2026年4月27日月曜日

大杉栄とその時代年表(812) 1908(明治41)年12月1日~5日 大石誠之助、12月1日夕方、食事後、旅館の裏の下座敷で茶菓をだして雑談。出席は武田九平(金属彫刻業)・岡本頴一郎(会社員)・三浦安太郎(ブリキ細工職人)・岩出金次郎・佐山芳三郎。ここでも東京の「革命ばなし」がでて、「決死の士」の応募とされる。大石の予審調書に出てくる秋水が語ったとされる革命のための「決死の士」という言葉は、司法側の造語で、「大逆事件」をふくらましていく重要なキーワードにされる。大石から東京の土産話を聞いた武田九平、三浦安太郎、岡本頴一郎は無期懲役になる。

 

大石誠之助

大杉栄とその時代年表(811) 1908(明治41)年11月14日~30日 11月25日、熊本の松尾卯一太、幸徳訪問。「熊本評論」再建の相談。19日の大石誠之助の幸徳訪問と併せて、「熊本の主義者の巨魁と和歌山の巨魁」の集合(11月謀議)とされる。(松尾は死刑、松尾が熊本に戻って秋水の話を伝えた新美卯一郎も死刑、佐々木道元と飛松与次郎が無期懲役になる) より続く

1908(明治41)年

12月

逓信省、東京の受渡線路、主要市内伝送線路に自動車の使用開始。

12月

3月11日に休業した京都府の第四十九銀行、京都商工銀行へ買収される。

12月

(漱石)

「十二月(推定) (日不詳)、新渡戸稲造に逢う。新渡戸稲造は、初めてと思っていたが、明治十六年(一八八三)成立学舎で隣席にいたことを話す。」(荒正人、前掲書)

12月

アンリ・マチス(39)、ベルリンのパウル・カッシラーの画廊の展覧会に出品、不評。『画家のノート』を『ラ・グランド・ルヴュ』誌に発表。

12月

トロツキー、「民族的心理か階級的観点か」。オーストリア社会民主党の排外主義批判(国際部責任者はロイトナー)。

12月1日

東京の数寄屋橋際に高等演芸所(有楽座)開場式。客席を全て椅子とするなど洋風劇場のさきがけ。1923年9月、関東大震災で焼失。

12月1日

改正軍隊内務書改訂(軍隊家庭主義強調)。公示。

12月1日

東京米穀、東京商品両取引所合併。(株)東京米穀商品取引所と改称。

12月1日

(漱石)

「(十二月一日(火)、『朝日新聞』二千号記念して、森田草平『煤煙』の予告する。予告の文は、白仁三郎(坂元雪鳥)が書く。)

(十二月二日(水)、鈴木三重吉、加計正文宛手紙に、夏目先生よりは相變らず父のやうにして貰ふ」とある。中村蓊(古峡)『回想』完結する。)

十二月三日(木)、午前六時頃、伝通院失火、本堂全焼する。

十二月初め、『文學評論』の訂正完了する。訂正に熱中していた時、頭痺れるように疲れる。

十二月初め (日不詳)、エィ、腸チフスよくなり、看護婦を帰す。

(十二月上旬 (日不詳)、森田草平、平塚明子宛手紙で、夏目漱石の紹介で明治四十二年元旦から、『煤煙』掲載されると伝える。)

(上田敏(本郷区西片町十番地)の許に、石川啄木・吉井勇・平野万里・栗山茂ら訪ねる。)」(荒正人、前掲書)

12月1日

釧路の小奴、逸見豊之輔と上京、啄木を蓋平館に訪ねる。

啄木、この月、平野万里と「スバル」創刊号の準備にあたる。誌名は森鴎外の意見による。


「十二月一日

遂に今年も十二月となつた。

一昨日原稿がおそかつたので、今朝は新聞の小説休載。

“赤痢”また稿を改めて書き出した。それで一日は短かく暮れた。

六時半頃のことだ。女中が来て、日本橋から使が来たといふ。誰かと思つて行つて見ると、俥夫が門口に立つてゐる。誰からと聞くと、一寸外へ出てくれといふ。

“釧路から来たものだと言つてくれ。”

といふ女声が聞えた。ツイと出ると、驚いた、驚いた、実に驚いた。黒綾のコートを着た小奴が立つてるではないか!

“ヤア!”

と言つたきり、暫くは二の句をつげなかつた。俥を返して入つた。

或る客につれられて来たので日本橋二丁目の蓬莱屋に泊つてるといふ。予は唯意外の事にサツパリ解らなかつた。

釧路の変動をきいた。小奴は、予が立つて以来、ウント暴れたといふ。日景が予の悪口をいひ、毎日の様に小奴のことを新聞に出したといふ。市子は鹿島屋を出て、家から通つてるといふ。市子と親しくしてるといふ。

予に嘗てエハガキを寄こした時は、福本といふ人に頼んで住所を探つて貰つたのだといふ。

散歩しようと言つて二人出た。本郷の通りで予が莨を買つてる間に一寸見えなくなつた。“狐だ!”と予は実際思つた。二十間許り彼方に待つてゐた。

それから三丁目から上野まで、不忍池の畔を手をとつて歩いた。ステーシヨン前から電車、浅草に行つてソバ屋に上つた。二本の銚子に予はスツカリ――釧路を去つて以来初めての位――酔つた。九時半、そこを出て、再び手をとり合つて十町許りもあるいた。

予の心は淘とした!

唯、淘とした!

上野から電車、宿屋まで送つてまた電車で帰つた。羽織の紐の環を一つ残した程酔つた。別れる時キツスした。

(略)」(啄木日記)


12月1日

新宮の医師大石誠之助、幸徳を訪問後、京都に一泊し、11月29日、大阪着。常宿にしていた和歌山県人経営の西区の「村上旅館」に投宿。

12月1日夕方、食事後、旅館の裏の下座敷で茶菓をだして雑談。出席は武田九平(金属彫刻業)・岡本頴一郎(えいいちろう、会社員)・三浦安太郎(ブリキ細工職人)・岩出金次郎・佐山芳三郎。ここでも東京の「革命ばなし」がでて、「決死の士」の応募とされる。大石の予審調書に出てくる秋水が語ったとされる革命のための「決死の士」という言葉は、実は司法側の造語で、「大逆事件」をふくらましていく重要なキーワードにされる。大石から東京の土産話を聞いた武田九平、三浦安太郎、岡本頴一郎は無期懲役になる。


帰郷後、大石は、翌明治42年1月下旬の旧正月のころに新年会を催し、そこに成石平四郎、高木顕明、峯尾節堂(三重県南牟婁郡相野谷村(現・紀宝町)の泉昌寺の留守居僧、臨済宗妙心寺派、崎久保誓一の4人が参加した。この新年会も謀議の教宣の場とされる。


大逆事件は「三つの事実」を強引に一つの事件として関連づけ、社会主義者による天皇殺害計画としてフレームアップしたものだった。

その「三つの事実」の第一は、宮下らが天皇への爆裂弾テロを計画したこと、第二はこの年11月に上京した大石誠之助が巣鴨平民社を訪れて、秋水と森近運平と3人で会談したこと、第三は過激な秘密パンフレットを作成した内山愚童が、関西の同志たちを訪ね歩いたことである。

12月2日

清国の光緒帝(11月14日)と西大后の死去(11月15日)を受け、光緒帝の甥溥儀(3)、宣統帝として即位。父醇親王載灃、摂政。


12月2日

「十二月二日

(七)の三。

昼食がすむと、日本橋に坪仁子の宿を訪うた。座にゐたのは大阪炭鉱の逸身豊之輔、函館の奥村某――小奴は予の後に座つてゐた。三時頃異様な感情を抱いて帰つた。

(略)

夜、アテにならぬ約にほだされて、殆んど何も手につかなかつた!

予の心の平和は撹乱された。ああ、この日終日顔が上気してゐた。そして、何となく落付かなかつた。

九時頃遂に堪へがたくなつて一人出て、パラダイスで麦酒を一本のんで、赤くなつて来て寝た。

(略)


十二月三日

八時頃目がさめた。宮崎君から久振の手紙。

(八)の一。

“赤痢”をかいてると、一時頃平野君が来た。今日は平出君の宅に“昴”の談話会

一緒に出て、予一人千駄ヶ谷に行つた。吉井君がゐ合せた。与謝野氏とは一ケ月ぶり。ヒゲを生してゐる。

二時間許り楽しく話して帰つた。平出君の宅には、石井柏亭君、(一字欠)君、太田君、北原君、平野君、あとで吉井君も来た。予は六時に辞して帰つた。何のため?

昨夜の気持をくり返した! 金田一君の室に行つたため、外出はしなかつたが、十一時すぎまでゐた。

(略)


十二月四日

午前六時半平野君が昴の原稿催促に来たがまだ出来てゐない。すぐ起きて寒さにふるへながら“赤痢”の稿をついだ。午後一時までで一行隔四十枚煙草も忘れて執筆、脱稿。すぐ車夫に持たして平出君宅まで届けた。

それから八の二。書き終るところへ太田君が来た。

太田君と小奴の話をした。

今日は実に満足な日であつた。・・・・・」(啄木日記)

12月2日

満州借款と清米独同盟交渉の訪米使節として訪米(11月30日)した奉天巡撫唐紹儀、大統領と会見。

12月4日

ロンドン海事会議開催。強大な海軍を保有する10ヵ国、参加。海戦法規に関する協定。批准に至らず。

12月5日

鉄道院官制公布。総裁後藤新平、内閣に直属、帝国鉄道庁、逓信省鉄道局、廃止。


つづく


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