1908(明治41)年
11月
韓国、この頃から、伊藤統監、辞任の意向を漏らすようになる。弾圧しても義兵闘争は高まるばかり、また、保護国経営目指す統監政治への批判強く自信揺らぐ。
11月
島村抱月「口語詩問題」(「読売新聞」)
11月
波多野精一「基督教の起源」
11月
東京俳優養成所設立。藤沢浅二郎。
11月
『サンデー』、『ベースボール』(1911年9月『野球界』と改題)創刊。
11月
栃木県会、谷中村堤内に河川法準用取消し決議。
11月
満州鉄道、東京支社内に東亜経済調査局設置。
11月
田村成義の指導のもとに、6世坂東三津五郎、13世守田勘弥ら若手、市村座に出演し成功をおさめる。
11月
メキシコ、フランシスコ・マデーロ、「1910年の大統領の後任」発表。コラルの排斥を主張。マデーロはコアウィラ州の大農場主でもともとディアス派の幹部。
11月初め
「十一月初め(小宮豊隆推定)、『文學評論』の訂正を始める。」(荒正人、前掲書)
11月1日
啄木(22)、小説「鳥影(ちようえい)」(「東京毎日新聞」~12月30日連載)。同紙勤務の新詩社同人栗原古城(元吉)の勧め。 さしたる反響なし。
「十一月一日
予の生活は今日から多少の新しい色を帯びた。それは外でもない。予の小説“鳥影”が東京毎日新聞へ今日から掲載された。朝、女中が新聞を室へ入れて行つた音がすると、予はハツと目がさめた。そして不取敢手にとつて、眠い目をこすり乍ら、自分の書いたのを読んで見た。題は初号活字を使つてあつて、そして、挿画がある。――静子が二人の小妹をつれて、兄の信吾を好摩のステーシヨンへ迎ひに出た所。
一葉は切抜いて貼つておく事にし、一葉は節子へ、一葉はせつ子の母及び妹共へ送ることにした。
起きて、また新聞を見乍ら飯を食つた。そして、昨夜与謝野氏から貰つて来た五円を持つて出かけて、足袋や紙やと共に、大型の厚い坐布団を二枚買つて来た。今迄夏物のうすくなつたのを布いてゐたつたのだ!
(略)」(啄木日記)
11月1日
帝国鉄道庁、一般貨物運賃の割戻廃止決定。各通運会社に打撃。
11月2日
香港で日貨排斥運動開始。
11月3日
「天長節
朝に、貸本屋から藤村の“春”を借りた。
昼頃に少し雨が降つたが、すぐ晴れた。金田一君と二人で上野の文部省展覧会へ行つた。途中で赤心館の主人夫妻の博物館へ行くといふのに逢つて、団子坂の菊の噂をした。ポカンとした主人と、気短な猫みたいな妻君と並んで行く様は面白かつた。
洋画の方では、予期の如く和田三造氏の“煒燻”と吉田博氏の“雨後の夕”が第二賞を得てゐた。さて、日本画館の中で、晶子さんと其子らに逢つた。薄小豆地の縮緬の羽織がモウ大分古い――予は晶子さんにそれ一枚しかないことを知つてゐた。――そして襟の汚れの見える衣服を着てゐた。満都の子女が装をこらして集つた公苑の、画堂の中の人の中で、この当代一の女詩人を発見した時、予は言ふべからざる感慨にうたれた。
館を出で来て与謝野氏に逢つた。石段の下で別れて、予らは帰つて来た。
釧路の遠藤からまた葉書。返事を認めた。
そして“春”を読んだ――
小説の上の一切の旧き技巧を捨てて、新意ある描写に努力した作者の熱心は、予を驚かしめた。その努力は不幸にして、この作に於てはまだ効を見せなかつた。――が、一派の人のこの作を全部失敗とするは誤つてゐる。そして、藤村氏の将来を軽蔑するは更に大に間違つてゐる。――予は藤村氏に与ふる手紙を書いた。
その中で、書中に豆金糖とあるは豆銀糖の誤りであることを書いた。
二時に寝た。」(啄木日記)
11月3日
(漱石)
「十一月三日(火)、天長節。九段能楽堂の会で、徳田秋声にはじめて紹介される。」(荒正人、前掲書)
11月3日
宮下太吉、パンフレット「入獄記念無政府共産」50部受取り感動。箱根太平台林泉寺内山愚童の秘密出版
この日、宮下は差出人不明の小包を受取る。中には粗末な印刷で薄っぺらなパンフレットが50部ばかりあった。表紙には、赤地に白抜きで「無政府共産」と横書きされ、赤字で「入獄紀念」と縦書きされ、真ん中あたりには白抜きで「革命」の赤旗が描いてある。表紙をめくると、「小作人ハナゼ苦シイカ」という見出しがあり、これがこの15ページの小冊子のタイトルだった。
読み進むと、小作人が苦しい理由として三つの「迷信」に縛られているからだとあった。一つは、地主に小作料を納めるのは当然とする「迷信」、二つは納税義務は当然と思う「迷信」、三つは軍備がないと外国人に殺されるから兵役義務は当然とする「迷信」。そこで『無政府共産』の筆者は、政府を無くし、政府の親玉の天子なき自由の国にしようではないかと訴えていた。天子は決して「神の子」でもなんでもない、小学校の教師などから騙されているだけだ、などと説いていた。
宮下には、今までのもやもやした疑問が一気に氷解していくようだった。この小冊子の送り主は、箱根・大平台の曹洞宗・林泉寺の第10代住職内山愚童(明治7(1874)年生まれ)と知ったのはずっと後であり、愚童には一面識もなかった。
パンフに共鳴した宮下は、差出人も作者も不明だったのに、1週間後の2月10日に天皇の「お召し列車」が大府駅を通ると知り、会社を休んで出かけ、奉迎に集まる人たちに小冊子を配って歩いた。「天子様なんて、ありがたいもんじゃないんですよ」と言いながら。しかし人びとの反応は冷たく
宮下の期待は大きく外れた。これでは社会主義を実現することはできない、天子もわれわれと同じ人間なのだ、ということを人民に知らせなければ、天子への迷信はなくならないと思い込むようになる。「爆弾をつくり、天子も我々と同じで血の出る人間だということを分からせて、人民の迷信を打破しなければならない」。こう思いこんだ宮下は、直情的に一気にテロリストへの道を駆けていく。
〇宮下太吉は、明治8(1875)年9月、刀鍛冶職人の次男として山梨・甲府で生まれた。16歳で郷里を離れ、見習いをしながら東京、大阪、名古屋などの工場を転々と歩き、27歳になった明治35(1902)年ごろに愛知県の亀崎鉄工所に就職、そこで結婚し、落ち着いた。熟練の機械据付工になっていた宮下は、鉄工所の信用も厚く「出張員」を任されていた。
宮下が社会主義に目覚めたのは、明治40(1907)年1月創刊の『平民新聞(日刊)』 に出会ってからだったようだが、書き残したものはきわめて少ない。
片山潜らの『社会新聞』1907年12月8日付第28号に宮下の数少ない原稿である「尾張亀崎より」という190字の投書が掲載されている。その中で宮下は、自分の生い立ちや若干の経験を記した後で、労働争議が起きていた横須賀造船所に触れてこう書いている。
「(小生は)資本家の圧制手段や瞞着手段はよく知っている。貴紙二十六号の横須賀造船所共済会の記事を読み、権力階級を頭に戴いた会や組合は、職工の不利益になればとて決して利益にならぬ事を、能く感じました。左様いふ職工等は、賃金という鎖の外に、共済組合若しくは消費組合と云ふ鎖で、二重に繋がれた様なものです」
投書が掲載された直後の12月13日、宮下は大阪出張の折に初めて大阪平民社に森近運平を訪ね、皇室に関する意見を訊いている。
「森近君、君は皇室のことをどう考えているのか」
問われた森近運平は、すでに神話による日本誕生や天皇神話を排した古代史研究者の久米邦武の『日本古代史』などを読んでおり、自分なりの皇室観を持ち始めていた。
「宮下さん、私は日本の皇室だけが世界の大勢に逆らって特別の地位を保つことはできないと思います。それから紀元二五〇〇年というのも間違いで橿原宮の即位という歴史も信じられませんね」
と応えた。
翌明治41(1908)年1月18日、宮下は東海地方に遊説にきた片山潜にも皇室をどうするつもりかと訊いている。
「片山さん、皇室を無くすことはできないのでしょうか」
「それは、議会で社会主義者が多数を取れば、憲法改正もできる。そのためには、何よりまず普通選挙の実現が第一だ」
当然ながら片山はこう応じ、宮下をがっかりさせた。
翌月、奈良へ出張した際に再び宮下は大阪の森近を訪ねている。そのときの宮下について、森近は『日本平民新聞』2月5日号に「金槌とネジ廻しとを以て、器械を組立てる技術を持った人である。其頭脳の明晰なる事、到底帝国大学の先生方の及び能はざる所である」と高く評価している。しかし、運平は後には、秋水には「単純な男」と評している。
〈田中伸尚『大逆事件』岩波現代文庫より〉
11月3日
ウィリアム・ハワード・タフト(共和党)、第27代大統領に当選。
つづく

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