文治5(1189)年
10月
・藤原定家(28)、西行に請われて『宮川歌合』の判をする。西行と和歌贈答、「贈定家卿文」(西行)成立。また、これに関して慈円と和歌贈答。
10月1日
・頼朝、多賀国府到着。
24日、鎌倉へ帰還。
「多賀の国府に於いて、郡・郷・庄園所務の事、條々地頭等に仰せ含めらる。就中国郡を費やし土民を煩わすべからざるの由、御旨再三に及ぶ。しかのみならず一紙の張文を府廰に置かると。その状に云く、 庄号の威勢を以て、不肖の道理を押すべからず。国中の事に於いては、秀衡・泰衡の先例に任せ、その沙汰を致すべしてえり。」(「吾妻鏡」同日条)。
10月2日
・「囚人佐藤庄司・名取郡司・熊野別当等、厚免を蒙り各々本処に帰ると。」(「吾妻鏡」同日条)。
10月16日
・「今日法皇天王寺より還御す。便に通親卿の久我亭を御覧ず。種々の進物等有り。人以て可と為さず。弾指きすべし。今夜御宿、明日六條殿に還御すべしと。」(「玉葉」同日条)。
10月24日
・鎌倉に凱旋した頼朝、「いまだ温座(おんざ)せられず」(安心して坐ることもせず)に大江広元を召し、朝幕間の取り次ぎ役である吉田経房と一条能保に対して「奥州泰衡を追討」したことを伝える書状を送るよう命じる。なおこの時広元は、頼朝の仰せを受けて、出羽国検注に関する指示を同国留守所(るすどころ)に伝える。
〈何故頼朝は義家(後三年の合戦)でなく、その一代前の頼義(前九年の合戦)を模したのか?〉
軍旗の仕様、泰衡の梟首の仕方、合戦終結の日付など、奥州合戦は前九年の合戦を模している。
頼朝が家門の象徴として相伝した二つの武具(鎧「源太(げんた)が産衣(うぶぎ)」、太刀「髭切(ひげきり)」)は、前者が源太という義家の幼名が冠せられているように、義家2歳時の院の見参にまつわる品であり、後者は前九年の合戦で義家が生け捕りにした敵兵の首を打つのに用いたとされる品であって、共に頼義ではなく、義家に由来する。従って、その延長上で義家が主役である後三年の合戦が意識されてもよいとも思われるのだが、、、。
合戦の経過からいっても、苦戦の末、「九年」といいながら、現実には12年もかかって、しかも清原武則の援助を借りてようやく平定した前九年の合戦より、真実かどうかは不明だが、その日の合戦の場での振る舞いによって、勇敢なものと臆病なものとを別々に座らせて将兵の奮起を促したという「剛臆(ごうおく)の座」の話、あるいは義家が大江匡房に学んだ軍学によって、空を飛ぶ雁の列が乱れるのを、その下に敵兵が潜む兆候であると看破した話など、武人にふさわしい勇壮な話が伝えられている後三年の合戦の方が、故実を主張するならよりふさわしいようにも思える。
にもかかわらず、何故頼朝は義家でなく、その一代前の頼義を模したのか。
その合戦の意味づけの相違は、公戦たると私戦たるとの違いである。前九年の合戦の結果、恩賞として頼義は伊予守、義家は出羽守、清原武則は鎮守府将軍に任じられたが、後三年の合戦は実質5年にわたって戦いながら、「義家合戦」(『後二条師通記(ごにじようもろみちき)』)とまで呼ばれ、朝廷からは私戦と見なされて何の恩賞もなく、やむなく義家が私財をもって随従した武士たちへの褒賞とした。
前九年の合戦も、諸国からの軍兵・兵粮などの援助はなく、「朝議紛紜(ちようぎふんうん)」という状態がら、頼義は独自の判断で戦い続け、安倍貞任・藤原経晴らの首を都にもたらして、恩賞に与(あずか)っている。それに対して後三年の合戦の方は、乱を平定した義家は追討の官符を得て首を京へ送ろうと予定していたにもかかわらず、私戦として勧賞もなく、せっかくの敵首を放り捨てて帰還した。しかも院は義家の戦勝の論功行賞を行わなかったばかりでなく、義家の陸奥守を解任し、その後、新たな官職を与えないままにするという、むしろ懲罰に等しい処置に出た。義家の私財の提供が源氏への東国武士層の信望を高めたという伝承を前提とすれば、頼朝にとって単に源氏の威信を高めるためだけなら後三年の合戦を範としても問題はないはずである。前九年のほうを選んだとすれば、それは朝廷によって公戦と認定されたという一点に懸かっていると考えられる。
つづく
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