〈大逆事件に連座した3僧侶の一人、内山愚堂の年譜①(~明治40年)〉
★眞田芳憲「大逆事件と禅僧内山愚童の「仏教社会主義」と その行動の軌跡 ―禅僧愚童の抵抗の宗教的倫理と責任―」による
明治7年(1874)5月17日
新潟県北魚沼郡小千谷町(現小千谷市)で弟2人妹1人の4人兄弟妹の長男として出生。父直吉は宮大工、後に菓子木型製作職人。
明治13年(1880)(6歳)7月
小千谷小学校入学。
明治18年(1885)(11)
小千谷小学校卒業。成績優秀、知事から表彰。しばらく家業の手伝い。
明治23年(1890)(16)10月23日
父直吉(42)病死。
明治25年(1893)(19)
出郷。一説によれば、哲学館(東洋大学の前身)創設者井上円了家で家庭教師(書生ともいう)として住み込む。また一説によれば、長野や群馬あるいは遠く朝鮮、中国に旅歴したというが、一切不明。
明治30年(1897)(23)初春
神奈川県愛甲郡三田村清源院住職、叔父(母の弟)青柳賢道を訪問、曹洞門に入る決意をかためる。
4月12日
同県同郡小鮎村宝増寺住職坂詰孝童(叔父青柳賢道の弟子)について得度、天室愚童と称する。
夏
同県同郡三田村清源院青柳賢道常恒会首先安居(入衆)。
10月
神奈川県足柄下郡早川村海蔵寺で掛錫。
明治31年(1898)(24)
曹洞宗第2中学林本科(足柄上郡松田村延命寺内か)に入学。
明治32年(1899)(25)2月23日
曹洞宗第2中学林本科修業。
4月
海蔵寺認可僧堂に再掛鍚(修学)、海蔵寺認可僧堂安居証明を取得。同僧堂説教試験登第証を取得。
明治33年(1900)(26)冬
神奈川県愛甲郡三田村清源院住職和田寿静常恒会において立職(立身)。
明治34年(1901)(27)10月10日
神奈川県足柄下郡温泉村林泉寺兼務住職宮城実苗の室に入りて、宝珠院で嗣法(伝法)。
明治35年(1902)(28)7月7日
曹洞宗大本山永平寺で瑞世・転衣を許され、愚童和尚と呼ばれることになる。
老齢かつ病弱の宮城実苗の看護。実苗に代って、林泉寺の寺務の一切を処理、同時に当初から「寺小屋学級」での教授指導や「青年組合」の結成と社会教育の実践に取り組む。
明治36年(1903)(29)2月2日頃までに
海蔵寺認可僧堂で再々掛錫。
4月5日
宮城実苗遷化
5月12日
愚童小千谷の戸籍を大平台に移籍。事実上住職として寺務を執り行う。
林泉寺檀家大平台の住民40戸前後。当時、大平台には温泉はなく、観光資源もなし。木工細工生産を職とする。耕作地は劣等地。
日露戦争の開戦時のこと、一家の支えである村の屈強な青年たちは戦地に送られ、ある者は戦死、ある者は傷痍軍人として困窮した生活に追いやられていく。愚童の眼には、生国小千谷の小作農の極貧生活はもとよりのこと、出郷後の放浪生活で実体験した一般大衆の困窮生活が二重写しとなって再現し、社会主義への傾斜を強めていったと推測できる。
明治37年(1904)(30)1月17日
愚童、週刊「平民新聞」第10号に「予は如何にして社会主義者となりし乎」寄稿。
「余は仏教の伝道者にして曰く一切衆生悉有仏性 曰く此法平等無高下 曰く一切衆生的(ママ)是吾子 之れ余が信仰の立脚地とする金言なるが余は社会主義の言ふ所の金言と全然一致するを発見して遂に社会主義の信者となるものなり」
1月31日
同新聞第12号「読者と記者」欄に「貴族・富豪を社会主義に感化する手段」について寄稿。
「▲余の考に依れば今日社会主義の理想が貴族や富豪より唱導せらるゝこと、教主悉多太子(*釈迦の出家前の王子名シッダールタ(悉達多)のこと)の如く財を捨て位を捨てゝ一平民になるの自覚を生ぜざれば福音の実現困難なることゝ存候、若し愚意に少しだも同感の節有之候はら、貴族富豪を感化するの手段など御教授願度候(箱根大平六(ママ)、内山愚童氏)」
2月9日
正式に大光山林泉寺住職に任命。
2月21日
同新聞第15号に「兵士の母」を寄稿。
7月10日
同新聞第36号「箱根大平台より」を寄稿。
9月10日
石川三四郎、加藤時次郎の子時也を連れて林泉寺訪問。その日の夜、石川が大平台村民30余名に消費組合など社会主義の話をする。大平台における社会主義の第一声にして、愚童の構想とする「夏期平民倶楽部」の記念すべき第1号。
明治38年(1905)(31)8月13日
愚童、7月に出獄して8月6日から小田原加藤時次郎別荘で静養中の幸徳秋水と初対面。愚童、秋水と堺利彦と「鼎座して禅を論ず」。
9月10日頃
愚童、伊藤證信の大日堂・無我苑を訪問、初対面で3時間ほど対話し、さらに堺利彦宅で泊まり帰寺。愚童、伊藤證信の「無我の愛」運動に意気投合。箱根芦の湖畔に修道苑の計画を立てる。
10月13日
東海道を社会主義の伝道行商中の小田賴造と山口義三、小田原に到着。
10月15日
林泉寺で青年を集めて愚童と共に社会主義の談話会を開く。
12月初旬頃
伊藤證信に宛てた「此地に仏種を植ゆる」の書簡で「本山の魔窟より発する偽法には堪えられません」「住職罷免のあるまでは」「今は四面楚歌の声で、いつ落城するやわからない」と書き送る。
明治39年(1906)(32)
伊藤證信との親交を深め、互いに往来する。
9月26日
「専心修道と伝導に従事」を目的とする修道苑の開苑計画(明39年9月26日付書簡)
11月18日
修道苑の機関紙として「神奈川教報」の発行計画(明39年11月18日付書簡)を進める。
明治40年(1907)(33)1月9日~15日
神奈川県の農村を托鉢しながら巡回視察、小作人の貧困の実情を調査。
1月
『神奈川教報』を発行。
3月
日刊『平民新聞』の「新刊紹介」欄に「神奈川教報(第3号)箱根大平台住職にして、古き社会主義者なる内山愚童氏の発行する所、宗教問題及び社会問題につき毎号有益の記事多し」とある。
この頃、日本の古代史、南北朝史、「大谷派の明治史」に関心を持つ。
6月3日
箱根山中の水力発電工事現場で60余名の建設作業員がダイナマイトをとって大乱闘、愚童「労働者の勢力が高大であることを知った」とし、「この勢力を人の最大幸福のためにするよう導くこと」の重要性を説く。
10月9日
上京、堺利彦宅5泊、西川光二郎宅1泊。直接行動派に傾く。
12月6日(消印)
巣鴨監獄在監中の石川三四郎宛に仏法・正法の道を天職とする旨の葉書を送る。
「 今は政治が宗教を利用しつゝある時ではあるが、神の道を奉ずる者は、利害に左右せらるゝ政治の下にあることが出来ないではないか、僕は、近き将来には政治の必要を見ずして、人は各々絶対の信仰に依って生活し往くの時来る事を、然り一日も速にするのは僕の天職と信ずる、君は如何」
②に続く

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