1894(明治27)年
9月
幸徳秋水(秋水生)「遠征」(「家庭雑誌」)。敵前逃亡の反戦小説。
9月
内藤湖南(後の京都帝大教授)、「大阪朝日」に客員として入社。
9月
政府、大鳥公使の発案により朝鮮への慰問使として枢密院顧問官西園寺公望を派遣。強引に閔妃と会見し一般国民にも不快感を残す。10月8日、王子義和君が答礼使として東京に向う。
9月1日
第4回臨時衆議院議員選挙
自由党106(-13)、改進党45(-3)、立憲革新党40、国民協会30。石阪昌孝当選(4回目)。無所属80。
9月1日
朝鮮派遣の混成旅団(大島)・第5師団(野津)に第3師団(桂太郎中将)を加え第1軍編成。軍司令官山県有朋(枢密院議長現職のまま)。第1軍司令部・第3師団残部など、宇品港で輸送船32隻に乗船開始、順次出航。10日、山県司令官、連合艦隊根拠地長直路に到着。
山県が第1軍司令官を熱望し、任命される。伊藤は、彼が武功にはやり統制を乱す事を恐れ、天皇に、文武相応ずること、大本営の指示を尊重すること、政戦両略の一致に注意すること、を指示するよう求め、伊藤も山県送別宴で政戦両略一致の必要を演説し、山県の独走を戒める。これに対し、山県は戦地連絡の便宜を理由に強硬に大本営の前進を主張。伊藤は、天皇の陣頭指揮が国民の統合に利用できるとみて賛成するが、山県の主張する下関は東京からの交通が不便で、国務が統帥からきりはなされると指摘し、当時、東西縦貫鉄道の終点であった広島への進出を決定。
9月1日
漱石、湘南へ海水浴に行き、荒天の海に入り、「快哉」と叫んで、宿屋の主人を驚かせる。3日夜、帰京。
9月4日
9月初旬から朝鮮人の集団が日本軍の兵站部を襲う事件が起き始める。
9月4日に起きた事件については、14日になって大本営から解禁された情報に基づき9月15日付け『日本』が「韓人我兵站部に乱入す(十四日馬関特派員中村発電)」と報道。「韓人三百余」が襲撃し,「韓人死者六人,負傷六十人,我兵の負傷二人。」という事件であった。
その後追い記事が、『日本』9月17日の付けで詳細なものとして発表された(「大邱騒動の詳報」)。この騒動で「此等人夫の斯く暴動するに至りたるは全く何者かの煽動に由るものゝ由にて種々取調べ中のよし」と結論付けるが,内容は兵站部の人夫賃金をめぐる朝鮮人どうしの対立と暴行であり,東学と結びつけられてはいない。
漢城に特派されている朝日新聞記者西村時輔が9月4・5・6 日に別個に書いた記事が『東朝』9月16日に掲載されている。それによると、「元山近傍にハ東学党多し」,日本軍の進軍には「喜んで糧食運搬の周旋をなしたり」,「途中東徒に告ぐるに今回日本ハ朝鮮の独立を扶植する為に如此き大軍を派遣せりとの意を通ぜしに,多数の韓人喜んで我軍隊を送迎せりと」,「東徒ハ全羅一円及全羅沿海各島嶼に多し」,「概して云へば規律厳粛号令能く行はると云ふ」,「東徒の目的ハ最初より地方官虐政を矯むるに在りしを以て此程来全羅各地方官に地方政治を改革せしむることを誓はして帳簿を製して夫々調印せしめつゝあり。今回韓廷の改革にハ東徒頗る賛成を表し居ると云ふ」など,良民よりなる東学党が政治改革に向かい,日本軍にも協力的であるとしている。
9月4日
漱石の子規宛の手紙。心の悩みを訴え、近日中に下宿するかもしれぬと伝る。
「学問の府たる大学院にあつて勉強すべき時間はありながら勉強の出来ぬは実心苦しき限に御座候」
「元來小生の漂泊は此三四年來沸騰せる脳漿を冷却して尺寸(せきすん)の勉強心を振興せん為のみに御座候」
9月4日
一葉、伊東夏子に手紙で借金を依頼
6日、伊東夏子より借金以来の返事。8円ほど貸せる見込みと伝えられる。
9月4日
高野房太郎(25)、サミュエル・ゴンパースと始めて面会。
9月5日
この日、陸軍歩兵少佐南小四郎、召集令状を受け、後備歩兵独立第19大隊長を任命される。
9月6日
(推定9月6日) 漱石、大学の寄宿舎を出て、しばらく菊坂の素人下宿に入ったあと、9月19日頃、小石川指ケ谷町の菅虎雄の新居に一時寄宿。~10月16日
9月12日付けの斎藤阿具の日記
九月十二日、午後菊池寿人氏卜今度寄宿舎ヲ出ラレタル夏目氏ヲ訪ヌ、不在(之に拠れば此月から大学の寄宿舎を出たと見える)
9月7日
葉志超提督、光緒帝の諭旨と李鴻章の督促を受け、7,000人の迎撃部隊を平壌から南進させた。しかし同夜、「敵襲」との声で味方同士が発砲し、同士討ちで死者20人・負傷者100人前後を出してしまい迎撃作戦は失敗。「(兵士たち)の多くは畑からまっすぐの徴募されて来たばかりの者や、街頭から掃き集められて来た丈夫な身体の乞食などで、奉天で1、2週間の訓練を受けては前線へ送り出された」と言われている。
9月8日
独、物理学者ヘルムホルツ(73)、没。
9月12日
葉志超提督、平壌防禦命令を出す。
9月12日
山県第1軍司令官、仁川上陸。平壌攻略は第5師団に任せ、第3師団長桂太郎中将には平山に前進、大迫支隊(元山上陸済みの第3師団の一部)には成川に進むように命じ、14日漢城着。
9月13日
平壌南方日本軍(大島混成旅団)は永済江畔に到達。13日、北方の元山支隊は順安占領し、電線切断。清軍は後路を断たれ、本国との交信遮断される。東方の朔寧支隊は国主峴に到達。
9月13日
「民心の反動を予防せよ」(「国民之友」)。不景気とそれに伴う厭戦気分広がる。9月1日付「東京朝日」、「商人はいずれも、一日もはやく戦争の納まらんことを願えり」。
9月13日
仏、作曲家シャブリエ(53)、没。
9月14日
日本軍の平壌包囲。師団主力、平壌西方に迫り、平壌は包囲される。
葉志超提督、平壌からの撤退を提議。反対される。葉への不信高まり、統制とれなくなる。
奉天軍総兵左宝貴は、予め近代的な日本軍との戦力格差を知った上で死を覚悟しており、自己の親兵をもって平壌撤退を主張する葉を監禁してしまう。これ以降、清軍司令官が存在せず、各将は自分の判断で戦うことになる。総司令官や将領たちが戦う前に平壌から引き揚げたという説もある。
平壌には朝鮮官軍600名と、平壌監使が道内各地から動員した猟師1500名が、清軍とともに城を守った。平壌監使はまた清軍に軍糧米を提供した。このように平壌戦闘は朝鮮の官軍と清軍が連合勢力となり、日本軍の攻撃を防御する形態を取っていた。これは高宗と大院君の指図なしではありえず、ソウルで日本軍に掌握され同盟条約を結び日本軍支援を強要されている事とは全く異なる状況だった。
9月14日
カロリン島付近で仁川上陸援護の連合艦隊、清国艦隊が大同江で陸軍輸送中との報に、午後4時、本隊・第1・3遊撃隊など率い大同江に向う。清国艦隊はなし。
9月15日
平壌会戦。
第5師団(野津)1万7千、守備清軍1万2千。陸軍1等卒原田重吉が玄武門に一番乗り。日本軍戦死180、清国2千。
15日午前0時~午前7時:
①大島混成旅団:永済橋南方高地より進む。右翼隊・中央隊、長城里堡塁・中碑街西方河岸の角面堡攻撃の戦況不利。左翼隊は羊角島から大同江右岸へ渡河中。
②朔寧支隊:国主峴より進撃、第2・3堡塁を落す。
③元山支隊:第4・5堡塁を落す。平壌北方高地の清軍堡塁は全て陥落。
④第5師団主力:平壌西方から進撃。安山堡塁攻撃開始。
午前7時~午後2時30分:
①大島混成旅団:清軍の攻撃旺盛。弾薬も尽き午後2時30分退却開始。
②③朔寧支隊・元山支隊:合流して城壁攻撃。午前8時30分頃、元山支隊の1小隊が玄武門入り、続いて朔寧支隊の小隊も合流するが、戦況を動かすには至らず。他方面の城壁攻撃は一時停止。
④第5師団主力:午前9時15分頃、安山堡塁の銃撃が衰え始める。午後1時、ヨッタルマク丘~大湯洞に兵を集結させ、この日の攻撃を中止。
午後2時30分~同夜半:
①大島混成旅団:午後8時迄に13日夜の線に後退。この日戦死約140、負傷290。
②朔寧支隊:午後4時40分、前面城壁・城門に白旗。開城談判するも、明朝開城の回答のみ。
③元山支隊:午後4時40分、城門に白旗。入城強行しようとするが、立見少将が入城中止命令。
④第5師団主力:午後9時、清国兵の逃走を確認。
9月15日
大本営、天皇親率のもと広島に進出、国民に長期戦争の決意を示す。
9月16日
平壌会戦。午前0時30分、第5師団主力、進撃。入城し、午前3時30分、ラッパを鳴らす。朔寧支隊は午前5時半頃、入城命令。元山支隊は午前7時玄武門より入城。混成第9旅団は午前8時、平壌に向けて出発。
9月16日
夜、山県第1軍司令官、桂第3師団長に対し、平山に止まらず平壌まで進むよう指示。
つづく
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