2011年1月19日水曜日

明治6年(1873)11月1日~4日 大久保利通「立憲政体に関する意見書」 井上馨、伊藤博文に利権を無心 李氏朝鮮の高宗親政開始 大院君失脚  [一葉1歳]

明治6年(1873)11月
この月
・政府、工部卿伊藤博文・外務卿寺島宗則に「政体取調」指示。
大久保利通、伊藤に自分の考えを長文の「立憲政体に関する意見書」に纏めて渡す。
イギリスを手本とした「君主政治」「民主政治」の検討。また、この取調に福沢諭吉を取込み、失望させないためにも政府で不採用とならないよう本気で考えたいと述べる。
*
■大久保意見書
「民主未ダ以テ取ル可ヲズ。君主モ亦、未ダ以テ捨ツ可ヲズ。」
しかし、大久保利通は、「民主ノ政」が「天理」だと考えている。
「天下ヲ以テ一人ニ私セズ、広ク国家ノ洪益ヲ計カリ、洽(アマ)ネク人民ノ自由ヲ達シ、法政ノ旨ヲ失ハズ、首長ノ任ニ違ハズ、実ニ天理ノ本然ヲ完具スル者ニシテ・・・」
その上で、「民主ノ政」は、アメリカ、スイス他の例をあげ、「創立ノ国」「新徒ノ国」ではうまくゆくが、として退ける。
同時に、「君主ノ政」が「明君」「良弼」あるときはうまくゆくが、ピュリタン革命やフランス大革命をまねくことは必然だとする。
「君主ノ政」は「人為」からでて、「天理」にかなわない場合が多く、長く維持すべきではない、とする。
日本は、維新以来「君主擅制(センセイ)」だが、今日にはそれが適用できても、すでに「時勢」は「半バ開化」に入っている。
将来もこれを「固守」すべきではない。
大久保は、理念型として「君民共治」を打ち出す。
「定律国法ハ即ハチ君民共治ノ制ニシテ、上ミ(ママ)君権ヲ定メ、下モ民権ヲ限り、至公至正、君民得テ私スベカラズ。」
*
この「意見書」では、大久保は、イギリスは一例として引いているだけだが、翌明治7年5~6月頃の「殖産興業に関する建議書」では、イギリスを準拠国としている。  
*
大久保は、「此取調には福沢諭吉なども組込侯てはいかが」かという。
伊藤は、福沢と協力する場合は、「必ず其人の識見と道理」を重視せねはならす、「政府において不採用」などといえば失望させるだけだから、本気に考えたいと述べる(伊藤博文書簡、「大久保利通文書」)
*
・ロシア公使ビュツフォ、樺太の日露境界画定交渉開始要求。
*
・庄内・田川郡下で石代納を求める運動「ワッパ騒動」、勃発
*
・官職を辞した旧高知藩士、海南義社結成。
品川大井の旧藩主山内容堂の墓前に共同行動を誓約。
*
・板垣退助ら、銀座3丁目に幸福安全社を開設。
*
・第28番中学区福井私立中学校に師範学科を併設。小学校教員養成機関の設置。
翌7年4月、この学科は福井師範学校として独立。
5月、1千戸に1人の割合で生徒を募集、試験のうえ師範学科に入学させた者は120人。学資は1ヶ月2円30銭を貸与。
8年9月、小浜(第26中学区)・武生(第27中学区)・大野(第28中学区)・福井(第29中学区)4ヶ所に小学授業法伝習所を設置、定員150人を募集。
12月、区長・学区取締・校長などの会議によって「公学規則」が定められ、伝習所の卒業証書をもつ者しか訓導はできなくなる。
9年2月より現職の教員や一般の志願者に対し試験を行い、及第者に証書を与える。
*
*
11月1日
前大蔵大輔(捕縛寸前であった)井上馨、工部卿伊藤博文に厚顔無恥にも利権要求の手紙
①鉱山税の廃止または免除。
②XX(判読不能)鉱山を払い下げて欲しい。
③飛騨高山鉱山は中小企業経営で非効率だが有望なので、一旦工部省鉱山寮管轄に移し、払い下げて欲しい。
*
「……早速ながら我儘がましく候えども、工部卿御職へ対し候て申し上げ候、
諸鉱山の税御免と□□(破損)鉱山だけは是非とも生(井上)へ仰付けられ度く願い奉り侯、
また飛騨高山鉱山の義は小民稼ぎに従来の弊多くこれあり候えども、充分見込みもこれあり候山に候あいだ、一応鉱山寮のものに御引き揚げなし下され候て、我が会社へ御任せ下され候わば有り難く存じ奉り候、
当時の勢いにては往々不始末山も衰え候様成り行き候あいだ御配慮下され度く候……」
*
11月1日
・バクーニン派、ジュネーブでジュラ同盟会議開催。第1インターナショナル総評議会廃止決定。
*
11月3日
・李氏朝鮮、崔益鉉、大院君退陣・高宗親政の上疎(2回目)を高宗に呈出。
文中に過激な言辞あり済州島に配流(実際は大院君のテロからの保護)。
5日、高宗(21)、「親政」布告
大院君失脚。宮廷の大院君専用出入口を閉鎖。全て閔妃の差金。
右議政朴珪寿(開化思想)、左議政興寅君李最応(大院君の兄)。大院君長男と伯父李最応は大院君の動静の閔妃への通報者。
領議政は李裕元(かつて大院君かた左議政にと乞われたがこれを固辞した)。
高宗即位工作に尽力した趙大王王妃派一門を優遇し、大院君の政敵安東金氏一門も再浮上。
大院君派を一掃(没落、追放、流罪、処刑)
大院君の手許に残ったのは妾腹の息子李載先だけ。
*
 崔の2回目の上疏:
「大院君は王の父であり、最高の敬意をもって遇するは当然だが、いつまでも国政に関与するのは間違いである。王が成年に達せられた今日、すみやかに執政の座をおりるべきだ」というもの。
ほほ10年間君臨した大院君には法的権力の根拠はない。
「王が若年」との理由で執政となったが、法的には王が最高権力者であり、命令・布告はすべて王の名で出されている。
「立派に成人された王(21歳)の叡知と仁徳をもって、親政をされるのが至当」との主張に対して、大院君には対抗する論拠はない。
*
新政権は、大院君が制定した諸政の改革を破壊。
大院君が政治生命を賭して撤廃を断行した書院の一部は復興し、両班階級が強く反撥した戸布の義務は免除される。
一般庶民階級に対しては、彼らの人気を得る目的で「清銭禁輸」が施行され、大院君が景福宮再建の財源として設けた「通門税」などが廃止。
*
勢道政治の幕開け
大院君の引退は、同時に閔氏一族の勢道政治の幕開けであり、閔升鎬、閔奎鎬が一門の代表格。
勢道政治を嫌い、有力、有能な後ろ盾のない王妃をと厳還した大院君であったが、閔妃は彼女自身の意志と才覚でそれを実現した。
ソウルの儒生たちの間に、大院君還宮促進運動が起こる。
彼らは、「大院君をいつまでも遠地に閑居させるのは、父子の義にあらず」と、孝道を尽さない王を激しく非難。
厳しい処罰にもかかわらずこの運動の広がり、地方の儒生たちもソウルに集まって種々の建白書を配布。
王はみずから建白書を読み、閣僚たちに「不孝者呼ばわりをして父子の間を裂く、許しがたい行為」と告げて、時々後ろの屏風の方をふり返りながら、儒生たちの処分を命じる。
屏風の内には、王の発音を助け導く関妃が控えている。
これが「高宗親政」の実体であり、閣僚たちはこの事を知っている。
*
閔妃:
驪興(漢城の北、京畿道驪州)を本貫(一族の始祖の出身地)とする閔氏一族の閔致禄の一人娘。
1851年(嘉永4)生まれで、高宗より1歳年上(結婚の時、閔妃は16歳)。幼名は紫英。
名門ではあるが没落していた閔致禄の一家は、その後、驪州を離れ、漢城府内の安国洞に移り住む。
一家の生活は極端に貧しく、その辛酸をなめつくした閔紫英は、耐えることの重要さを知る。
閔紫英8歳のとき、父母が相次いで亡くなり、やむなく少女は出生地の驪州に戻り、遠い親戚筋の幼女となり、ここで閔紫は人の心のひだを読みとる術を身につける。
*
11月4日
・泉鏡花、誕生。
*
*
「★樋口一葉インデックス」をご参照下さい。
*

2011年1月18日火曜日

東京 江戸城 東御苑のロウバイ 梅林坂の梅 冬枯れの東御苑 世界第二位となったスカイツリー

先日(1月16日)に北の丸公園のロウバイをご紹介しました(コチラ)が、
今日(1月18日)は、江戸城東御苑のロウバイをご紹介します。
二の丸雑木林の大手門側の入口付近にあります。
*
▼シソンロウバイ


*
▼帰りに梅林坂に立ち寄りウメを見てきました。
下の様にたくさん花を付けた木もありますが、メインはこれからです。



*
以下、東御苑の冬枯れの様子です。
▼二の丸池
*
▼二の丸雑木林
この冬枯れの景色もまたイイです。
*
▼世界第二位となったスカイツリー(本日発表)
江戸城東桔橋門前(北の丸公園入口前)歩道橋よりみたもの。
*
世界第三位であると発表されたのが1月11日だったのに。
同じ位置で撮った第三位のときの写真(コチラ)
比較できます。
*
「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
*

2011年1月17日月曜日

京都 正月散歩(8) 嵐山から松尾大社へ お酒の神さま「松尾大社」

松尾大社に到着。
丁度、四条通りが京都の西山に突き刺さる、その終点にある。
*
創建は大宝元年(701)秦忌寸都理(はたのいみきとり)が松尾山(現在の大社の背後にある山223m)に磐座(いわくら)の神霊を勧請して社殿を建てたことに始まる。
天平2年(730)、大社の称号を与えられる。
平安遷都後は、東の賀茂社、西の松尾社と称され王城鎮護の社として尊崇される。
「延喜式」では名神大社となり、二十二社の制の上七社の一つとされる。
お酒の神として信仰され、境内の霊泉「亀の井」の水を混ぜるとお酒が腐らないという伝説がある。
*
また、子供の頃の話である。
*
小学生の頃、神社の脇を流れる小川に蛍を見に行った記憶がある。
虫カゴに草を入れて数匹持ち帰った。
*
中学生くらいの頃、その小川で小魚を採ったことがある。
同じ頃、神社の裏山(松尾山かどうか?)に上ると、古墳のような石で組まれたホラ穴があったのを覚えている。上向きに入口が露出していたので、防空壕ではないと思う。それに、人の入れるような大きさではなかったような・・・?

*
▼これは「平成の大鳥居」
*
ここも人、ひと、ヒトである。
北野天満宮、八坂神社と比べると、どこか土俗の香り、はっきり言えば田舎臭さがあり、これがまたスゴクイイ。


*
▼さすがお酒の神さまだけある。
百樽あるそうです。
*
▼好きなヒトがいるんですよネ。
阪神タイガース。

*
▼どういう基準で並べたのか? 悩む。
*
「★京都インデックス」 「★寺社巡りインデックス」 をご参照下さい。
*

東京 北の丸公園 今にも咲きそうなカワヅザクラ カンザクラ コブシは蕾 お濠(清水濠)には薄氷

今日(1月17日)お昼に北の丸公園のカワヅザクラの様子を見にゆきました。
*
▼もう少しで花が開きそうな気配です。


*
▼カワヅザクラの近くにはコブシがたくさんの蕾をつけています。
他にハナモクレンも同じような様子です。
*
▼カンザクラ
こちらはまだ固い蕾
*
▼今日の朝8時半頃の竹橋
この数日、清水濠に薄氷がはっています。

*
「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
*

明治44年(1911)1月18日 大逆事件判決 その日の石川啄木、平出修、堺利彦

明治44年(1911)1月18日午後1時10分~2時5分
大逆事件判決下る
全員有罪。新田融11年、新村善兵衛8年。他24名は死刑。
*
翌1月19日
・天皇恩赦により、24名中12名が無期へ減刑
*
高木顕明(46、大正6年6月24日獄中自殺)
崎久保誓一(27、昭和4年4月29日仮出獄、30年10月30日病没)
飛松与次郎(23、大正14年5月10日仮出獄、昭和30年9月病没)
坂本清馬(27、昭和4年4月29日仮出獄)
成石勘三郎(32、昭和4年4月29日仮出獄、6年1月3日病没)
岡本顚一郎(32、大正6年7月27日獄中病没)
岡林寅松(36、昭和6年4月29日仮出獄、23年9月1日病没)
三浦安太郎(24、大正5年5月18日獄中自殺)
武田九平(37、昭和4年4月29日仮出獄、昭和8年12月事故死)
小松丑治(36、昭和6年4月29日仮出獄、23年9月1日病没)
佐々木道元(23、大正5年7月15日獄中病没)
峯尾節堂(27、大正8年3月7日獄中病没)
*
*
【平出修】
1月18日
判決を聞いたあと、事件を担当した弁護士平出修は自身が書いてきた「大逆事件意見書」末尾の「後に書す」を書く。
*
平出修「刑法第七十三条に関する被告事件弁護の手控(大逆事件意見書)」末尾の「後に書す」
*
「もし予審調書其ものを証拠として罪案を断ずれば、被告の全部は所謂大逆罪を犯すの意思と之が実行に加はるの覚悟を有せるものとして、悉く罪死刑に当って居る。


乍併調書の文字を離れて、静に事の真相を考ふれば本件犯罪は宮下太吉、菅野スガ、新村忠雄の三人によりて企画せられ、稍実行の姿を形成して居る丈けであって、終始此三人者と行動して居た古河力作の心事は既に頗る曖昧であった。


幸徳伝次郎に至れば、彼は死を期して法廷に立ち、自らの為に弁疏の辞を加へざりし為、直接彼の口より何物をも聞くを得なかったとは云へ、彼の衷心大に諒とすべきものがある。


大石誠之助に至りては寔(マコト)に之れ一場の悪夢、思ふに、事の成行きが意外又意外、彼自らも其数奇なる運命に、驚きつつあったのであらう。


只夫れ幸徳は、主義の伝播者たる責任の免るべからざるものあり、大石には証拠上千百の愁訴も之を覆すべからざるものあり、形式証拠を重んずる日本の裁判所は遂に彼等両人を放免するの勇気と雅量なかるべきを思ひしも、其余の二十名は悉く一場の座談、しかも拘引の当時より数へて一年有半前のことにかかり、其座談の内容が四五十人の決死の士あらば富豪を劫掠し、官庁を焼払ひ、尚余力あらば進んで二重橋にせまらんと云ふ一噱(イッキャク、笑い話)にも付すべきものであって、・・・」
*
 「大逆事件意見書」の結びの部分は、

「大審院判官諸公は国家の権力行使の機関として判決を下し、事実を確定した。
けれども、それは彼等の認定した事実に過ぎないのである。
之が為に絶対の真実は或は誤り伝へられて、世間に発表せられずに了るとしても、其為に真実は決して存在を失ふものではないのである。
余は此点に於て真実の発見者である
此発見は千古不磨である。
余は今の処では之れ丈けの事に満足して鍼黙(カンモク)を守らねばならぬ」
*
*
石川啄木日記1月3日
平出君の処で無政府主義者の特別裁判に関する内容を聞いた
若し自分が裁判長だつたら、管野すが、宮下太吉、新村忠雄、古河力作の四人を死刑に、幸徳大石の二人を無期に、内山愚童を不敬罪で五年位に、そしてあとは無罪にすると平出君が言つた
またこの事件に関する自分の感想録を書いておくと言つた。
に相当する。
*
*
*
【堺利彦】
1月18日
堺利彦(40)泥酔す

「泥酔した判決の夜」(黒岩比佐子「パンとペン」より)

堺利彦は大逆事件の検挙が続く前年(明治44年)は、幸いにも赤旗事件により監獄の中であり、事件に連座する事は免れた。
9月22日に監獄を出てからは、何度も東京監獄に行き、幸徳秋水らに面会し、差し入れをし、手紙を書いている。

「普段は温厚で、決して乱暴なことをしない堺が、その晩は酒を飲んで泥酔し、街灯や道路工事の赤ランプをけとはして壊していったというのだ。やさしい言葉をかけてくれたおでん屋の主人には、財布ごと金をやったともいう。」


石川三四郎によると以下のようであったという。


「石川によると、堺と大杉栄と石川の三人は、かなり酒を飲んで信濃町停車場で下車した。
殺気立っている堺は、停車場近くの交番に唾を吐きかけて小便をした。
白い湯気が上がり、交番の巡査も気づいたが、尾行についていた三人の刑事が耳打ちすると、巡査は見て見ぬふりをした。
さらに、道路を掘り返した所に赤いガス灯が三、四個並べであったが、堺はその一つをステッキで突いて壊した。
ガシャーンという激しい音がしたが、誰も何ともいわなかった。
尾行の刑事たちは、わなわなと震えている様子だったが、さらに堺は二つ目のガス灯を足でけとはして倒したという。
たまりかねた刑事が石川のそばに来て、堺を家まで送ってくれと哀願した。
絞首台で仲間が殺されていることを知っているので、刑事もあまりいい気分ではなかったのだろう、と石川は書いている。」
*
*
*
【石川啄木】
*
石川啄木日記より

一月十八日 半晴 温
今日は幸徳らの特別裁判宣告の日であつた。午前に前夜の歌を清書して創作の若山君に送り、社に出た。
今日程予の頭の昂奮してゐた日はなかつた。さうして今日程昂奮の後の疲労を感じた日はなかつた。二時半過ぎた頃でもあつたらうか。「二人だけ生きる生きる」「あとは皆死刑だ」「ああ二十四人!」さういふ声が耳に入つた。「判決が下つてから万歳を叫んだ者があります」と松崎君が渋川氏へ報告したゐた。予はそのまま何も考へなかつた。ただすぐ家へ帰つて寝たいと思つた。それでも定刻に帰つた。帰つて話をしたら母の眼に涙があつた。「日本はダメだ。」そんな事を漠然と考へ乍ら丸谷君を訪ねて十時頃まで話した。
夕刊の一新聞には幸徳が法廷で微笑した顔を「悪魔の顔」とかいてあつた。
[受信欄]牧水君より。

一月十九日 雨 寒
朝に枕の上で国民新聞を読んでゐたら俄かに涙が出た。「畜生! 駄目だ!」さういふ言葉も我知らず口に出た。社会主義は到底駄目である。人類の幸福は独り強大なる国家の社会政策によつてのみ得られる、さうして日本は代々社会政策を行つている国である。と御用記者は書いてゐた。
桂、大浦、平田、小松原の四大臣が待罪書を奉呈したといふ通信があつた。内命によつて終日臨時閣議が開かれ、その伏奏の結果特別裁判判決について大権の発動があるだらうといふ通信もあつた。
前夜丸谷君と話した茶話会の事を電話で土岐君にも通じた。

一月二十日 雪 温
昨夜大命によつて二十四名の死刑囚中十二名だけ無期懲役に減刑されたさうである。
東京は朝から雪がふつていた。午後になつても、夜になつても止まなかつた。仕事のひまひまに絶えず降りしきる雪を窓から眺めて、妙に叙情詩でもうたひたいやうな気分がした。
前夜書いた「樹木と果実」の広告文を土岐君へ送つた。それと共に、毎月二人の書くものは、何頁づつといふ風に自由な契約にしよう、さうでないと書くといふことが権利でなくて義務のやうな気がすると言つてやつた。
[発信欄]土岐君へ。
*
*
1月20日付け「大阪朝日新聞」社説

「今回二十六人の性行及び経歴を観るに、一も常識を有する人類として歯(よわい)すべきものにあらず、何れも社会の失敗者にして、余儀なく無政府共産主義等の名を藉(か)りて、其の欝を散ぜんとするに過ぎず。
何も皇室に恨みあるにあらず、唯(ただ)狂者が家長を恨み、道理を無(な)みし、自らも憤死せんとするに過ぎず。
・・・全く狂愚の沙汰なり。
彼等が死を期す固(もとよ)りなるぺし、之に死刑を宣告す、亦社会より黴菌を除去するもの、吾人は之をペストの掃蕩と同一視し、毫も之を仮借するの必要なしと信ず。
・・・之を杜(ふさ)ぐは所謂社会政策を行ひ、文明の余病を医し、其黴菌発生の源を断つにあり。
・・・故に其の黴菌の発生に対しては直に外科的裁断を加ふると同時に、平時は内科的医療を加ふるを当然なりとす。」
*
*
今から100年前の話である
*
パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い
パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い

2011年1月16日日曜日

東京 北の丸公園 池に薄氷がはる冬枯れの中で、ロウバイが咲き始めた。 ウメも咲いている。 

冬枯れの北の丸公園
1月14日(金)昼休み時間
*

武道館前の駐車場脇に咲き始めたロウバイを見付けました。


*
先にご紹介しました(コチラ)ようにウメも咲いています。

*
▼アカバナミツマタ(ジンチョウゲ科)
*
▼ナンテン
*
▼よく見ると池には薄氷がはっていました。

*
▼冬枯れの風景

*
▼この日の武道館
誰のコンサートか全くわかりません
*
*
「★東京インデックス」 「★四季のうつろいインデックス」 をご参照下さい。
*
*

与謝野氏入閣で海江田氏が「人生不条理」と歎く

「人生とは不条理なもの?」
*
イエイエ、カイエダ氏、これくらいでそんなにおおげさに歎くには及ばない。
これは、単に、カン氏の底の浅ささがなせるわざ。
多分、あと少したてば、そのカン氏が、同じように「人生とは不条理なもの」とぼやくであろう。
*
ヨサノ氏は、つくづくバリアフリーなヒトなんだろう。
某党の比例枠で辛うじて代議士になったのに、某党から政権を奪った某々党にクラ替え。
おまけに、某々党主流が追い落としを図る旧主流派領袖とは囲碁対決を公開する間柄。
財政論者というけど、アソー内閣終盤では頑張りきれずに黙んまりをきめこんだ「柔軟性」も備えている。


上は、ある時、江戸城総曲輪(惣構)を歩いてみようと思い立って歩き始めた際に撮った四谷見附の写真。
丁度、総選挙前だったようです。
お二人は因縁の激闘を続けた仲なんですね
*
この時は、牛込見附、四谷見附、喰違見附まで歩きました。
昨年末、喰違見附から赤坂見附まで歩いてみましたので、そのうちこれらを繋げて記事にしようかと思っていましたが、与謝野氏入閣のニュースを聞いて、ついつい四谷見附の一部をご紹介してしまいました。
*
カン内閣、今までにない危険な内閣になりつつある。
*
*

今日の富士山 2011-01-16

横浜市戸塚区からの今日の富士山。午前9時頃。
このあとすぐに、富士山方面にだけ雲がかかり、夕方も僅かに見える程度でした。

京都 正月散歩(7) 嵐山から松尾大社へ 「嵯峨の虚空蔵(こくぞう)さん」法輪寺 「決して後ろを振り向いてはいけない」

嵐山と言えば、次はここから北へ嵯峨野散策が定番ですが、今回は松尾大社の方に(南に)行きます。
(以前に嵯峨野散策コースはご紹介してます・・・コチラ)
*
まず、渡月橋を渡ったところで「嵯峨の虚空蔵(こくぞう)さん」でしられる法輪寺へ。
智福山と号する真言宗のお寺。
和銅6年(713)、元明天皇の命により行基が開創したという。
虚空蔵菩薩は、虚空のように広大無辺の福徳や智慧を蔵して衆生の諸願を成就させる菩薩のこと。
法輪寺の本尊虚空蔵菩薩坐像は日本三虚空蔵の一つ。
(他の二つは、福島県柳津町の円蔵寺の福満虚空蔵菩薩、三重県伊勢市の朝熊山山頂の金剛証寺の福威智満虚空蔵菩薩)
*
法輪寺は「十三詣(まいり)」で知られている。
これは、数え年13歳になった子供が虚空蔵菩薩を参詣し、大人になる智慧を授かり、身体の健やかなることを祈願する行事のこと。
参詣後は、渡月橋を渡りきるまで決して後ろを振り向いてはいけないという。
せっかく授かった福徳や智慧が消えるから。
まるで、「無縁坂」(さだまさし)のようでもある。








*
法輪寺の後は、阪急電車嵐山駅近くから桂川に出て、川沿いに松尾大社までを歩く。
法輪寺は山襞に包まれた場所にあったため暗い景色であったが、実は晴天である。
木津・泉大橋まで45kmとある。
遊歩道がずっと続いているということでしょうか。

*
子供の頃、この辺りで友禅染めの布を洗っているのをよく見かけた。
また、川にはこんなに水量はなく、ところどころに川底が見えていたように記憶している。
*
*
「★京都インデックス」 「★寺社巡りインデックス」 をご参照下さい。
*
*

2011年1月14日金曜日

京都 正月散歩(6) 嵐山から松尾大社へ 嵐山 渡月橋 日中不再戦の碑

正月2日は、散歩はお休み。
*
ちなみに、
1日夜は、新潟のお酒「越のかぎろひ」など計2本(升)が殆どカラになりました
(・・・3人で)。
2日は、メンバが入れ替り、缶ビールロング20缶がぺシャンとなりました。
この日も男性陣は3人、但し女性陣も呑ってたようです。
ワタクシ以外の男性陣は、その後、夜の街に出陣したとか・・・。
*
3日は、嵐山から松尾大社まで桂川沿いを歩くことにしました。
嵐山までは市バス、松尾大社からの帰りは阪急電車にしました。
*
▼嵐山、渡月橋
子供の頃はここで泳いだこともある。

*
▼中之島公園のうんと端から渡月橋をみたところ

*
▼正面に見えるのが愛宕山
*
▼渡月橋から上流を見る
*
中之島公園の端に「日中不再戦」の碑がある。
1968年7月の建立
題字は元の清水寺管長大西良慶(当時94歳)さん
「隔世の感」とはこのことか。
40年の変化を真摯に思い致すことも、また大切。
*
「わが身の40年?」
それもありますが・・・。
*
中国は「中華」復興を目論むかの様な政治的・経済的・軍事的振る舞いを見せ、
片や、日本は、失われた10年が20年になり30年にならんとする如く、停滞・混迷を深めるばかり。
人々はナショナリズムを沸騰させ・・・。
*
▼比叡山
*
「★京都インデックス」 をご参照下さい。
*