2009年5月23日土曜日

鎌倉 阿仏尼の墓 浄光明寺 冷泉為相の墓 薬王寺

阿仏尼、冷泉為相については、コチラ
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阿仏尼の寓居跡はコチラ
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阿仏尼の墓(伝)
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阿仏尼の墓
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浄光明寺
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浄光明寺の裏山にある冷泉為相の墓
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薬王寺
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薬王寺
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「寺社巡りインデックス」をご参照下さい。
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阿仏尼

■阿仏尼の生涯
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出生~藤原為家との出会い
貞応元年(1222)~26年頃の生まれ。
父は平度繁(実父・養父説あり)。
安嘉門院(後高倉院の皇女邦子内親王。後堀河天皇の准母)に仕え、安嘉門院四条(アンカモンインノシジョウ)と呼ばれた時期が長い。その後、宮仕えから退き、奈良の法華寺に入り、阿仏を名乗る。
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阿仏の若い頃の失恋と漂泊を綴った日記「うたたね」の一節。
恋に疲れた女が広隆寺参詣の帰路、花園の法金剛院に寄って紅葉をめでるが、時雨模様の空に恋の終わりを予感する。
「人知れず契りしなかの言の葉を嵐吹けとは思はざりしを」
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「うたたね」
若い頃、貴人との恋に敗れ、自ら髪を削いで山寺に隠れ、その後転々とし、結局遠江に下り、更に乳母の病の報に再び京に戻るという内容。情熱的な筆致であるが、自らを浮舟に擬した雨の夜の出家・出奔、実在感のない恋人の描写などのように、自己劇化と古典を模す美文調の観念的修辞表現から、虚構による創作的作品とする見方もあり。
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建長5年(1253)頃、歌壇の重鎮藤原為家(定家の子)の助手のような職を得る。阿仏30歳前後、為家56歳。
阿仏は、為家の寵愛を得て側室となり、為家の子為相・為守を生む。
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2人の恋の歌(「玉葉和歌集」)。
阿仏のもとで夜を過ごした為家が、雨にぬれで帰る。
為家「帰るさの東雲暗き村雲も我が袖よりや時雨れそめつる」。
阿仏「後朝(キヌギヌ)の東雲暗き別路に添えし泪はさぞ時雨れけむ」。
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藤原為家
藤原定家の後継ぎ息子。
若い頃は、蹴鞠に一所懸命になり歌に身を入れず、定家は為家の不勉強を心配し嘆いたりするが、中年を過ぎてから歌に身を入れる。歌風は、定家ほど深い歌ではないが、とにかく定家から嗣いだ御子左家(ミコヒダリケ)の歌壇における地位を保つことは出来る。
為家は、明るく宴会好きで世渡りは上手。威勢のある西園寺家に接近し、父よりも出世し権大納言にまで昇進する。
御子左家の財産である荘園、定家の「明月記」、様々な写本類は為家に伝えられる。
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為家は、1275年、78歳で没す。
この時の阿仏の歌。
「とまる身はありてかひなき別路になど先立たぬ命なりけむ」。
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阿仏はまた、歌論書「夜の鶴」、宮仕えの娘に与える庭訓書「乳母のふみ」も書いている。
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阿仏尼(為相)と為氏との相続争い
為家は生前、所領の播磨国細川荘(兵庫県三木市)を正妻の子の嫡男(二条)為氏に与えたが、後に、家に伝わる典籍・文書などと共に為相に与えるという書状を残す。
しかし、為氏は為家没も荘園を手放さなかった。
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相続については、公家法と武家法で解釈が違い、阿仏は鎌倉幕府に訴えるため旅立つ決心をする。
(公家法では悔い返しは認められないが、武家法ではこれが認められている)
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「十六夜日記」
1279年10月16日~翌年秋の阿仏尼の日記で、中世の女性による日記文学の白眉とされる。
前半は鎌倉での裁判のため京都から下向したときの旅日記。
後半は鎌倉滞在記で、京都の知人との和歌のやり取りが中心。
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書出し。
「昔、壁の中より求め出でたりけん書(フミ)の名をば、今の世の人の子は、夢ばかりも、身の上の事とは知らざりけりな」
(孔子の旧居を壊したら、「孝経」という書物が出てきたとの話を踏まえ、「今の世の人の子」(為氏)は親の遺志を守らない不幸者だ、と非難。
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自分は夫を助け和歌の家を支えてきたが、為相が継ぐべき荘園を為氏に横領された。このままでは生計が成り立たず、歌道が廃れる。
公家法が幅をきかせる京都では解決できないので、鎌倉幕府へ訴え出ようと、「いざよう月に誘われ出でなんとぞ思いなりぬる」。
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10月18日、不破の関跡に近い藤川(現、藤古川)を渡る。
「我が子ども君に仕へんためならば渡らましやは関の藤川」
(「子供の出世のためだけでしたら、こんな苦労はいたしません。亡夫の遺志をつぐため、和歌の家のためです」という。)
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「十六夜日記」で、阿仏は、和歌の名家で息子3人のを育て、重要な仕事である和歌などの資料管理に携わったことを誇らしげに書く。
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鎌倉にて
10月29日鎌倉着。
月影の谷(ヤツ)に寓居を構える。江ノ島電鉄「極楽寺駅」近く。
「東にて住む所は月影の谷とぞいうなる。浦近き山もとにて、風いと荒し。山寺の傍らなれば、のどかにすごくて、波の音、松の風絶えず」
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「十六夜日記」には、鎌倉の町の様子や訴訟の進展、自らの日常生活については、殆ど書かれていない。記述は京都の知人や家族との和歌の贈答に終始している。
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「源氏物語」や和歌を教えながら、ひたすら勝訴を祈願して社寺に和歌を捧げる毎日を過ごす。
「都人思ひも出でば東路の花やいかにとおとづれてまし」。
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関東にある10社に勝訴を祈願して奉納した「安嘉門院四条五百首」に、裁判を待つ間に年を取る悲しみうたった歌。
「故郷の人に見せばや黒髪に年もかさなる霜のしろさを」。
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「十六夜日記」の最後の長歌。
「鎌倉の世のまつりごと繁ければ聞え上げてし言の葉も枝にこもりて梅の花四年の春になりにけり」。
(幕政繁多で、上申書が取り上げられないまま4年目の春を迎えた)。
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弘安6年(1283)4月8日、鎌倉で没。
墓とされるものは鎌倉と京都にある。
それから30年後、ようやく阿仏の子為相が勝訴。
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藤原為相
藤原定家の御子左家は、定家の孫の代で為家の長男の為氏が二条家を称し(大覚寺統に接近)、二番目の為教が京極家(持明院統に接近)、為相が冷泉家を称するようになり、三つの家に分裂するが、二条家・京極家は後に断絶し、冷泉家のみが今に残る。
冷泉家も室町時代には様々な変転を経ることになるが、ここでは割愛する。
(京極家には京極為兼という興味深い人物がおり、いずれこの人を取り上げたい)。
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為相は、為氏(その後、為氏の子為世)との係争の為、しばしば鎌倉に赴き、その間武士らに和歌や連歌を教授し、鎌倉歌壇の指導者と仰がれる。
長らく鎌倉の藤ヶ谷に居を構え藤谷黄門とも呼ばれる。
娘の1人は鎌倉幕府8代将軍久明親王(持明院統の後深草天皇の皇子)の側室となり、久良親王が誕生。
この頃の冷泉家は、持明院統の外戚として鎌倉で栄える。
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嘉暦3年(1328)7月17日、66歳で鎌倉に没す。
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関連
①阿仏尼寓居跡
②阿仏尼の墓、冷泉為相の墓
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2009年5月21日木曜日

鎌倉 妙本寺 比企能員一族の墓 竹御前の墓 一幡・若狭局関連遺蹟

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本覚寺を通り抜けると夷堂橋がある。
(若宮大路を南へ、郵便局角を左折、直進すると本覚寺)
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橋を渡ると正面に総門が見える。
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総門と総門脇の比企能員屋敷跡の碑
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総門を抜けると、右側に幼稚園がありその先に、二天門に至る参道(昨日紹介済み)が続く。
参道入口左側に方丈門がある。
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二天門脇の石碑
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祖師堂
祖師堂右側に海棠があります。これを眺めながら中原中也と、彼の愛人を奪った「口惜しき男」小林秀雄が和解したという。
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一幡之君袖塚。
焼け落ちた比企館から一幡が脱出用に着ていた小袖の切れ端が見付かったという。これを祀ったもの。
但し、「愚管抄」では、一幡は義時に預けられ、頼家暗殺直前に義時に殺害されたとする。
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竹御前の墓への入口にある石碑と墓(石碑左側の階段を上がる)。
竹御前は、義仲の子、能員の子などの説があるそうですが、「吾妻鏡」では、14歳で実朝夫人の猶子となり、源家の血筋を継ぐ女子として大いに期待されたそうです。
将軍家の神事・仏事を管掌し、北条政子の49日仏事を主宰。
28歳で13歳の頼経(4代将軍)と結婚。その4年後に没する。
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蛇苦止堂。
若狭局は池に身を投じたといい、その場所に祠を建てて祀る。
(参道入口で左折し突き当りにある)
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妙本寺

2009年5月20日水曜日

鎌倉 新緑の妙本寺

5月14日、今年4回目の妙本寺訪問です。
2回目は桜の季節でした。
http://mokuou.blogspot.com/2009/04/blog-post_2459.html
桜の季節もそうでしたが、この4回目の訪問時も、スケッチされている方が大勢おられました。
比企能員一族のお墓とかもありますが、それらのご紹介は次回として、今回はこの新緑の境内をご紹介。ヘタな写真で、伝わりますかどうか。
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妙本寺の遺跡関連はコチラ
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あじさいの頃の妙本寺はコチラ
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「比企能員一族の悲劇」はコチラ
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10月の妙本寺はコチラ
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総門から二天門への参道。
左側の崖は、比企館の城壁の遺構とのこと。
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二天門。向こうに祖師堂。
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比企一族のお墓が見える。
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今年の1月中旬、最初に訪問した際、境内で野外コンサートがあるらしく、たくさんの人たちが準備をしてました。
後で、ネットで知ったのですが、歌手カヒミ・カリィは、本名比企真理といい、比企氏の末裔だそうで、彼女のコンサートも前にはあったそうです。
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「寺社巡りインデックス」をご参照下さい。
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「★鎌倉インデックス」もあります。
「★四季のうつろいインデックス」はコチラ。

比企能員一族の悲劇(1) 1.概観 2.頼家誕生

JR「鎌倉駅」から歩いても10分ほどのところに妙本寺があります。
ここは、建仁3年(1203)9月2日、北条氏によって滅ぼされた比企能員の屋敷跡です。
唯一京都に落ち延びた能員の末子能本が、学問で身をたてたあと日蓮に帰依し、日蓮門下最初の寺として、寺号「長興山妙本寺」を創建したもの。この寺号は、日蓮より父能員の法号に「長興」、比企尼(能員の養母)の法号に「妙本」を授かり、これに由来する。
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「妙本寺」についてはコチラ
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この比企能員一族の悲劇の物語を、頼家の悲劇、政子の決断などを交えながら年表ふうに書いてゆくつもりです。
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1.「比企の乱」概観
比企能員は、養母が頼朝の乳母比企尼(伊豆流人時代、頼朝に米などの仕送りを続け支援)。
頼朝の旗揚げ以来、側近として活躍。
妻は2代将軍頼家の乳母、娘の若狭局は頼家の妻で、子の一幡を生む。
将軍の外戚としての能員は、北条時政と並ぶ権力者だが、関東御家人の将軍頼家への不満をベースに、重病に陥った頼家の(将軍)後継ぎ問題に端を発し、時政との不和が表面化。
時政は先手を打ち、仏事と偽り能員を自邸に招き謀殺。
この報を受けた比企氏一族郎党は小御所(一幡の館)に篭城し抗戦の構えに出る。
これに対し、政子は、北条氏中心の比企氏追討部隊を派遣し、1日のうちに、一幡・若狭局共々比企氏一党を滅ぼす。更に兵を比企の屋敷(現妙本寺)に差し向け、比企一族を皆殺し。
直後に、頼家は病から回復するものの、出家を強要され、将軍職は弟実朝に移る。
その後、頼家は伊豆修善寺に幽閉され、時政に暗殺される。
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2.頼家誕生
寿永元年(1182)7月12日
・北条政子、出産の為に比企能員の屋敷に移る。
「御台所御産気に依って、比企谷殿に渡御す。・・・千葉の小太郎胤正・同六郎胤頼・梶原源太景季等御共に候す。梶原平三景時、御産の間の雑事を奉行すべきの旨、仰せ付けらると。」(「吾妻鏡」同日条)。
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□現代語訳「十二日、庚辰。御台所(政子)が御産気のため、比企谷殿(比企能員の屋敷)へお移りになった。輿を用いられた。これはあらかじめそこが指定されていたという。千葉小太郎胤正・同六郎胤頼・梶原源太景李等が御供した。梶原平三景時は御産の間の雑事を取り計らうようご命令を受けたという。」。
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8月12日
・北条政子、鎌倉比企ヶ谷の能員の屋敷にて頼朝嫡男の万寿(のちの源頼家)を出産。18日、御七夜の儀。千葉常胤が奉行、妻・秩父重弘娘、子息6人がそれに従う。
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「晩に及び、御台所御産気有り。武衛渡御す。諸人群集す。またこの御事に依って、在国の御家人等近日多く以て参上す。御祈祷の為、奉幣の御使いを伊豆・筥根両所権現並びに近国の宮社に立てらる。所謂、伊豆山 土肥の彌太郎 筥根 佐野の太郎 相模一宮 梶原の平次 三浦十二天 佐原の十郎 武蔵六所宮 葛西の三郎 常陸鹿嶋 小栗の十郎 上総一宮 小権の介良常 下総香取社 千葉の小太郎 安房東條寺 三浦の平六 同国洲崎社 安西の三郎」(「吾妻鏡」同11日条)。
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「酉の刻、御台所男子御平産なり。御験者は専光房阿闍梨良暹・大法師観修、鳴弦役は師岡兵衛の尉重経・大庭の平太景義・多々良権の守貞義なり。上総権の介廣常は引目役。戌の刻、河越の太郎重頼が妻(比企の尼女)召しに依って参入し、御乳付に候す。」(「吾妻鏡」同12日条)。
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頼朝が信頼を寄せる比企能員
比企尼(頼朝の乳母、頼朝が伊豆に流されてからも20年間支援を続ける)の甥で猶子の比企能員が頼家の乳母父に選ばれる。頼家誕生にあたって最初の乳付けの儀式は比企尼の次女(河越重頼室)が行い、比企尼の3女(平賀義信室)、能員の妻も頼家の乳母になる。
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「若公誕生の間、代々の佳例を追い、御家人等に仰せ、御護刀を召さる。所謂、宇都宮左衛門の尉朝綱・畠山の次郎重忠・土屋兵衛の尉義清・和田の太郎義盛・梶原平三景時・同源太景季・横山の太郎時兼等これを献ず。また御家人等が献ずる所の御馬、二百余疋に及ぶ。」(「吾妻鏡」同13日条)。
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「若君三夜の儀、小山の四郎朝政これを沙汰すと。」(「吾妻鏡」同14日条)。
「鶴岡宮の六齋講演を始めらる。」(「吾妻鏡」同15日条)。
「若君五夜の儀、上総の介廣常が沙汰なり。」(「吾妻鏡」同16日条)。
「七夜の儀、千葉の介常胤これを沙汰す。」(「吾妻鏡」同18日条)。
「若君九夜の御儀、外祖これを沙汰せしめ給う。」(「吾妻鏡」同20日条)。
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〇比企尼
「・・・能員が姨母(比企の尼と号す)当初武衛の乳母たり。而るに永暦元年豆州に御遠行の時、忠節を存ずる余り、武蔵の国比企郡を以て請け所と為し、夫掃部の允を相具す。掃部の允下向し、治承四年秋に至るまで、二十年の間、御世途を訪い奉る。今御繁栄の期に当たり、事に於いて彼の奉公に酬いらるるに就いて、件の尼、甥能員を以て猶子と為し、挙げ申すに依って此の如しと。」(「吾妻鏡」同日条)。
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源義朝が鎌倉にいる頃、比企掃部允は義朝の家人となっており、義朝が武家の棟梁として京都で活躍するようになると、比企掃部允夫妻も京都へのぼり義朝側近として奉公する。
久安3年(1147)、頼朝が誕生し、妻の比企尼がその乳母に選ばれる。
平治元年(1159)、平治の乱で義朝が清盛に敗れ、頼朝(14)が伊豆国に流罪となる。
武蔵国比企郡の代官となった比企掃部允は比企尼と共に比企郡中山郷へ下り、治承4年(1180)秋まで20年間頼朝に仕送りを続ける(「吾妻鏡」寿永元年10月17日条)。
比企尼は男子に恵まれず、家督は甥の比企能員を尼の猶子として迎える
文治年2年(1186)6月16日と文治3年(1187)9月9日、頼朝・政子の夫妻は尼の屋敷を訪れて、納涼や観菊の宴会を催す。
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比企尼には3人の娘があり、
①長女:二条天皇に仕える丹後内侍で、すぐれた歌人として知られ、惟宗広言に嫁ぎ、島津家先祖島津忠久を生む。また、平治の乱後、比企掃部允夫妻が武蔵に下ると、り、足立遠元の叔父安達藤九郎盛長と再婚(その娘は頼朝の異母弟範頼の妻)。
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②二女(頼家乳母):武蔵の有力豪族河越重頼の妻(その娘は頼朝の異母弟義経の妻)。
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③三女(頼家乳母):伊豆の有力豪族伊東祐清に嫁ぎ、祐清が討たれた後、平賀義信と再婚(子は朝雅で、北条時政の女と結婚)。
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また、比企能員の娘(若狭局)は頼家と結婚し、一幡竹御前を生む。
一幡は比企の乱で殺害(異説あり)され、竹御前は政子没後、九条家の将軍頼経と結婚するものの若くして没。 
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一方、頼家の弟千幡(実朝)は北条氏が掌握
政子の妹阿波局が乳母になり、その夫阿野全成が乳母夫になる。
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頼朝・政子の2人の男子は、夫々比企氏・北条氏を乳母父関係に持ったことで、抗争の火種を宿す結果となる。
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to be continued

2009年5月19日火曜日

鎌倉 寿福寺 北条政子の墓 実朝の墓 虚子の墓

新緑の濃い寿福寺に行きました。
今年1月についで2回目です。
http://mokuou.blogspot.com/2009/01/blog-post_31.html
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茅葺の山門の向こうに参道がつづく。
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前回、このお寺非公開と書きましたが、今回、他の参観者の方の後にくっついて、中にも入らせて貰いました。
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また、今回は裏山の墓地にも行きました。この裏山は、源氏山ハイキングコースになってまして、人の姿は見えないのに、ハイキングしている人たちの会話がすぐ近くに聞こえます。
「空山 人を見ず 但だ人語の響きを聞く」(王維)ってとこですかね。
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尼将軍北条政子の墓。嘉禄元年7月11日没(69歳)。
「コレ前大将軍ノ後室、二代将軍ノ母儀ナリ、前漢ノ呂后(リョコウ)ニ同ジク、天下ヲ執り行ハシメタマフ、若ハマタ神功皇后再生セシメ、我国ノ皇基ヲ擁護セシメタマフカト云々」と、「吾妻鏡」は最大級の賛辞を記す。
周囲の反対を押し切って流人頼朝と結婚、頼朝没後の武家政権の危機(特に承久の乱)を乗り切り、没直前まで伊賀氏事件を仕切るために奔走。
「吾妻鏡」の立場からすれば、あながち誇張ではないのか。
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お墓そのものは、「伝」ということだそうです。
「・・・ちなみに実朝の墓とされる岩窟は、牡丹と唐草との模様を胡粉で彩色しており、政子の方も彩色された痕跡があるという。考古学的知見と重ね合わせても、この五輪塔は鎌倉末から南北朝期のものとされており、これが政子・実朝に関係するとの確証はない。」(関幸彦「北条政子」)
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また、政子は晩年の居所である南新御堂で火葬され(「吾妻鏡」)、勝長寿院に葬られたとされています(実朝も勝長寿院に葬られる)(「河野真知郎「中世都市 鎌倉」)
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実朝の墓
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虚子の墓
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お寺の山門前にある「源氏山」の碑
「源氏山ハ初メ武庫山卜云ヒ、亀ケ谷ノ中央ニアル形勝ノ地ナルヲ以テ、又亀谷山トモ称セリ・・・或ハ旗立山卜名付ク山ノ麓寿福寺境内附近ハ、爾来源氏世々ノ邸宅タリシ地ナリト云フ・・・」
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2009年5月18日月曜日

鎌倉 扇谷山 海蔵寺






緑の深いいいお寺です。
由来は②を参照して下さい。
④⑤は庭園ですが、非公開なので、観覧できるぎりぎりの線での写真となりました。
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昭和13(1938)年2月(1) 第2次人民戦線事件

昭和13(1938)年2月
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この月
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・石井部隊の人体実験開始。
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・蒙古軍軍事顧問部開設。最高顧問・金川耕作中佐
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・輸入刊行物の輸入禁止処分、激増。南京虐殺事件関連情報の流入防止の為
内務省警保局図書課作成「出版警察報」によると、「我軍ガ無事ノ人民ニ惨虐ナル行為ヲ為セル如ク曲説スルモノ」、「我軍ガ国際公法違反ノ戦闘手段ヲ行使セル如ク曲説スルモノ」として、輸入禁止処分を受けたものは、1月25件のものが、2月109年、3月79件となる。
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このなかには、
「南京入城後殺人鬼と化せる日本軍」(「シャンハイ・イブニング・ポスト」1937年12月25日)、
「南京で殺害されたる支那(ママ)人一万人以上、姦淫されたる婦女数八千~二万人」(広東の「中山日報」1938年1月23日)、
「南京虐殺の元兇は橋本欣五郎大佐」(ニューヨークの雑誌「アメラシア」2月号)、
残虐シーンの写真が入った「ライフ」(1月10号)など南京事件関連の報道が多数。
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また、国内刊行物で発禁になったものでは、
「日本軍に対し行動疑惑ある部落の如きは之を攻め妻女の前にて夫を斬り子の前で親を撃ち家に火を放ち之を掃蕩する事もあります」との「戦地だより」を掲載した「日本武道新開」第55号(昭和13年1月17日)など。
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・農業報国連盟の結成。
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・函館の文学サークル「開戦地帯社」・「あぶし社」、検挙。
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地方の文学サークル・同人雑誌グループの検挙:
「西三無産者芸術連盟」(愛知県。38年同6月検挙)、「東海文学社」(静岡県。同8月検挙)、秋田県の小サークル(同10月検挙)回覧雑誌「人間鍛冶」(東京。39年12月検挙)、「神戸詩人クラブ」(40年3月7名検挙)、「南方文芸」(香川県。同3月、高松高商学会など12名検挙)、「文芸庭園」(群馬県桐生。同9月6名検挙)「信州文学」(長野県飯田。41年12月検挙)、「浪曼文学研究会」(神奈川県。同11月以降22名検挙)、「イズバ」(愛知県。同9月5名検挙)、「仙台詩人懇談会」(同11月3名検挙)、「国民詩歌協会」(広島県。同12月検挙)など。
* 
・春日庄次郎らの日本共産主義者団、結成の檄を発表。4月15日、機関誌「民衆の声」発刊。9月13日以降178人検挙され潰滅。
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・宮城県、東北大関係「杜の会」20名検挙。学内文化運動、共青細胞組織等。
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・正宗白鳥「文学的自叙伝」(「中央公論」)2~7
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・小林秀雄(36)、「志賀直哉論」(『改造』)、「文芸時評」「思想統制とデマ」(『東京朝日新聞』)。『新女苑』座談会「若さの探求」。
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・アメリカ映画「モダン・タイムス」上映。
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・内務省令により、1興行3時間時間制となる。
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・内閣情報部、この年より40年(第3回)まで毎年2月、思想戦講習会を組織。高等文官・中佐級将校など約100名を首相官邸に集める。テキストは「ドイツ新聞学」。
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・在シャム華僑、南京大虐殺事件に抗議して再び日貨ボイコット運動。
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・ドイツ共産党員であった国崎定洞のフリーダ夫人、獄中の夫との面会もままならないままソ連政府から国外追放。
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・トロツキー(58)の長男レオン・セドフが病院で怪死。「彼らのモラルとわれわれのモラル」、「レオン・セドフ――息子、友人、闘士」を執筆し、セドフを追悼。
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2月1日
・中華民国臨時政府、冀東防共自治政府を吸収。4月迄に河北・河南・山東・山西に省政府を作り、臨時政府の下に組込んで行く。
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2月1日
・この日付けジョン・ラーベの日記(「南京の真実」)。
「右を向いても左を向いても、聞こえてくるのは中国人の嘆きばかり。家に帰ったはいいが、妻や娘が強姦されたというのだ。けっきょくあとからあとから安全区へ舞い戻ってきた。・・・」
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2月1日
第2次人民戦線事件
東大教授大内兵衛・同助教授有沢広巳・脇村義太郎・政大学教授阿部勇・同美濃部亮吉・同南謹二・巣鴨高商教授芹沢彪衛・横浜高専教授早瀬利雄ら労農派教授11名他24名検挙。1944年2月の第2審で無罪判決。
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内務省は、「今回検挙されたものの原稿は、その内容の如何を問わず、雑誌その他の掲載を禁ずる」と各社に通告。
警保局図書課長大坪保雄は、さらに、各社の編集責任者をまねき、「人民戦線派の共産主義運動は、今回の検挙をみてもわかるとおり、合法舞台を百パーセントに利用しているのであるから、われわれとしては、今後、人民戦線派と判定する寄稿家については、取締り上、論文はもとより、随筆、紀行文、映画批評の類にいたるまで、その種の意図をもって書いたものとみて、雑誌その他の掲載を禁止する。編集者が、情を知ってこれを掲載した場合には、行政処分はもとより、ある程度の司法処分をおこなうかもしれない」と宣告。
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to be continued

2009年5月17日日曜日

京都 旧二条城の石垣遺構





現在の二条城の本丸裏に置かれている、信長が将軍義昭のために築造した旧二条城の遺構です。
旧二条城につては、下記を参照下さい。
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地下鉄工事で発掘されたもの。
雑草ぼうぼうで放置されている、という感じです。
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そもそも、同じ「二条城」という名だから現在の(家康の)二条城に置いたという発想も、よく理解できない。
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連休中に訪問したのですが、この日は、入城券売機の前に20~30mほどの待ち行列ができるほどの混み様でした。しかし、この石垣前で、しげしげ眺めたり写真を撮ったりしてたのは私だけでした。
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織田氏のルーツ(下記)
で書きましたように、織田氏は斯波氏の被官でした。
その斯波武衛陣跡に、義昭の為とはいえ築城したのは、何らかの意図があたのか、なかったのか。
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最近読んだ本に、下記のようなくだりがありました。
「義昭の室町御所が竣工したのちに、門前に割れた蛤貝が九つならべて置かれていた。その心を知る人がなかったのに信長は、これは公方の心が馬鹿で、くかい(九つの貝、公界、表向きのこと)が欠けているということを京童(キョウワラベ)が笑ってしたものだとささやいたという(「戴恩記」。松永貞徳の著、一応信頼できる)。自分の住宅を信長に建ててもらうほど、将軍として表向きのことは何もできないとの悪口である。京童はまことに人が悪るく、辛辣だ。」(奥野高広「足利義昭」)。
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