大杉栄とその時代年表(796) 1908(明治41)年8月1日~6日 荷風の井上精一(唖々)宛の手紙 「日中は書いて居るので其れ程でもないが夜が実にいやだよ。何だか年寄りになった様な気がしてならぬ。何を見ても淋しい気ばかりして狂熱が起つて来ない。日本の空気ほど人を清浄ならしむる処はあるまい御釈迦様の国だよ」(8月4日) 「僕も金の工面さへつけば一日も早く長屋でも借りたい下宿でもいゝ。場所は千束町か深川本所にしたいね。家にゐても大久保だと居候見たやうで居辛くていけない。少しは食ふに困つてもいゝからもつと堕落した生活がしたい」(8月8日) より続く
1908(明治41)年
8月7日
啄木、8月というのに例の綿入を着て新詩杜訪問。帰りはその綿入を風呂敷に包んで、白地の浴衣を着て帰る。金田一と2人でよく見ると、女柄であり、多分晶子夫人が、自分の布地で啄木の為に男物に仕立てる。この頃、啄木は「明星」の編集発送、歌会など殆ど1日おきくらいに新詩社に通う。
8日、徹夜の歌会。午後10頃~翌日午前4時。吉井勇・北原白秋も参加。
「八月七日
八時半起床。朝餉を了へて家を出づ。風強し。
昌平橋にて与謝野氏に逢ひ、共に明治書院にゆき、十一時頃千駄ヶ谷に至る。夏草の路、蜥蜴を見て郷を思ふ。
庭の萩風に折れたり。杉垣の下なる向日葵の花、白と鹿の子の百合の花、風情あり。晶子さんは夏に疲せてベツドの上にあり。
校正など手伝ひて四時辞す。晶子さんが手縫ひの白地の単衣を贈らる。
(略)
十二日間の記
八日、千駄ヶ谷歌会の日なり。午前明星の歌をなほし、一時頃ゆく。
珍らしきは大井蒼梧川上櫻翠二君なりき。先づ明星を百号にてやめる件、についての相談あり。平出君最も弁じ、大井君保守説を持す。夕刻にいたり、廃刊の事与謝野氏の懇望によつて決し、新たに与謝野氏と直接の関係なき雑誌を起すこととなり、平野吉井予の三人編輯に当ることとなれり。予は初め固辞せしも聞かれず、与謝野氏の衷心に対する同情は終に予を屈せしめたり。
雅子女史亦会す、吉井北原君もあり。夕刻より兼題の歌の運座。
十時頃より、徹夜五十首と動議成立し、翌九日朝にいたりて大方詠出。互選の結果、読上げ終りて十二時を過ぎたり。平野吉井二君と共に残り、湯に入る。四時頃帰り来る。
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室に入れば女中来りて告げて曰く、昨夜植木女来り、無理にこの室に入りて待つこと二時間余、帰る時何か持去りたるものの如しと。
室内を調ぶるに、この日誌と小説“天鵞絨”の原稿と歌稿一冊と無し。机上に置手紙あり、曰く、ほしくは取りに来れと。
予は烈火の如く怒れり。蓋し彼女、世の机の抽出の中を改めて数通の手紙を見、またこの日誌の中に彼女に関して罵倒せるあるを見、怒りてこれを持ち去れるものなり!
(略)
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如何にして盗まれたるものを取返すべきかにつきて、金田一君と毎日の如く凝議したり。一度、予怒りを忍んで彼女を訪ねしもあらざりき。翌日オドシの葉書をやる。無礼なる返事来る。行かず。十九日の夕に至り、彼女自ら持ち来りて予を呼出し、潸然として泣いて此等の品を渡して帰れり。
ただ此日記中、七月二十九日の終りより三十一日に至るまでの一頁は、裂かれて無し。蓋しその頁に彼女に対する悪口ありたるなり。
これにて彼女の予に対する関係も最後の頁に至れるものの如し
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(略)
十九日は将棋に暮す。残暑少しく烈し。空は秋の空なり。
夕刻にこの日誌等返る。金田一君と共に万歳を唱ふ。」(啄木日記)
8月7日
オランダの海外領地および植民地に関する領事職務条約、(4月27日調印)公布。
8月7日
ヴィレンドルフのヴィーナスが発掘される
8月9日
永井荷風『あめりか物語』刊行。
8月10日
池田亀太郎、西大久保で女湯を覗き風呂帰りの婦女を暴行殺害(3月22日)した出歯亀事件で、無期懲役の判決。
8月11日
大日本軌道株式会社開業。小田原支社の人車軌道で小田原~熱海のうち湯河原~熱海が蒸気列車に。
8月11日
英エドワード7世、独皇帝ヴィルヘルム2世とクロンベルクで会談。独建艦案縮小など海事問題の調整、失敗。
8月14日
幸徳秋水、東京着。
15日、豊多摩郡淀橋町大字柏木の守田有秋の旧宅(金曜社)に岡野辰之助の名を借りて住む。柏木平民社。炊事などは岡野の妹が世話する。
9月末、巣鴨に移転。
8月15日
漢口の『江漢日報』封鎖。
8月15日
赤旗事件第1回公判。東京地方裁判所。弁護人卜部喜太郎・井本常作。幸徳秋水・坂本清馬・新美卯一郎ら100余、傍聴。
裁判長島田鉄吾が「被告は無政府主義者であるか」と質問。落とし穴に気付き、巧みに供述する被告の中で、菅野須賀子は「自分はもっとも無政府主義に近い思想をもっている」と述べる。秋水は法廷傍聴記「同志諸君」を「熊本評論」9月20日号に掲載。
〈赤旗事件公判筆記 『熊本評論』8月20日掲載〉
8月15日午前9時、14名の同志に対する治安警察法違反、官吏抗拒事件は、東京地方裁判所第一号法廷に於いて満田検事立会島田裁判長に依り開廷せられたり更めて記す、当日の被告左の如く
堺利彦 山川均 大杉栄 荒畑勝三 宇都宮卓爾 森岡永治 徳永保之助 佐藤悟 百瀬晋 村木源次郎 管野須賀子 大須賀里子 神川松子 小暮礼子
…裁判長は一般に向て次の訊問をなせり。曰く、
「被告らは7月22日石川三四郎の主催に係る山口義三の出獄歓迎会に赴き開会後同日午後6時『無政府』及『無政府共産』と記せる赤旗を翻し、場外に出て、無政府党万歳を絶叫し、亦は『革命の歌』を高唱したりしや。」
堺利彦君は『余親ら赤旗を翻せし事なし。余の場内に居りし際同志の一人が、門前に混雑ありと報じ来りしより、馳せ出で見たるに同志と警官の間に騒擾開始されて居れり」
裁「被告は無政府主義者なりや」
堺「否な余は社会主義者なり」
裁「無政府共産なる語を用いし事なきや」
堺「共産なる語は社会主義者一般に認められ、且つ信じられ居るも、余は自ら進で未だ無政府なる語をも用いし事なし」
次に裁判長は山川均君に向い、前同様一般的訊問を発し、山川君は是に対して
山「余は旗を会場に持参せず然し『革命の歌』は会場にて歌えり」
裁「被告は無政府主義者なりや」
山「自ら無政府主義者なりとは言いし事なきも、無政府主義の説明如何に依っては、社会主義者は何れも無政府主義者と言うも可なり」
裁「被告の会場を出でし時赤旗を見しや」
山「旗は一本高等商業学校の方にあるを見たり」
大須賀里子女子に対して…
「…未だ主義者としての資格は無からんと信ず、無論無政府主義に関しては、充分の智識なし」
(略)
斯て裁判長は、赭衣を纏い、眼光爛々たる大杉君を呼びて立たしめたり旗の製作に関する訊問あるや、大杉君は「旗は余の発意にて余の製作したものなり…」
裁「革命の歌を唱え無政府党万歳を絶叫せしか」
大「大に然り」
荒畑寒村君に対して
「…無政府党万歳を叫びたり」
(略)
小暮レイ子女史…
「自分は目下社会主義の研究中なるが故に、未だ無政府主義に就ては分明に理解せず」
神川女史は
「…主義者として自分は、社会主義者無政府主義者其の何れとも決せず、近き将来に於て発表するの機会ありと信ず」
管野幽月女史は「自分は最も無政府主義に近き思想を抱持し居れり」
(略)
是にて略審問を終り、裁判長は予審調書(数十名の巡査の口供に拘る)を読み聞せ是に対する各被告の弁明を聞けり。
当日の重なる弁明左の如し、
(略)
大杉栄君「判官諸公、吾等は面会を禁止せられ、書信の往復を断たれ、犯罪に就いて会議相談の上答をなす地位にあらず然れども彼の数十名の巡査は、被告の罪状を造る可く、自由に相談し、自由に疑義し、自由に捏造するの地位に在れりされば彼等の口供になる百の調書も、千の調書も、何等の信憑たらず、唯之一の空文のみ、諸公幸に是を諒とせられん事を」
神川松子君「唯今読み聞されし一巡査の口供には、自分が大須賀と共に商業学校前にて行動を共にせりとあり、亦他の一巡査の口供には、管野と共に神田署前にて行動せしとあり、自分は、一人なれば、羽翼を有せざる限り一時に三丁余りも隔たりたる場所を短時間に駆け歩く能わず、殊に或る巡査の口供には自分が、襟に時計の銀鎖を懸けたる由を記しあれど、自分は当日鎖をも時計をも有せず、是等事実の相違より見るも如何に巡査の口供の馬鹿馬鹿しきかを知るに足らん」云々
尚お是等弁論の後にて堺、神川、山川等数名の被告より証人として大杉保子及巡査横山某を喚問されん事を申請し、是を許可せらる。次回は22日開廷と決し午後5時閉廷。
此の日幸徳秋水、坂本克水君等新聞記者席にあり。場外には百余名の群集溢れたり、評論社の新美君、志賀君、清国同志、在京一般同志、何れも朝来より来廷せり。
8月15日
保証金を支払って復刊した「東北評論」第2号、赤旗事件被告を称賛したとして編集人高畠素之が新聞紙法違反で起訴、軽禁固2ヶ月処分。
10月1日、新村忠雄を発行人として第3号発行。
8月15日
ニコライエフスクに日本領事館開館。
8月15日
イリノイ州スプリングフィールド、白人女性が黒人に暴行されたと主張。黒人街が攻撃され白人と黒人が衝突。
つづく

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