壌に集結始める。~9日。葉志超・聶士成も敗兵を纏め、平壌に入る。葉志超が在朝諸軍の総司令官に任命。
8月5日
この日、広島の大本営が出した「作戦大方針」では、清軍を朝鮮国内から駆逐することにとどまらず、最終目標は日本軍を清国の直隷省に直行させ清軍の主力と決戦し清国政府の投降を強いるというもの。
8月6日
野津道貫中将が指揮する第5師団本隊、釜山に到着。歩兵12連隊3大隊の3個中隊を中路軍として編成し陸路北上し、残りは和歌浦丸に乗船させ元山に向かうことにした。
8月8日、師団長と中路軍が釜山を出発し梁山市に到着。9日、梁山市を出発して密陽に到着、10日、密陽から清道まで進み、11日、清道から大邱に入る。大邱では慶尚監使と会い支援を頼み朝鮮貨幣を確保するなどして1泊し、13日、大邱を出発し仁同に到着。
14日、仁同から尚州に到着、15日、尚州から聞慶に到着。16日、聞慶から鳥嶺を経て忠州に到着。17日、可興渡しに到着して午後1時舟に乗って南漢江水路でソウルへ向かう。
18日午後9時30分、広渡し(広津)に到着。
8月6日
朴泳孝、日本から送り込まれ仁川上陸(日本亡命~米~日本に戻る)。国王は罪科を取消し赦免令発表。官僚として高位に昇る。日本政府は谷干城を通じて帰国旅費提供を申し出るが、朴は拒否。谷に渡された機密費は戻される。
8月7日
午後4時、連合艦隊、清国艦隊探索のため隔音島出港。黄海道西方では見つからず。10日、威海衛軍港に近づく。イギリス軍艦、清国軍艦が停泊。11日、隔音島に戻る。その後、根拠地を長直路に移す。
清国北洋水師は9日、威海衛出港。13日、威海衛に戻る。
8月7日
アメリカ、ハワイ共和国を承認。
8月7日
イギリス・オランダ、日清両国の宣戦に対して中立宣告。10日イタリア・ポルトガル・デンマーク。28日アメリカ。9月6日ドイツ・ハワイが宣告。
8月8日
一葉、鎌倉に避暑に行った伊東延子・夏子母娘へ手紙。中島歌子の入院や日清戦争、総選挙への関心を示す。手紙では、「女の我々に関係はうすけれど、流石に胸さわがれ申候」と政治への関心を示す。ただし、日記には、日清戦争の局面に応じた感想など殆ど書かれていない。
8月11日
イギリスの雑誌「サタデー・レビュー」(この日付)、「日清間二ハ一モ正式ノ戦争ナシ」「国際公法ハ、饒舌及兇器ノ外二開化ノ何物タルヲ知ラザル野蛮人二対シテ適用スルヲ得べキニアラズ」と述べたという。
8月12日
大島旅団長が派遣した歩兵第11連隊第1大隊、開城・平山間の電信線修理。14日、平山に通信所設置。19日、平山西方14km迄進出。
この日、大島旅団長が派遣し、中和に偵察に出た町口中尉・竹内中尉、清軍と遭遇し戦死。
8月13日
大島旅団長が編成した臨津鎮支隊、臨津鎮着。17日、朔寧分遣支隊、朔寧東南4km麻田里着。平壌への押さえ。
8月13日
陸奥外相、大鳥圭介公使に訓令。朝鮮が清に宣戦布告するか日本との同盟を公表するか働きかけ指示。
8月13日
緊急勅令。①特別会計資金の転用、②借入金、③公債募集で軍事費捻出。15日軍事公債条例発布。公債は申込者殺到。7,694万9千円。9月22日、広島に臨時議会。緊急勅令事後承認し臨時軍事費特別会計法成立。
8月13日
福沢諭吉「朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す」(「時事新報」)。
8月13日
一葉、文学界雑誌社より「文学界」第20号に掲載するため21日までに「暗夜」の続編を孤蝶あてに送るよう依頼される(入院中の中島歌子の世話もあり、果たせなっかった)
8月14日
大本営、直隷平野での決戦は本年中にないと判断。冬季作戦方針として、朝鮮からの清軍駆逐を定め、動員完了した第3師団を派遣して第5師団と共にこれにあたることとする。
8月14日
朝鮮事件費に関する財政上緊急処分の件、公布。
つづく
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