②同 東南櫓
③同 西南櫓
④同 北大手門
⑤同 東大手門内側
⑥同 東南櫓内側
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二条城に行ってきました。入城料600円。
京都の「三つの二条城」に関しては、下記の過去の記事を参照して下さい。
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購入した小冊子より沿革の概要をご紹介。
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①関ヶ原で勝利した家康は、慶長7年(1602)5月、二条城造築を開始。京都での拠点と、朝廷・諸国諸藩に勢威を示すのが目的。当時、家康は伏見城を居城としていたが、政治目的から、御所に近い洛中に居館を置く必要があった。この時完成したのは二の丸御殿の部分。
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②慶長8年3月27日、竣工まもない二条城に勅使を迎え、家康の征夷大将軍宣下の賀儀が行われ、4月4日から3日間、公家衆・諸大名を招き祝賀の宴をはる。
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③慶長16年、家康は秀吉の遺児秀頼と対面、豊臣家を滅ぼす決意を固める。
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④慶長19年12月の大坂冬の陣、元和元年5月の夏の陣では幕府の本営が置かれ、家康が陣取って戦いの差配をし、さらに戦後処理も行った。
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⑥元和元年7月、秀忠は二条城に公卿一同を招き「禁中並公家諸法度」を公表。更に「諸宗諸本山・諸法度」を定め、公卿と宗教に厳しい伽を課す。
その後、二条城は、朝廷の守護、動静監視の拠点として、また将軍上洛時の宿舎として利用される。
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⑦元和6年(1620)、二代将軍秀忠の娘和子が後水尾天皇の女御として入内することになり、和子の宿所となった二条城に新たな御殿が建設される。
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⑧寛永元年(1624)と同3年には、同年9月の後水尾天皇行幸に先立ち大規模な改修と増築を実施。城域を西に拡張し、東西約500m、南北約400mの現在の規模になる。
新たに本丸部分を設け、殿舎を新築し、西南隅には伏見城の天守閣を移築。これに伴い、二の丸天守閣は淀城に移す。また、二の丸の中に天皇を迎える行幸御殿を建て、合わせて二の丸御殿と庭園の改修改造も行う。
幕府は「城中殿閣構造あるべし、ことさら、玉座は金銀の具をもちいるべし」 (徳川実記)と命じ、小堀遠州らを作事奉行に任じる。
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⑨文久3年(1863)、十四代将軍家茂が、将軍としては家光以来230年ぶりに二条城に入城。
この時は、寛延3年(1750)の落雷によって天守閣を失い、天明8年(1788)の大火で本丸御殿等が焼失し、城は荒れ果てて往時の面影は見られないような状況。
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⑩慶応3年(1867)、十五代将軍慶喜は、二の丸大広間に諸大名を集めて大政奉還を宣言。
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⑪明治元年(1868)1月、二条城は朝廷に接収され、ここに太政官代が置かれる。
また、2月3日には明治天皇が、城内白書院で幕府討伐の詔を発する。
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次回以降、二条城(2)二の丸、(3)本丸及び、二条城周辺(1)~(5)について記す予定。
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