文治5(1189)年
9月11日
・頼朝、陣岡より岩手郡厨川(くりやがわ)柵におもむき滞在(「吾妻鏡」同日条) 。
「岩井郡(岩手郡の誤記か?)厨河に於いて、・・・。今日、工藤の小次郎行光盃酒・椀飯を献る。これ当郡に於いては、行光拝領すべきに依って、別して以て仰せ下さるるの間、この儀に及ぶと。」(「吾妻鏡」同12日条)。
「この間両国騒動に依って、庶民究屈に及び、或いは子孫を失い或いは夫婦に別れ、残る所また山林に交り、空しく雲稼を抛つ。仍ってこれを召し聚められ、本所に安堵すべきの旨仰せ含めらる。しかのみならず宿老の輩に於いては、面々綿衣一領・龍蹄一疋を賜う。また由利の八郎恩免を預かる。これ勇敢の誉れ有るに依ってなり。但し兵具を聴されずと。」(「吾妻鏡」同13日条)。
「二品奥州・羽州両国の省帳・田文已下の文書を求めしめ給う。而るに平泉の館炎上するの時焼失すと。その巨細を知ろし食し難し。古老に尋ねらるるの処、奥州の住人豊前の介實俊並びに弟橘籐五實昌、故実を存ずるの由申すの間、召し出され子細を問わしめ給う。仍って件の兄弟、暗に両国の絵図並びに定まる諸郡の券契を注進す。郷里・田畠・山野・河・海、悉く以てこの中に見るなり。余目三所を注し漏らすの外更に犯失無し。殊に御感の仰せを蒙る。則ち召し仕わるべきの由と。」(「吾妻鏡」同14日条)。
9月15日
・樋爪俊衡・季衡(弟)、投降。頼朝と同じ法華経持経者だったため、所領安堵され、一族が宇都宮の職掌に任ぜられる。
9月17日
・朝廷、頼朝の奥州侵攻を追認。
9月17日
・「清衡已下三代造立の堂舎の事、・・・
一紙の壁書を下され、圓隆寺南大門に押すべしと。衆徒等これを拝見し、各々止住の志を全うすと。その状に曰く、 平泉内の寺領に於いては、先例に任せ寄付する所なり・・・一、関山中尊寺の事・・・一、毛越寺の事・・・一、無量光院(新御堂と号す)の事・・・一、鎮守の事・・・一、年中恒例の法会の事・・・一、両寺一年中問答講の事・・・一、館の事(秀衡)・・・一、高屋の事・・・」(「吾妻鏡」同日条)。
9月18日
・頼朝、吉田経房に宛てて降人を京都に送るべきかどうかについて書簡を送る。
9月18日
・泰衝の弟・高衝(秀衡4男)、投降。足利義兼、藤原泰衡の後見人の熊野別当を捕縛。
「凡そ残党悉く以て今日これを獲給うなり。」(「吾妻鏡」同日条)。
9月19日
・頼朝、厨川を去り、平泉保に戻る。
「厨河の柵を立ち、平泉保に還向せしめ給う。厨河に御逗留は七箇日なり。」(「吾妻鏡」同日条)。
9月20日
・頼朝、平泉に帰着。吉書初めの儀式を行い、論功行賞。
21日、胆沢郡鎮守府八幡神社に奉幣(「吾妻鏡」同日条)。
葛西清重、葛西5郡、胆沢・江刺・磐井・気仙・牡鹿・本吉・六十六島など宮城県北部~岩手県南部の広汎な領土を得る(末裔は更に隣接する登米・桃生郡をも併せ、領土は葛西7郡、30万石と称せられる)。
畠山重忠は葛岡郡の惣地頭職に補せられた。この郡は狭いところであったが、重忠は傍輩に語って、今度重忠は先陣をうけたまわったけれども、大木戸の合戦は、先登を他人に奪われてしまった。あの時抜け駈けをするものがあることはわかっていたが、おれが争わなかったのは、恩賞を傍輩にあまねくうけさせたいと思ったからだった。今恩賞をみると、果して皆数ヵ所の広大な土地を頂いている。これは重忠の芳志といってもよいのだよ、といったという。
『神皇正統記』には、重忠が慾ばらないで、「きはめたる少き所を望み給はりけるとぞ。」とのべ、「かしこかりけるをのこにこそ」とほめている。
「畠山の次郎重忠葛岡郡を賜う。これ狭小の地なり。重忠傍人に語りて云く、今度重忠先陣を奉ると雖も、大木戸の合戦、先登他人の為奪われをはんぬ。時に子細を知ると雖も、重忠敢えて確執せず。これその賞を傍輩に周しめんが為なり。今これを見るに、果たして皆数箇所広博の恩に預かる。恐らくは重忠の芳志と謂うべきかと。この外面々の賞勝計うべからず。」(「吾妻鏡」同日条)。
9月22日
・頼朝、葛西清重を陸奥国御家人の奉行(奥州総奉行)と平泉特別行政区の検非違使に任命。翌建久元(1190)年11月頃、伊沢氏と交替して鎌倉に戻る。
9月23日
・「平泉に於いて秀衡建立の無量光院を巡礼し給う。」(「吾妻鏡」同日条)。
9月26日
・藤原基成父子、鎌倉に召される。
「追って左右有るべきの旨仰せ含めらる。」(「吾妻鏡」同日条)。
9月27日
・「二品安部の頼時(本名頼義なり)の衣河の遺跡を歴覧し給う。」(「吾妻鏡」同日条)。
9月28日
・頼朝、平泉出発(「吾妻鏡」同日条)。
9月28日
・兼実、興福寺不空羂索観音像の開眼供養に参列、一心に「天下幷びに家門の事」「入内の事」を祈る。
不空羂索観音像の造仏が最勝金剛院でおこをわれていた時期、良通の一周忌の仏事もまた最勝金剛院でおこなわれているので、この不空羂索観音像が良通の一周忌のための本尊としても使用されていた可能性が指摘されている。
つづく
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