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「幸徳秋水等陰謀事件発覚し、予の思想に一大変革ありたり。
これよりボツボツ社会主義に関する書籍雑誌を聚む。・・・
思想上に於ては重大なる年なりき。・・・」
であった。
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明けて明治44年(1911)、啄木25歳、没の前年、
啄木の思想は更に深化し尖ってゆく。
暫く、啄木日記を辿る。
(改行を施す)
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明治四十四年 当用日記
一月三日 晴 寒
平出君と与謝野氏のところへ年始に廻つて、それから社に行つた。
平出君の処で無政府主義者の特別裁判に関する内容を聞いた。
若し自分が裁判長だつたら、管野すが、宮下太吉、新村忠雄、古河力作の四人を死刑に、幸徳大石の二人を無期に、内山愚童を不敬罪で五年位に、そしてあとは無罪にすると平出君が言つた。
またこの事件に関する自分の感想録を書いておくと言つた。
幸徳が獄中から弁護士に送つた陳情書なるものを借りて来た。
与謝野氏の家庭の空気は矢張予を悦しましめなかつた。
社では鈴木文治君と無政府主義に関する議論をした。
留守中に金田一君が年始に来て、甚だキマリ悪さうにして帰つたさうである。
夜、丸谷並木二君が来て、十二時過までビールを抜いて語つた。
[発信欄]賀状三通。
[受信欄]賀状二十通。
「平出君」:
明治43年12月18日、幸徳秋水が、今村力三郎・磯部四郎・花井卓蔵弁護士に送った陳弁書。
無政府主義への正確な理解と取調べの不備を訴える。
「無政府主義と暗殺」、「革命の性質」、「所謂革命運動」、「直接行動の意義」、「欧州と日本の政策」、「一揆・暴動と革命」、「聞取書及調書の杜撰」の6節からなる。
幸徳は、最後に、「以上、私の申し上げて御参考に供したい考えの大体です。なにぶん連日の公判で頭脳が疲れているために、思想が順序よくまとまりません。加うるに、火のない室で、指先が凍ってしまい、これまで書く中に筆を三度も取り落したくらいですから、ただ冗長になるばかりで、文章も拙く、書体も乱れて、さぞ御読みづらいでありましょう。どうか御諒恕を願います。」と書く。
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一月四日 晴温
またもとの轍にはまつて来た。さういふ感じのする日であつた。常の如く出社して常の如く帰つた。
夜、幸徳の陳弁書を写す。
[受信欄]賀状十五通。
一月五日 雨 温
休み。
幸徳の陳弁書を写し了る。
火のない室で指先が凍つて、三度筆を取落したと書いてある。
無政府主義に対する誤解の弁駁と検事の調べの不法とが陳べてある。
この陳弁書に現れたところによれば、幸徳は決して自ら今度のやうな無謀を敢てする男でない。
さうしてそれは平出君から聞いた法廷での事実と符合してゐる。
幸徳と西郷! こんなことが思はれた。
夜、かねて約束のあつた谷静湖がわざわざ予を訪問する為に埼玉の田舎から出て来た。十二時過ぎまで話をした。才気の勝つた背の高い青年である。
[発信欄]賀状一通。
[受信欄]賀状八通。
一月六日 晴 寒
起きて二通の封書を手にした。名古屋の妹は、自分は家を持たぬ癖に一生「楽しい家」の歌を歌つて歩いた老楽師のことを書いてよこした。妹は天国があると信じてゐる、悲しくもさう信じてゐる。
もう一通は橘智恵子からであつた。否北村智恵子からであつた。送つた歌集の礼状である。思ひ当るのがあると書いてあつた。今年の五月とうとうお嫁に来たと書いてあつた。自分のところで作つたバタを送ると書いてあつた。さうして彼の女はその手紙の中に函館を思ひ出してゐた。
借りて来た書類を郵便で平出君に返した。
予の写したのは社で杉村氏に貸した。
社では何事もなかつた。寒い風の吹く日であつた。
夕飯の時は父と社会主義について語つた。
夜は歌壇の歌を選んだ。
[受信欄]賀状三通。名古屋の光子より。北村智恵子より。
かつては、「東京朝日」記者でありながら筆名「放縦」で幸徳・堺の「平民新聞」に寄稿している。また、幸徳への警備体制を揶揄する記事を「朝日」に掲載し主筆池辺三山を困らせたこともある。
一月七日 晴 寒
年末に夜勤をやめて以来、予の起床は大抵八時頃になつた。そのせゐか頭の加減も悪くない。
この日は朝に札幌の大島君からの懇ろな賀状を読んだ。いろいろと近状が書いてあつた。その現在の新聞記者生活は、この人の不思議なる且つ畏敬すべき性情に適してゐないらしい。書いてある事は嘗て函館青年の信望を一身に聚めた人の言の如くでない。彼はあまりに自己をさいなみ過ぎた。
社から帰つてから、大島君へ手紙を書かうと思つたが、書けなかつた。函館日々に寄すべき「大硯君足下」と題するものを二回分だけ書き出した。
[受信欄」賀状四通。
一月八日 曇 温
休み。午前に入浴した。午後は昨夜の稿をついだ。日が暮れて丸谷君と並木君が来た。二人は朝から遊び廻つてゐたんださうである。急に仮面会を開くことになつて、浅草に行き、ルナパークでピラアスレースに入り木馬に乗つた。それから塔下苑をブラついて、とある馬豚肉で豚をくひ、酒をのんだ。その時三人寄せ書きで岩崎宮崎二君へハガキを出した。それからまた汁粉を食つて遅く帰つた。新年になつてから初めて遊んだわけである。京都にゐる瀬川深君から「一握の砂」に関する長い手紙が来た。予の住所がわからなくて東雲堂に問合したと書いてあつた。うれしいたよりであつた。予はそれを三人と出かける時、下で受取つて歩きながら読んだ。三丁目の停留場で二間余りの巻紙を夜風に吹かせ乍ら巻き納めた。
[受信欄]賀状四通。瀬川深君より手紙。
一月九日 曇 温
休み。
今年になつて初めての朝寝をした。午後は瀬川深君へ長い手紙を書いて暮らした。夜は函館日々への原稿二回分と共に大硯君へ手紙を書いた。
父と共に残つてゐた一本のビイルを抜いた。
[発信欄]瀬川君へ 斉藤大硯君へ
[受信欄]賀状一通。孝子より葉書。
一月十日 霙 寒
霙が降つた。朝に吉野君から妻君と子供が病気で入院して、上京の企画一頓挫をうけた旨の手紙があつた。
社に行くと谷静湖から約束の冊子が届いてゐた。それは昨年九月の頃、在米岩佐作太郎なる人から送つて来たといふ革命叢書第一篇クロポトキン著「青年に訴ふ」の一書である。
谷は岩佐を知らない、また知られる筈もない、多分雑誌に投書したのから住所姓名を知つて伝道の為めに送つたものであらう。
家に帰つてからそれを読んだ。ク翁の力ある筆は今更のやうに頭にひびいた。
[受信欄]吉野君より 谷静湖より
一月十一日 曇 温
何の事もなかつた。空は曇つてゐた。朝に少し風邪の気でアンチピリンを飲んだ。米内山が来て、東北の田舎でも酒の売れなくなつた話をした。社で渋川氏に岩佐等の密輸入の話をした。
夜、丸谷君を訪ふと並木君も来てゐた。この日市俄高(*シカゴ)の万国労働者の代表者から社に送つて来た幸徳事件の抗議書――それは社では新聞に出さないといふので予が持つて来た。――を見せた。
話はそれからそれと移つた。
「平民の中へ行きたい。」といふ事を予は言つた。
更けてから丸谷君と蕎麦屋へ行つた。丸谷君の出費である。
一月十二日 雨 温
午前に丸谷君が一寸来た。前夜貸した「青年に訴ふ」を帰しに来たのである。
木村の爺さんが休んだので夜勤の代理をせねばならぬことになつた。六時頃に一寸帰つてすぐまた社に行つた。雨が篠つくばかり降つてゐた。社に帰ると読売の土岐君から電話がかかつた。逢ひたいといふ事であつた。とうに逢ふべき筈のを今迄逢はずにゐた。その事を両方から電話口で言ひ合つた。二人――同じやうな歌を作る――の最初の会見が顔の見えない電話口だつたのも面白い。一両日中に予のところへやつて来る約束をした。
家にかへればもう十二時半だつた。
一月十三日 曇 寒
何の彼のといつてるうちに一月も十三日になつた。そんなことが思はれた。急がしい気持がして社へ行つた。
電話で話し合つて、帰りに読売社へ寄り、北風の真直に吹く街を初対面の土岐哀果君と帰つて来た。さうして一杯のんでソバを食つた。こなひだ読売に予と土岐君と共に僧家の出で共に新聞記者をしてると書いてあつたが、二人は酒に弱い事も痩せてる事も同じだつた。ただ予の直ぐ感じたのは、土岐君が予よりも慾の少いこと、単純な性格の人なことであつた。一しよに雑誌を出さうといふ相談をした。「樹木と果実」といふ名にして兎も角も諸新聞の紹介に書かせようぢやないかといふ事になつた。土岐君は頭の軽い人である。明るい人である。土岐君の歌は諷刺皮肉かも知れないが、予の歌はさうぢゃない。
一月十四日 曇 寒
吉野君から「一握の砂」の評を二回載せた釧路新聞を送つて来た。引いた歌のうち「小奴といひし女の――」といふ歌に黒丸をうつてあつた。岩崎君の「一握の砂と其背景」の(一)載つた北海道新聞も来初めた。
早出をした。夕方に吉野君の弟の喜代志君が来た。
帰ると宮崎君からハガキが来てゐた。そこで早速手紙をかいた。昨日の相談の雑誌の事をかいてると、丸谷君が貸しておいた幸徳の陳弁書を持つて遊びに来た。丸谷君が帰つてから土岐君への手紙を出して寝た。
若山牧水君から「創作」の編輯を東雲堂から分離したことについての通知が来た。
[発信欄]土岐君へ。宮崎君へ。
[受信欄]若山牧水君より 宮崎君より
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