文治6/建久元(1190)年
・奥州合戦終結によって日本の戦乱が終息した建久元年は、鎌倉幕府という武家権力の存在を前提とした日本の国家秩序確立過程が最終段階を迎える年となる。
・この年、北条義時(28)異母弟政範(母は牧方)生まれる。
文治6/建久元(1190)年
・奥州合戦終結によって日本の戦乱が終息した建久元年は、鎌倉幕府という武家権力の存在を前提とした日本の国家秩序確立過程が最終段階を迎える年となる。
・この年、北条義時(28)異母弟政範(母は牧方)生まれる。
2月18日(土)はれ
今日もまた晴れて暖かい。14,5℃はあったと思う。
自宅周辺を散歩。総歩数は1万3千歩。
▼一番近い公園の河津桜 三分咲きくらいかな
文治5(1189)年
11月3日
・一条能保の飛脚が鎌倉に到着。既成事実の追認を迫られた後白河より、「泰衡追討」への満足の意と頼朝家人への恩賞付与の意志を伝える院宣が届く。これに応える形で、大江広元が頼朝の使として三回目の上洛を行なうこととなる。
11月8日
・前日の7日に頼朝より「基本的に恩賞は辞退する一方で、特に功のあった者への恩賞の実現には特別の配慮をするように」との指示を与えられた大江広元は、この日、鎌倉を出発。後白河以下朝廷の人々への進物となる龍蹄(りゆうてい、駿馬しゆんめ)百余疋(ひき)・鞍馬(くらうま)十疋・綿千両を携える。この日、広元に対して「諸人、餞送(せんそう)せざるなし」であった(『吾妻鏡』)。恩賞給付の実現を求める人々の広元への期待は大きい。
「因幡の前司廣元使節として上洛す。・・・葛西の三郎清重奥州所務の事を仰せ付けらるるに依って、還御の時供奉せしめず。彼の国に留まる所なり。仍って今日條々仰せ遣わさるる事有り。先ず国中今年は稼穡不熟の愁い有るの上、二品多勢を相具し、数日逗留せしめ給うの間、民戸殆ど安堵し難きの由聞こし食すに就いて、平泉の辺殊に秘計の沙汰を廻らし、窮民を救わるべしと。仍って岩井・伊澤・柄差、以上三箇郡は、山北方より農料を遣わすべし。和賀・稗貫両郡の分は、秋田郡より種子等を下し行わるべきなり。近日則ち沙汰有るべきと雖も、当時深雪たるに依って、その煩い有るべきか。明春三月中施行せらるべし。且つは兼日土民等に相触るべしてえり。・・・」(「吾妻鏡」同日条)。
11月13日
・藤原定家(28)、左近衛少将となる。
同16日、任少将祝賀に公衡・慈円・寂蓮等より歌を贈らる
慈円より祝歌
三笠山さかゆく君が道に又 花さきそふる今朝の白雪
定家より返歌
思ひやれ雪に花咲く三笠山 ならぶ梢(こずえ)をてらす朝日は
定家が撰進した『新勅撰集』に入れているこの時の母(美福門院加賀)の祝歌
定家、少将になり侍りて、悦申し侍りけるを見侍りて、あしたにつかはしける
三笠山みち踏みそめし月かげにいまぞこころの闇は晴れぬ
11月15日
・兼実の娘任子、三位(さんみ)に叙され、「任子」という名前が定められる。同日、入内雑事が定められ、兼実の側近である源季長らが家司(けいし)・職事(しきじ)に任じられる。
11月24日
・「定長卿條々の勅語を伝う。関東返上の国々の事なり。余所存を申しをはんぬ。恐れ有りと雖も、偏に愚忠を存ずるが故なり。」(「玉葉」同日条)。
11月28日
・兼実、任子の入内成功を祈り、藤原鎌足・不比等・道長という3人の先祖の墓に使者を派遣。兼実は、これは「入内の本意、只皇子降誕に在る」ためだと述べる。鎌足は「氏の始祖」、不比等は「我が氏王胤(うじおういん)出来(しゆつたい)し給ふ始め」、道長は「帝(みかど)の外祖(がいそ)」として一族に特別に繁栄をもたらした先祖であった。兼実は天皇の外戚として成功した先祖に祈り、自分もそのような先祖たちにあやかろうとした。
摂関家では頼通以降、養女が皇子を産んだり、娘が天皇の養母になることはあっても、実の娘が皇子を産むことは絶えていた。嫡流をめぐる基通との争いに敗れ、摂関としての正統性に乏しい兼実としては、外戚の地位は何としても手に入れたいもの。任子に皇子が生まれれば、摂関にして外戚という道長以来の立場に立つことができる。任子の入内は、兼実にとって一発逆転の大きなチャンスだった。
12月
・九条良経、雪十首の歌合を行う(権大納言良経雪十首歌会)。慈円・定家・寂蓮ら参加。以降定期的に和歌の会が開かれる。
・藤原定家(28)、女御入内につき月次御屏風和歌三十六首・泥絵屏風歌二首を詠ず。『文治六年女御入内和歌』。女御は、兼実女任子。
12月6日
・「泰衡追討」に対する勧賞を行なう旨の後白河院宣が鎌倉に届く。
12月6日
・九条兼実に太政大臣に任命する宣旨。定家、勅使良経に供奉。
12月9日
・頼朝、「且つは数万の怨霊を宥め、且つは三有の苦果を救わんが為」、平泉中尊寺の大御堂を模して永福寺(ようふくじ)の建立開始(「吾妻鏡」同日条)。
12月11日
・定家、兼実姫君の日吉社参詣に供奉。
12月14日
・九条兼実(41)、太政大臣就任。藤原定家(28)、兼実の参内に供奉
12月14日
・延暦寺衆徒ら、座主全玄を放逐。
12月23日
・泰衝の遺臣大河兼任、出羽で挙兵。24日、頼朝、工藤行光・由利惟平に大河兼任追討命令。(「吾妻鏡」同日条)
「奥州の飛脚、去る夜参じ申して云く、予州ならびに木曽典厩子息及び秀衡入道の男等の者有り、各同心合力せしめ、鎌倉に発向せんとするの由、謳歌の説ありと云々。」(「吾妻鏡」同日条)。
12月25日
・頼朝、明年参洛の意思表示。
「奥州を討ち平らげをはんぬ。今においては見参に罷り入るのほか、今生の余執なし、明年に臨みて参洛すべし」(「吾妻鏡」同日条)。
2月17日(金)晴れ
今日は晴れてて風も弱く暖かかった。明日、明後日はもっと暖かくなるとのこと。
今日は、春の山野草狙いで大船フラワーセンターへ。狙い通りに花は咲いていたが、出来上がりの写真はなんだかイマイチ。
▼ユキワリイチゲ
文治5(1189)年10月
〈頼朝の「公戦」へのこだわりと公認を拒み続けた後白河の思惑〉
頼朝は奥州征討に当たって、終始、気に懸けていたのは征討の宣旨を得られるか否か、つまり「公戦」になるか「私戦」になるかという点であった。
進発に当たって頼朝は、院宣を待つ必要はないという大庭景能の言葉で意を強くしたが、景能はその際同時に、泰衡は代々源氏の家人としての地位を受け継ぐものであるから、朝廷の許可がなくとも制裁を加えることに何の問題があろうかという見解も付け加えている。恐らくこの時点で頼朝は、院宣は出されないものと判断して、「私戦」として遂行する覚悟を決めたと思われる。
合戦終了後、頼朝は8月23日には一条能保へ、9月8日には吉田経房へ書状を送り、経房宛書状で頼朝は9月3日に泰衡を打ち取ったことを伝え、本来ならその首を京都へ送るべきところだが、遠方であるし、大して貴人でもない上に「相伝の家人」であるから送らないと述べている。
ところが、頼朝のこの手紙と行き違いに、征討を命じた7月19日付の院宣が9月9日に到着する。これによって頼朝は一旦は諦めた「公戦」の看板を掲げることが可能になたわけで、9月18日、攻めて降人を京都へ送るべきかどうかについて経房宛に消息を書いている。
さらに鎌倉に帰着して間もないうちに、大江広元を召して経房や能保らに消息を遣わしている。そして、11月3日、能保の飛脚らが鎌倉に着き、征討の功を賞すると共に、降人の扱いや勧賞のことを記した院宣が届いたとき、頼朝は大喜びしたといわれる。
頼朝にとって、奥州合戦が義家の後三年の合戦の轍を踏んで、「私戦」として切り捨てられてしまう事態だけは、なんとしても避けたかった。そして、ひとたび「公戦」という承認を得た後は、頼朝は単なる恩賞でなく陸奥・出羽両国の支配権獲得を目指すという強気の姿勢に転じる。11月、頼朝は大江広元を京都に派遣して、泰衡追討の賞を辞退し、さらに12月にも重ねて辞退する一方で、陸奥・出羽両国の管領を要求する。
奥州合戦の公認を巡る一件においても、後白河と頼朝との暗黙の戦いが行われていた。
そもそも後白河が頼朝との不和を承知しながら義経を寵愛したのは、単なる好き嫌いではなく、頼朝の勢力の強大化を恐れ、その対抗者を育てることを狙ったからである。義経が逃亡し奥州の藤原秀衡のもとに匿われた後も、後白河は奥州出兵について終始消極的であった。そうした後白河に対し、頼朝は文治5年(1189)3月、閏4月、6月と三度にわたって出兵許可を求めて使いを送るが、後白河は許可を出さない。遂に頼朝が強引に出兵し、後白河が追認するという形で終わる。
後白河が奥州合戦に「公戦」としての承認を与えることをためらったのは、義経を庇護したのと同様、奥州藤原氏という頼朝の背後の勢力を温存し、頼朝を牽制することに狙いがあったが、それ以上に、頼朝によって奥州が征服されると、日本全体を東と西とに大きく二分する体制が成立することを意味し、それは国家の分裂に他ならないからである。後白河にとって、金・鷲の羽・馬・布など、奥州特産の富もまた魅力だったし、そうした富を自分の掌中にするために、頼朝に奥州を征服させることが得策でなかった面もるが、何よりもまず後白河は、そうした私的な利害を超えた院と朝延にとっての得失を睨んでいた。
後白河以外の貴族たちは、奥州合戦や奥州そのものについても、ほとんど無関心だったようだ。兼実は奥州合戦の勝利について、簡単に「天下の慶びなり」と記すのみだし、『百錬抄』も、頼朝が幾ばくの日数も費やさずに勝利したことに 「兵謀の至り、古今無類のものか」という賛辞を載せるのみであった。
しかし、後白河は朝廷の利害に関する事柄に関しては明敏であり、奥州の経済的意義についても、当時の京都朝廷にあってはもっとも的確に理解していた。源氏と院との奥州を巡る暗闘という風に問題を捉えれば、頼朝対後白河という対立は、義家対白河という対立関係の歴史的再現だということもできる。
頼朝が自家の歴史に教訓を得たとすれば、後白河も同様に後三年の合戦の経過について、独自の見解を持っていたと考えられる。現存する『後三年合戦絵巻』の原型として、承安元年(1171)に後白河が静賢(じようけん)法印に命じて制作させた四巻本の『後三年合戦絵巻』があったことが記録されている。この絵巻を制作させた後白河の意図はよくわからないにしても、これによって後白河が多くを学んだであろうことは確実である。
したがって、奥州合戦は、頼朝に軍配が上がったように見えても、後白河は死ぬまで頼朝に奥州の軍事支配の名義上の正統性を裏づける征夷大将軍という称号は拒み通すという形で、自己の原則を貫徹した。
つづく
予算委員会中央公聴会、自民党推薦の公述人、川上高司拓殖大学教授の配布資料。
— 宮本徹 (@miyamototooru) February 16, 2023
「米国の軍事支配に直面する日本
岸田政権は,バイデン政権に追従していますが、その結果として米国の戦争に「巻き込まれるリスク」を高めている」 pic.twitter.com/BeSFU6MHd9
昨年、NY州バファローの黒人地区にあるスーパーマーケットで乱射し、10人を殺害した犯人(オレンジ色)と遺族。当時、高校生だった犯人はコロナ禍中に4chan(オーナー:ひろゆき)によって白人至上主義に傾倒。NY州司法長官は4chanを捜査対象とした。 https://t.co/2JgfCx0yVP
— 堂本かおる (@nybct) February 15, 2023
西村博之は世界で最も悪評高いネットサイトのオーナーとして米国大手メディア(特にTimesには)に完全にマークされているんだよな。で、問題はこの記事に出てくるこういう奴らを、日本という国は「有識者枠」で重用しているというところよ。テレビ、活字媒体、恥ずかしくないんかな https://t.co/B8cmhkHyhO
— ガイチ (@gaitifuji) February 14, 2023
「これは命に関わる話だ」岸田首相 ウクライナ キーウ電撃訪問は | NHK政治マガジン https://t.co/tmHfb16NRx
— 黙翁 (@TsukadaSatoshi) February 16, 2023
激怒した岸田
「なんで総理執務室で話した内容がすぐに外に漏れるんだ!」
「入札を有名無実化し…」電通幹部出席の会議資料に明記 五輪談合https://t.co/S8AMqcHBY0
— 朝日新聞デジタル (@asahicom) February 15, 2023
組織委による発注が始まる2年前の2016年、広告最大手「電通」の社内会議で「入札を有名無実化して電通の利益の最大化を図る」などと記した資料が共有されていたことが、関係者への取材で分かった。
文治5(1189)年
10月
・藤原定家(28)、西行に請われて『宮川歌合』の判をする。西行と和歌贈答、「贈定家卿文」(西行)成立。また、これに関して慈円と和歌贈答。
10月1日
・頼朝、多賀国府到着。
24日、鎌倉へ帰還。
「多賀の国府に於いて、郡・郷・庄園所務の事、條々地頭等に仰せ含めらる。就中国郡を費やし土民を煩わすべからざるの由、御旨再三に及ぶ。しかのみならず一紙の張文を府廰に置かると。その状に云く、 庄号の威勢を以て、不肖の道理を押すべからず。国中の事に於いては、秀衡・泰衡の先例に任せ、その沙汰を致すべしてえり。」(「吾妻鏡」同日条)。
10月2日
・「囚人佐藤庄司・名取郡司・熊野別当等、厚免を蒙り各々本処に帰ると。」(「吾妻鏡」同日条)。
10月16日
・「今日法皇天王寺より還御す。便に通親卿の久我亭を御覧ず。種々の進物等有り。人以て可と為さず。弾指きすべし。今夜御宿、明日六條殿に還御すべしと。」(「玉葉」同日条)。
10月24日
・鎌倉に凱旋した頼朝、「いまだ温座(おんざ)せられず」(安心して坐ることもせず)に大江広元を召し、朝幕間の取り次ぎ役である吉田経房と一条能保に対して「奥州泰衡を追討」したことを伝える書状を送るよう命じる。なおこの時広元は、頼朝の仰せを受けて、出羽国検注に関する指示を同国留守所(るすどころ)に伝える。
〈何故頼朝は義家(後三年の合戦)でなく、その一代前の頼義(前九年の合戦)を模したのか?〉
軍旗の仕様、泰衡の梟首の仕方、合戦終結の日付など、奥州合戦は前九年の合戦を模している。
頼朝が家門の象徴として相伝した二つの武具(鎧「源太(げんた)が産衣(うぶぎ)」、太刀「髭切(ひげきり)」)は、前者が源太という義家の幼名が冠せられているように、義家2歳時の院の見参にまつわる品であり、後者は前九年の合戦で義家が生け捕りにした敵兵の首を打つのに用いたとされる品であって、共に頼義ではなく、義家に由来する。従って、その延長上で義家が主役である後三年の合戦が意識されてもよいとも思われるのだが、、、。
合戦の経過からいっても、苦戦の末、「九年」といいながら、現実には12年もかかって、しかも清原武則の援助を借りてようやく平定した前九年の合戦より、真実かどうかは不明だが、その日の合戦の場での振る舞いによって、勇敢なものと臆病なものとを別々に座らせて将兵の奮起を促したという「剛臆(ごうおく)の座」の話、あるいは義家が大江匡房に学んだ軍学によって、空を飛ぶ雁の列が乱れるのを、その下に敵兵が潜む兆候であると看破した話など、武人にふさわしい勇壮な話が伝えられている後三年の合戦の方が、故実を主張するならよりふさわしいようにも思える。
にもかかわらず、何故頼朝は義家でなく、その一代前の頼義を模したのか。
その合戦の意味づけの相違は、公戦たると私戦たるとの違いである。前九年の合戦の結果、恩賞として頼義は伊予守、義家は出羽守、清原武則は鎮守府将軍に任じられたが、後三年の合戦は実質5年にわたって戦いながら、「義家合戦」(『後二条師通記(ごにじようもろみちき)』)とまで呼ばれ、朝廷からは私戦と見なされて何の恩賞もなく、やむなく義家が私財をもって随従した武士たちへの褒賞とした。
前九年の合戦も、諸国からの軍兵・兵粮などの援助はなく、「朝議紛紜(ちようぎふんうん)」という状態がら、頼義は独自の判断で戦い続け、安倍貞任・藤原経晴らの首を都にもたらして、恩賞に与(あずか)っている。それに対して後三年の合戦の方は、乱を平定した義家は追討の官符を得て首を京へ送ろうと予定していたにもかかわらず、私戦として勧賞もなく、せっかくの敵首を放り捨てて帰還した。しかも院は義家の戦勝の論功行賞を行わなかったばかりでなく、義家の陸奥守を解任し、その後、新たな官職を与えないままにするという、むしろ懲罰に等しい処置に出た。義家の私財の提供が源氏への東国武士層の信望を高めたという伝承を前提とすれば、頼朝にとって単に源氏の威信を高めるためだけなら後三年の合戦を範としても問題はないはずである。前九年のほうを選んだとすれば、それは朝廷によって公戦と認定されたという一点に懸かっていると考えられる。
つづく