1908(明治41)年
9月1日
(漱石)
「九月上旬(日不詳)、東京帝国大学総長浜尾新から、大学に復帰せぬかと交渉あったけれども拒絶したらしい。(推定)
九月一日(火)、二百十日。急に冷気を感じる。『三四郎』、『東京朝日新聞』に連載され始める。
(九月二日(水)、「郷里出發。汽車の中で『三四郎』を讀む。何だか自分のことが書いてあるやうな氣がする。」(「小宮豊隆日記」)
(九月三日(木)、『三四郎』の中に「京都郡」とあるので驚く。これから先が気がかりである。」(「小宮豊隆日記」))
(中村蓊(古峡)『回想』、『東京朝日新聞』に胆駒古峡の筆名で連載され始める。百回。十二月二日(水)まで)
九月四日(金)、『三四郎』がいよいよあやしくなって来る。」(「小宮豊隆日記」))
(九月六日(日)、高辻亮一、謡やりたいとのことで、森田草平に伴われ、明治生命の同僚たちと共に来る。高浜虚子に応援に来て貰う。寺田寅彦、午後、東京帝国大学に忘れ物を取りに行き、帰りに立ち寄る。「夏目先生へは濱尾総長より東大へ複歸の談判ありし由」(「寺田寅彦日記」)」(荒正人、前掲書)
9月1日
「九月一日
(略)
泣菫の詩人的生活は終つた。有明も亦既に既に歌ふことの出来ない人になつた。与謝野氏はこゑのまだ尽きぬうちに、胸の中が虚になつた。今、唯一の詩人は北原君だ。北原の詩で、官能の交錯を盛んに応用した、例の硝子のにほひの詩は、要するにキネオラマに過ぎぬが、此頃毎号心の花に出してゐる“断章”の短かい叙情詩に至つては、真の詩だ、真の真の詩だ。心にくき許り気持のよい詩だ。今の詩壇の唯一人は北原だ!
然し北原には恋がない!
予はこれから、盛んに叙情詩をやらうと思ふ。若々しい恋を歌はうと思ふ。
九月二日
(略)
二時半頃、与謝野氏と平野君と突然やつて来た。平賀源内の話などが出た。一時間許りして、三人で千駄木の森先生を訪うた。話はそれからこれと面白かつた。茉莉子さんは新しいピヤノで君が代を弾いたり、父君の膝に凭れたりしてゐた。母堂も出て来て、大原の別荘の話などされる。晩餐の御馳走になつて、辞したのは九時少し前。
帰りは与謝野氏と暗い路を並んで歩いたが、自分のやらうと思ふ叙情詩を北原がやり出したので閉口だと云つてゐた。
久振で歩いたので、つかれてゐた。すぐ枕についた。」(啄木日記)
9月1日
菅野須賀子、無罪放免で東京監獄出獄、大須賀里子の下宿先である柏木の南谷方に身を寄せる。幸徳の柏木平民社に近く、時々遊びに行く。
9月3日
皇典講究所、『古道概要』。
9月3日
ドイツ、ハフィドをモロッコ王として承認。
12月17日、諸列強承認。
9月4日
関西学院神学校、専門学校令により設立認可(関西学院大学の前身)。
9月4日
新潟市東堀通三番町より出火。焼失2,200戸。
9月5日
横浜の欧文活版工91人全員でクローズドショップ制の組合欧文会、結成。
9月5日
文部省に教科用図書調査委員会設置。小学校用の修身、歴史、国語など国定教科書の調査審議にあたる。
9月5日
革田今作(ペンネーム)「最初の敵」(「世界婦人」第28号)。
7日、発禁。
11月5日、発行兼編集人神埼順一に罰金40円。検事控訴。
翌42年3月9日、罰金140円の控訴審判決。上告。
5月11日、同様の大審院判決。
9月5日
「九月五日
今日も七十度だ。袷は質に入れてあるので、袖口のきれた綿入を着てうそ寒い。為すこともなくうつらうつらと煙草の粉を吸つてると、二時頃に吉井君がやつて来た。死んだ時の黒枠の広告文を考へるといふ話。兼題を二人で作つて五時に千駄木の森先生の歌会へ行つた。
佐々木君が来てゐた。余程経つて主人と加古医学博士と与謝野氏と、香の会からの帰り打伴れて来られた。やがて伊藤左千夫君も来た。平野が来ないので吉井と二人迎ひに行くと、来てるのは女客らしかつた。
皆比較的大人しい歌許り。
散会したのは十一時だつた。主人は俳句の会も起したいが、山縣公の常磐会があるので、とても今の所ヒマがないと言つて居られた。
松屋の角で皆に別れて、帰つて寝たが、寝られぬので独歩の事をかいた古い趣味を読む。二時まで。
それのためか神経が鋭くなつて寝られぬ。暁方に少し眠つた様だつたが、目がさめてから、また色々な事が考へられた。
(略)」(啄木日記)
9月6日
森近運平、大阪監獄出獄(7月8日~)、上京。
9月6日
啄木(22)、愛蔵の書籍を処分した金田一京助の厚意により、本郷区森川町1番地新坂358蓋平館別荘に移る。
「九月六日
十一時頃に起きた。枕の上で矒乎考へ事をしてゐたのだ。
金田一君が来て、今日中に他の下宿へ引越さないかといふ。同君は四年も此下宿にゐて、飽きた、飽きた、陰気で嫌だとは予々言つてゐたが、怎して然う急にと問ふと、詰り、予の宿料について主婦から随分と手酷い談判を享けて、それで憤慨したのだ。もう今朝のうちに方々の下宿を見て来たといふ。
予は、唯、死んだら貴君を守りますと笑談らしく言つて、複雑な笑方をした。それが予の唯一の心の表し方であつたのだ!
本を売つて宿料全部を払つて引払ふのだといふ。本屋が夕方に来た。暗くなつてから荷造りに着手した。
(略)
午後五時少し過ぎて、森川町一番地新坂三五九、蓋平館別荘(高木)といふ高等下宿に移つた。家は新しい三階建、石の門柱をくぐると玄関までは坦かな石甃だ。家の造りの立派なことは、東京中の下宿で一番だといふ。建つには建つたが借手がないので、留守番が下宿をやつてるのだとのこと。
三階の北向の室に、二人先づ寝ることにした。成程室は立派なもの。窓を明けると、星の空、遮るものもなく広い。下の谷の様な町からは湧く様な虫の声。肌が寒い程の秋風が天から直ちに入つてくる。
枕をならべて寝た。色々笑ひ合つて、眠つたのは一時頃であつたらう。
三階生活
九月七日
三階の第一日の朝、六時に起きた。金田一君は学校へ行つた。予は、昨夜同君から貰つた五円で、袷と羽織の質をうけて来た。綿入を着て引越して来たのだ。・・・・・
(略)
九月八日
(略)
九番の室に移る。珍な間取の三畳半、称して三階の穴といふ。眼下一望の甍の谷を隔てて、杳かに小石川の高台に相対してゐる。左手に砲兵工廠の大煙突が三本、断間なく吐く黒煙が怎やら勇ましい。晴れた日には富士が真向に見えると女中が語つた。西に向いてるのだ。
(略)」(啄木日記)
9月7日
文部省、1900年に制定した小学校教授用の仮名字体、字音仮名遣、漢字使用制限などを徹底。いわゆる棒引仮名廃止。
9月9日
3世山勢松韻(64)、没。山田流箏曲家。
つづく
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