2026年4月4日土曜日

大杉栄とその時代年表(798) 1908(明治41)年8月16日~21日 米国~欧州へ視察旅行の原敬の送別会。全国から党員130余が参加。この頃、原敬、政友会の党務掌握。政友会は、原を事実上の中心とし、それに西園寺・松田が加わって3人で主導する形で運営するが、自分の選挙区の利害を中心に考えるようになった党人派代議士は原が掌握。

 

原敬

大杉栄とその時代年表(797) 1908(明治41)年8月7日~15日 「先づ明星を百号にてやめる件、についての相談あり。平出君最も弁じ、大井君保守説を持す。夕刻にいたり、廃刊の事与謝野氏の懇望によつて決し、新たに与謝野氏と直接の関係なき雑誌を起すこととなり、平野吉井予の三人編輯に当ることとなれり。予は初め固辞せしも聞かれず、与謝野氏の衷心に対する同情は終に予を屈せしめたり。」(啄木日記) より続く

1908(明治41)年

8月16日

福寿生命保険株式会社創立。

8月16日

(漱石)

「八月十六日(日)、寺田寅彦来て、第五高等学校の奥太一郎が上京して、英語教師を探していると話す。この日、寺田寅彦、藤田貞次に十六、七年振りに会い、英語教師に推薦しようとして、奥太一郎の住所を問い合せる。その後、藤田良次は熊本県八代中学校に就職する。

八月十八日(火)、佐藤紅緑久し振りに来る。

八月十九日(水)、午前、高浜虚子宛手紙に、「『春』今日結了最後の五六行は名文に候。作者は知らぬ事ながら小生一人が感心致侯。序を以て大兄へ御通知に及び候。あの五六行が百三十五回にひろがつたら大したものなるべくと藤村先生の爲めに惜しみ候」と書く。寺田寅彦来る。「小説『三四郎』中に野〃宮理學士といふが大學にて銃丸〔銃の弾丸〕の寫眞の實驗をなせる箇所あり。改めて貰ふ」(「寺田寅彦日記」)

八月十九日(水)から二十三日(日)まで、暑気再び激しい。

八月二十日(木)、森巻吉・西村誠三郎(濤蔭)・寺田寅彦来る。昼食を共にする。高須賀淳平・内九最一郎来る。(高浜虚子『溫泉宿』を『東京朝日新聞』に掲載する。八月三十日(日)完結する。これは、島崎藤村『春』と漱石『三四郎』の空白を埋めるために掲載される。)

八月二十二日(土)、午前、寺田寅彦は、奥太一郎を大久保の宿所に訪ねた帰りに寄って、昼過ぎに煽る。

八月二十三日(日)、雨晴れて、残暑加わる。『三四郎』執筆中で多忙極める。

八月二十四日(月)、冷気、心持よい。野上豊一郎宛手紙で、二十五日(火)午後から月末の間に、東京朝日新聞社まで月給取りに行って貰いたいと依頼する。


寺田寅彦は、奥太一郎と九年振りに会い、藤田良次の就職のことを依頼する。藤田良次は候補者の一人になっていた。(但し、第五高等学校には就職できないので、八代中学校に赴任することになる)」(荒正人、前掲書)

8月18日

6月8日に合併が決定した東京人造肥料(株)、株式総会で帝国肥料(株)、北海道人造肥料(株)、引継事務完了。

8月18日

フィリピン、北部ルソン山岳少数民族地区に山岳州設立。

8月20日

米国~欧州へ視察旅行の原敬の送別会。全国から党員130余が参加(「日記」8月21日)。

原敬、党務掌握。第1次西園寺内閣で2年半内相を務め、党最高幹部の1人として党務にも尽力、政友会内で西園寺総裁や松田正久とは比較できない位の権力を確立。

内相は、知事・警視総監・警察部長(現、道府県警察本部長)の人事権を握っており、知事は、道府県道、港湾、中等学校などの建設・改修に大きな影響力を持つ。選挙取締りにあたる警察部長と合わせて、政友会の地盤拡張と原の政友会掌握にとって、最も有効なポストである。

政友会は、原を事実上の中心とし、それに西園寺・松田が加わって3人で主導する形で運営するが、自分の選挙区の利害を中心に考えるようになった党人派代議士は原が掌握。

8月20日

『東洋美術大観』(15冊、~1918年7月5日 審美書院)。

8月20日

三重丸船員(在獄者、病者を除く)釈放されウラジオストク発帰国。

8月20日

ベルギー国王レオポルド2世、1885年以来私領としていたコンゴ自由国をベルギー国家に移管。

10月18日、議会承認。

11月5日、正式に併合されベルギー領コンゴとなる。

8月21日

啄木、初めて浅草の凌雲閣(十二階)下の私娼窟に足を運ぶ。


「八月廿一日

夜。金田一君と共に浅草に遊ぶ。蓋し同君嘗て凌雲閣に登り、閣下の伏魔殿の在る所を知りしを以てなり。

キネオラマなるものを見る。ナイヤガラの大瀑布、水勢鞺鞳として涼気起る。既にして雷雨あり、晴れて夕となり、殷江の雲瀑上に懸る。月出でて河上の層楼窓毎に燈火を点ず。児戯に似て然も猶快を覚ゆ。

凌雲閣の北、細路紛糾、広大なる迷宮あり、此処に住むものは皆女なり、若き女なり、家々御神燈を掲げ、行人を見て、頻に挑む。或は簾の中より鼠泣するあり、声をかくるあり、最も甚だしきに至つては、路上に客を擁して無理無体に屋内に拉し去る。歩一歩、“チヨイト”“様子の好い方”“チヨイト、チヨイト、学生さん”“寄つてらつしやいな”

塔下苑と名づく。蓋しくはこれ地上の仙境なり。

十時過ぐるまで艶声の間に杖をひきて帰り来る。」(啄木日記)


凌雲閣は俗に十二階と呼ばれた東京名所の一つで、明治23年10月竣功。工費は5万5千円、構造は10階までが八角形で煉瓦造り、11階と12階が木造で、高さは220尺。12階からの眺望は絶佳で、東京湾や房総半島はもとより箱根、日光まで望見できた。しかし関東大震災で8階まで崩れ、危険となったので工兵が残りの建物を爆破した。

この凌雲閣はパリのエッフェル塔を摸したものとして人気を集めたが、十二階下の千束町にむらがる私娼窟でも有名で、夜になると妖しげな女が男の官能をそそる姿態で待ち受けていた。

啄木はこの十二階下の私娼窟を塔下苑と名づけて、その後、秋から翌年5月にかけて13、4回遊びに行っている。

ローマ字日記(明治42年4月7日~6月6日)に記されている。


つづく


0 件のコメント: