円覚寺搭頭帰源院
大杉栄とその時代年表(131) 1894(明治27)年12月13日~22日 威海衛攻撃命令 第2次金弘集内閣(開化派・中道派と急進派連合) 缸瓦寨を占領 海城の第3師団は苦戦 一葉『大つごもり』 より続く
1894(明治27)年
12月23日
漱石、菅虎雄を訪ねる。
漱石の留守中に狩野亨吉が訪ねて来る。
漱石が菅虎雄の家にいる時、狩野亨吉が訪ねて来る。
午後2時30分、菅虎雄・狩野亨吉と共に立花銑三郎の結婚式に赴く。(「狩野亨吉日記」)
12月23日又は24日
漱石、菅虎雄の紹介により鎌倉の円覚寺搭頭帰源院で参禅。
釈宗演から「父母未生以前本来の面目如何」と公案が与えられ越年する。
漱石の解答は宗演から一蹴され、翌年1月7日、漱石は空しく下山する。
「十二月二十三日(日)夜、または二十四日(月)朝から翌年一月七日(月)まで、菅虎雄の紹介で、鎌倉の円覚寺に釈宗活を訪ね、塔頭帰源院の正統院に入り、釈宗活の手引で、釈宗演の提撕(ていせい)を受ける。元良勇次郎も共に坐禅をする。「父母未生以前本來の面目」という公案をもらう。(島崎藤村も前年九月初旬の二週間ほど泊り、釈宗演の下で坐禅を組んだと推定される。(湖沼茂樹))」(荒正人、前掲書)
「明治二十七年十二月末、金之助は菅虎雄の紹介状を持って鎌倉円覚寺の塔頭、帰源院に釈宗活を訪ね、宗活の手引きで師僧釈宗演に参禅した。宗演は安政六年(一八五九)生れで当時三十五歳、若年ながら二年前に遷化した師僧今北洪川の跡を嗣いで円覚寺の管長となり、稀代の傑物という名声が高かった。菅虎雄は明治二十一年ごろから今北洪川のもとに参禅していたから、いわば宗演の同門である。天然居士の米山保三郎もやはり洪川門下であった。
金之助はいうまでもなく、二律背反解決の道を禅に求めたものと思われる。彼は登世の葬式のとき、蓮如上人の御文章を聴いて感動したことがあったか、他力本願の救済を期待するわけにいかなかったのは、彼の問題が秘密な「罪」であって、他者への公開をはばかるものだったからである。しかし彼を閉じこめている「霧」は、参禅というような努力によって晴らされるような性質のものではなく、「生」と「罪」の二律背反からのがれる道は啓示されなかった。」(江藤淳『漱石とその時代1』)
漱石の円覚寺の参禅に際しての記帳名簿には、
北海道庁平民東京小石川区表町七十三番地法蔵院ニテ 夏目金之助
と記載されている。
菅虎雄は明治21年と22年4月に円覚寺管長の今北洪川のもとで参禅している。居士帖に「無為」の居士号をもらったことが記されている。(『夏目漱石と管虎雄』原武哲。教育出版センター、昭和58年)
当時の若い知識層は坐禅にたいして親しみを抱いていた。
漱石の同学年の松本文三郎は、
当時文学部の学生の間には禅が可(か)なり行はれて居た。冬期の休暇などには随分鎌倉の円覚寺に出掛けたものである。 (「漱石の思ひ出」『漱石全集』月報、第16号、昭和12年2月、岩波書店)
と回想している。
小説『門』(明治43年(1910)3月1日~6月12日「東京朝日新聞」連載、漱石43歳)における参禅の情景
宗助は一封の紹介状を懐にして山門を入った。彼はこれを同僚の知人の某から得た。
山門を入ると、左右には大きな杉があつて、高く空を遮つてゐるために、路が急に暗くなつた。其陰気な空気に触れた時、宗助は世の中と寺の中との区別を急に覚つた。静かな境内の入口に立つた彼は、始めて風邪(ふうじや)を意識する場合に似た一種の悪寒(さむけ)を催した。
「まあ何から入つても同じであるが」と老師は宗助に向つて云つた。「父母未生以前(ふぼみしよういぜん)本来の面目は何だか、それを一つ考へて見たら善からう」
何しろ自分と云ふものは必竟(ひつきよう)何物だか、其本体を捕(つら)まへて見ろと云ふ意味だらうと判断した。 (『門』十八)
漱石は宗演から与えられた公案に自力で解脱を求めて襖悩、呻吟したが、妄想のみいたずらに立ち騒ぎ、老師に公案の解答を準備して、「物ヲ離レテ心ナク心ヲ離レテ物ナシ他ニ云フベキコトアルヲ見ズ」(ノート「超脱生死」『全集』第21巻)と見解を呈したが、宗演から「ソハ理ノ上ニ於テ云フコトナリ。理ヲ以テ推ス天下ノ学者皆力ク云ヒ得ン更ニ玆(こ)ノ電光底ノ物ヲ拈出シ来レ」(「超脱生死」)と一蹴される。
彼は考へた。けれども考へる方向も、考へる問題の実質も、殆んど捕(つら)まへ様のない空漠なものであつた。彼は考へながら、自分は非常に迂闊な真似をしてゐるのではなからうかと疑つた。火事見舞に行く間際に、細かい地図を出して、仔細に町名や番地を調べてゐるよりも、ずつと飛び離れた見当違の所作(しよさ)を演じてゐる如く感じた。 (『門』十八)
「もつと、ぎろりとした所を持つて来なければ駄目だ」と忽ち云はれた。「其位な事は少し学問をしたものなら誰でも云へる」
宗助は喪家(そうか)の犬の如く室中(しつちゆう)を退いた。後(うしろ)に鈴(れい)を振る音が烈しく響いた。(『門』十九)
悟(さとり)の遅速は全く人の性質(たち)で、それ丈では優劣にはなりません。入(い)り易くても後(あと)で塞(つか)へて動かない人もありますし、又初め長く掛かつても、愈(いよいよ)と云ふ場合に非常に痛快に出来るのもあります。決して失望なさる事は御座いません。 (『門』二十一)
自分は門を開けてもらいに来た。けれども門番は扉の向側(むこうがわ)にいて、敲(たた)いても遂に顔さえ出してくれなかった。ただ、「敲いても駄目だ。独りで開けて入れ」という声が聞えただけであった。彼はどうしたらこの門の閂(かんぬき)を開ける事が出来るかを考えた。そうしてその手段と方法を明らかに頭の中で拵(こしら)えた。けれどもそれを実地に開ける力は、少しも養成する事が出来なかつた。従つて自分の立つている場所は、この間題を考えない昔と毫(ごう)も異なる所がなかつた。彼は依然として無能無力に鎖(と)ざされた扉の前に取り残された。彼は平生自分の分別を便(たより)に生きて来た。その分別が今は彼に崇つたのを口惜く思つた。そうして始から取捨も商量も容れない愚なものの一徹一図を羨んだ。もしくは信念に篤い善男善女の、知憲も忘れ思議も浮ばぬ精進の程度を崇高と仰いだ。彼自身は長く門外に佇立(たたず)むべき運命をもつて生れて来たものらしかつた。それは是非もなかった。けれども、どうせ通れない門なら、わざわざ其所(そこ)まで辿り付くのが矛盾であった。彼は後を顧みた。そうして到底また元の路へ引き返す勇気を有(も)たなかつた。彼は前を眺めた。前には堅固な扉が何時までも展望を遮ぎつていた。彼は門を通る人ではなかつた。又門を通らないで済む人でもなかつた。要するに、彼は門の下に立ち竦(すく)んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であつた。 (『門』二十一)
つづく
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