2026年5月27日水曜日

大杉栄とその時代年表(823) 1909(明治42)年2月 「自分はいつまでも、いつまでも、暮行くこの深川の夕日を浴び、迷信の霊境なる本堂の石垣の下に佇んで、歌沢の端唄を聴いてゐたいと思った。永代橋を渡って帰って行くのが堪へられぬほど辛く思はれた。(略)あゝ、然し、自分は遂に帰らねばなるまい。それが自分の運命だ、河を隔て堀割を越え坂を上つて遠く行く、大久保の森のかげ、自分の書斎の机にはワグナアの画像の下にニイチエの詩ザラツストラの一巻が開かれたまゝに自分を待ってゐる……」(永井荷風『深川の唄』)

 

明治44年頃、日比谷通りの路面電車

大杉栄とその時代年表(822) 1909(明治42)年1月26日~31日 クロポトキン「麺麭の略取」(幸徳秋水訳。平民社訳として出版)、出版法違反の行政処分。発行禁止。 3月9日、署名人坂本清馬罰金30円の判決。出版予定日は1月30日(1000部限定出版の予約締切りは1月15日)。差押えは残部20部のみ。実際には12月15日前後には製本が出来上がり大半を捌く。 より続く

1909(明治42)年

2月

韓国、李完用政府、出版法制定。一進会の宋乗畯内相、解任。

2月

『満州新報』発行。

2月

大阪硫曹・大阪アルカリ・摂津製油の3社、肥料共同販売協定を締結(1908年5月4日)し、協同販売所開業(1908年7月1日)したが、解散。

2月

小山内薫・2代目市川左団次、東京で「自由劇場」創立。規約発表。

11月27日、有楽座でイプセン作森鴎外訳「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」試演。

2月

石川三四郎「福田のお婆様」(「世界婦人」33号)

2月

岩野泡鳴『耽溺』(『新小説』)。1910年5月刊行。

2月

田岡嶺雲、『黒白』刊行。

2月

漱石「予の猫かんと欲する作品」(談話筆記)(『新潮』)

「作家としての女子」(談話筆記)(『女子文壇』)

「二月頃(日不詳)、島田背峰来る。シュークリームを出す。いきなり口にしてクリームを膝の上に落とし、ハンカチで拭き取る。胸のあたり、羽織の紐にも付いていたので注意する。(島田青峰は、『国民新聞』の「文芸欄」受け持つ)」(荒正人、前掲書)

2月

荷風『深川の唄』(『趣味』)。

『永井荷風』(青空文庫)


前年(明治41)7月に帰国した荷風は、その年から翌年始めにかけて『ふらんす物語』におさめられた諸篇を書き、その間に、この年1月に『狐』を発表。性急で浅薄な西洋模倣にあけくれていた日本文化を痛烈に批判した一連の諸作を「新帰朝者もの」と呼ぶとすれば、その第一作がこの『深川の唄』といえる。「深川遊廓の娼妓を主題にし」た『夢の女』をのこして外遊した荷風は、帰朝後の新生面を『深川の唄』によって切り開いた

荷風は深川を、或いは墨田区から江東区一円を愛した。昭和になっても、『元八まん』、散策記『深川の散歩』(昭和9年11月)、小品文『放水路』(昭和11年4月)を書いている。

「四谷見付から築地両国行の電車に乗った。別に何処へ行くと云ふ当もない。船でも車でも、動いて居るものに乗って、身体を揺られるのが、自分には一種の快感を起させるからで。これは紐育の高架鉄道、巴里の乗合馬車の屋根裏、セエヌの河船なぞで、何時とはなしに妙な習慣になってしまった。」

自分を乗せた電車は茅場町あたりで停車したのでやむなく歩きはじめる。

「自分は憤然として昔の深川を思返した。幸ひ乗換の切符は手の中にある。自分は浅間しい此の都会の中心から一飛びに深川へ行かう--深川へ逃げて行かうと云ふ押へられぬ欲望に迫(せ)められた。」

「数年前まで、自分が日本を去るまで、水の深川は久しい間、あらゆる自分の趣味、恍惚、悲しみ、悦びの感激を満足させてくれた処であった。電車はまだ布設されてゐなかつたが既に其の頃から、東京市街の美観は散々に破壊されてゐた中で、河を越した彼の場末の一劃ばかりがわづに淋しく悲しい裏町の眺望の中に、衰残と零落との云尽し得ぬ純粋一致調和の美を味はして呉れたのである。」

「それ等の景色をば云ひ知れず美しく悲しく感じて、満腔の詩情を托した其頃の自分は若いものであった。煩悶を知らなかった。江戸趣味の恍惚のみに満足して、心は実に平和であった。硯友社の芸術を立派なもの、新しいものだと思ってゐた。近松や西鶴が残した文章で、如何なる感情の激動をも云尽し得るものと安心してゐた。音波の動揺、色彩の濃淡、空気の軽重、そんな事は少しも自分の神経を刺戟しなかつた。そんな事は芸術の範囲に入るべきものとは少しも予想しなかった。日本は永久自分の住む処、日本語は永久自分の感情を自由に云ひ現して呉れるものだと信じて疑はなかつた。

自分は今、髯をはやし、洋服を着てゐる。電気鉄道に乗って、鉄で出来た永代橋を渡るのだ。時代の激変をどうして感ぜずにゐられやう。」

それから、深川不動尊の境内へ入っていき、その境内で盲目の三味線ひきの歌沢節に耳をかたむける。

その三味線ひきは、江戸伝来の趣味性は九州の足軽風情が経営した俗悪蕉雑な「明治」と一致する事が出来ず、家産を失ふと共に盲目になった。そして栄華の昔には酒落半分の理想であった芸に身を助けられる哀れな境遇に落ちたのであらう。」と想像する。

しかし、「自分はいつまでも、いつまでも、暮行くこの深川の夕日を浴び、迷信の霊境なる本堂の石垣の下に佇んで、歌沢の端唄を聴いてゐたいと思った。永代橋を渡って帰って行くのが堪へられぬほど辛く思はれた。いっそ、明治が生んだ江戸追慕の詩人斎藤緑雨の如く滅びてしまひたい様な気がした

あゝ、然し、自分は遂に帰らねばなるまい。それが自分の運命だ、河を隔て堀割を越え坂を上つて遠く行く、大久保の森のかげ、自分の書斎の机にはワグナアの画像の下にニイチエの詩ザラツストラの一巻が開かれたまゝに自分を待ってゐる……」

以降、荷風は、『曇天』、『監獄署の裏』、『祝盃』、『歓楽』、『新帰朝者日記』、『冷笑』などをはっぴょうするが、これらはこの『深川の唄』の延長線上にある。『深川の唄』を軸として、荷風の江戸趣味-江戸文化への傾斜は強められ、深められて、それがやがて花柳小説へと移行していく経過をたどる。


2月

この月、峯尾節堂、新宮から12km離れた阪松原の草庵・泉昌寺の留守居僧となる。4歳年下の弟・慶吉(20)が、兄の草庵に滞在したある時、兄が大石誠之助から借りた本を返してくれるよう依頼した。慶吉が大石宅に本を返しに行くと、大石は慶吉に、「帰ったらお兄さんに、あまり社会主義の本を読まんようにしなさい。警察にいじめられるとわるいから、そういって下さいよ」という。

その時の大石の「温容春の如き」表情とこの言葉が忘れられないと、慶吉はのちに記す。(連載エッセイ「なつかし記」(『紀南新聞』1958年3月)

2月

管野スガ(27)、逗子に行き、幸徳秋水の配慮で正覚寺に転地療養。

2月

大竹貫一代議士、統監政治批判演説。

2月

日本冷蔵株式会社創立(本社大阪)。

2月

サンフランシスコ、在米朝鮮人団体大韓国民会結成。共立協会('05年、安昌浩)・合成協会('07年)統合。

2月

スペイン軍、メリリャの鉱山労働者のストライキに出兵。モロッコ戦争激化。

2月1日

国際アヘン会議開催(上海)。日本も参加。

26日 国際アヘン会議決議調印。

2月1日

啄木(23)編集による「スバル」第2号発行。

啄木、自伝小説「足跡(その一)」発表(「早稲田文学」からけなされる)。紙上で平野万里と短歌論争。

木下杢太郎『南蛮寺門前』(1914年11月、山田耕筰作曲で狂言座初演)

「二月一日 月曜 曇 温

(樗牛死後)をかき初める。

午頃太田がきた。そして色々と議論した。予はこの数年来の日本の思想の変遷を或銀行にたとへて論じた。そして結局太田君がまだ実際の社会にふれてゐないといふことを明かにしたに過ぎなかつた。太田は今の作家をののしつた。予は言つた。(今の我々は平面な崖につきあたつて路がつきたのだ、で、如何に行くべきかを研めむがために、先づ、如何にして此処に来れるか、今立つところは何処、如何なるところなるかを研究してるのだ、君が、如何なる方に進むべきかを考へないでゐると評するのは間違だ、今の作家は矢張時代の先頭にたつてるのだよ。)

すると太田君は異様な声で言つた。(すると奴等も如何に進むべきかを考へてるのだなア!)

(さうさ、最も確かな態度で考へてるのだ。)

 フイと太田はかへつた。

(略)」(啄木日記)


啄木と太田(杢太郎)の議論。「予はこの数年来の日本の思想の変遷を或銀行にたとへて論じた」そして結局、「太田君がまだ実際の社会にふれてゐないといふことを明かにしたに過ぎなかった」となり、「太田は今の作家をののしった」とある。

啄木は日露戦争のこと、一等国といわれるがその現実、与謝野鉄幹や『明星』のこと、作家と思想の重要性など、現実に啄木が直面していた問題を語ったものと想定されるが、杢太郎が現実の社会認識の甘さを露呈したのかも知れない。杢太郎の罵った作家は自然主義作家だろう。

2月1日

米、キューバの軍政、解除。占領軍、同島から撤退。


つづく

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