2009年7月27日月曜日

東京 旧近衛師団司令部 録音盤事件

東京北の丸公園内の歴史的建造物。
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重要文化財「旧近衛師団司令部」(明治43年)
(現、国立近代美術館工芸館)
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すぐ近くの乾門
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近衛歩兵第二聯隊記念碑(北の丸公園内)
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近衛歩兵第一聯隊記念碑(北の丸公園内)
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大銀杏(弾薬庫跡、日本武道館向い)
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田安門
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近衛師団で反射的に想起するのは、竹橋事件、二・二六事件及び秩父宮と歩三、録音盤事件(近衛師団の森中将殺害)ですが、今回は録音盤事件の年表をピックアップ。
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昭和20年(1945)年
8月11日
・この日の「木戸幸一日記」。天皇のラジオ放送を提案、天皇は承知する。
「昭和二〇年八月一一日 午前九時染井に墓参したる後出勤。九時五十五分より十時十分迄御文庫にて拝謁。十一時東郷外相参内面談。十一時四十五分佐治謙譲氏、徳川義親氏の手紙を持参す。錦旗革命云々なり。正午、鈴木(貫太郎)首相来室面談。其後の経過をきく。十二時半下村(宏)国務大臣来室面談。一時三十五分より二時半迄御文庫にて拝謁。二時半安倍(源基)内相来室面談。三時石渡(荘太郎)宮相を居室に訪ひ、ラジオにて御放送被遊ては如何との意見につき懇談す。三時五十五分より四時十五分迄拝謁ラジオの件に対する聖上の思召は何時にても実行すべしとの御考へなる旨を伝ふ。」
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8月12日
・午前8時、クーデタ首謀者たち(椎崎二郎中佐、畑中健二少佐、竹下正彦中佐)が、クーデタに関して陸相に説明しようとしていると、閣議から帰った大臣に呼ばれ、陸相官邸に行き、後から来た荒尾興功、稲葉正夫、井田正孝と合流。たとい逆臣となっても永遠の国体護持の為、断乎明日(13日)これを決行すると告げる。
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(首謀者たちの作戦)
クーデタは国軍一致蹶起が必要で、友軍相撃に陥らぬことが特に重要。
明朝、陸相、参謀総長が協議し、意見一致すれば、7時から東部軍管区司令官、近衛師団長を招致し、4者完全な意見一致を見た上で起つ。1人でも不同意なれば潔く決行中止。
近衛師団長は大命に非ざる限り、たとい大臣命令なりとも絶対に起つことなし。もし然る場合は、大臣室に招致し、聴かざれば監禁し、来らざる場合は師団へ行き、師団長を斬って、参謀長によって事を行なう。
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8月13日
・夜9時頃、青年将校ら、陸相官邸で陸相に、14日午前を期してのクーデタ計画実行の諒解を得ようとする。
陸軍省軍務局軍事課長荒尾興功、軍務課井田正孝・推崎二郎・畑中健二ら佐官級が中心の徹底抗戦派は、阿南に緊急非常措置としての具体的な兵力使用許可を求める。
彼らの計画は、東部方面軍と近衛師団で宮中と和平派を遮断し、国体護持の保証をとりつけるまで降伏しないというもの。
阿南はこのクーデタ計画に同意せず、梅津は全く関心を示さず。
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8月14日
・午前7時、梅津参謀総長は陸軍省軍務局課員らが計画立案した戦争継続の為の兵力使用に不同意と明示。
阿南陸相は、東部軍管区司令官田中大将を陸軍省に招致し、警備を厳にし治安を確保すべしと要望。
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戦争継続の為のクーデタ計画は潰えるが、推崎二郎中佐・畑中健二少佐は近衛師団参謀石原貞吉・古賀秀正両少佐を誘い、近衛第1師団の兵力を使用し初志貫徹すると協議決定。
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午後8~9時、終戦詔書の文面が完成し、天皇が署名。閣僚副書。
午後9時、NHKラジオ、「明日(15日)正午重要ナ発表ガアリマス。昼間配電ノ無イ所ニモ此時間ハ配電サレル事ニナッテオリマス」と予告。
午後11時、政府、ポツダム宣言受諾を連合国側に打電。大詔(天皇の詔勅)渙発(詔勅を広く発布すること)。
午後11時20~50分、天皇、宮内省での玉音放送「終戦の詔書」のLPレコード録音。レコード盤は宮内省に保管
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録音は14日深夜、宮内省内廷庁舎2階の御政務室で行われる。
下村宏情報局総裁「終戦秘史」によれば、
「やがて午後一一時二〇分ごろであったろうか、三井、戸田侍従を従へ、陛下の出御あり、スタンドの前に立たれた。石渡(荘太郎)宮相、藤田(尚徳)侍従長らがデスクの前にならび、私はスタンド近く三歩ばかりの所に侍立し、やがて恭しく頭を下げるを合図に第一回の放送(録音)が行われた。
御下問のままに普通のお声で結構でありますと御答えしたが、少し低いかと伺われた。陛下からも今のは少し低かったようだからもう一度と仰せられるままに第二回のテストをお願いした。
今度は声が高かったが接続詞が一字抜けた個所があり、さらにもう一度という話もあったが御辞退申上げた。
陛下の入御は午後一一時五〇分ごろであったがこの第二回目の分があくる一五日の放送に使用されたので録音盤は二回分共四枚全部、荒川(放送協会)理事から筧(素彦、宮内省)庶務課長に手渡され」、課長から徳川侍従が預かって皇后宮事務官室の軽金庫に保管。深夜に万一のことがあっては、との配慮から宮内省に置き、15日朝放送局に運ぶ手筈となる。
ところがこの頃、偽の近衛師団命令で出動した近衛第2連隊が、既に宮城と外部とを遮断。
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8月14日深夜~15日早朝
陸軍の軍務局員、尊攘同志会らによるクーデタ。
近衛第1師団長森赳中将ら殺害(玉音盤事件)。
午前2~5時頃、陸軍将校ら反乱軍、皇居を占拠。玉音放送録音盤を捜索。放送会館(NHK東京放送局)も占拠。このため早朝の報道が不可能となる。
7時頃、第12方面軍東部軍司令官陸軍大将田中静壹(せいいち)が反乱軍鎮圧。首謀者4人自殺。また未明、一部右翼・軍人が鈴木貫太郎首相・木戸幸一内大臣などの私邸を襲撃、いずれも目的を達せず。
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竹下中佐は、畑中少佐に計画中止を勧めるが容れられず、軍務局課員畑中健二少佐・椎崎二郎中佐・軍事課員井田正孝中佐らは、14日夜半近衛師団司令部へ行き、師団参謀石原貞吉少佐・古賀秀正少佐とクーデタの連絡をとり、師団長森赳中将に会い、師団蹶起を要請。
森中将は「聖断」が下ったからには、軽挙妄動は断じて許されないとして要請を拒絶。
そこへ、陸軍通信学校将校が入って来て、更に強硬に申入れるが、森師団長が頑として拒絶したので、畑中らは拳銃と軍刀で師団長を惨殺。
(井田中佐は計画当初の中心人物だが、「聖断」が下った時点で計画を断念するが、平泉澄博士の門で兄弟弟子である畑中少佐が、井田中佐の説得が効を奏さなければ決起を断念すると約束をとりつけ同行)。
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畑中らは、石原・古賀らの起案した師団命令を森師団長名によって近衛歩兵第2連隊長芳賀豊次郎大佐に交付。芳賀はそれが偽命令とは知らず、命令通りの部署に就く。
命令には「宮城内を堅固に守備し、外部との連絡を遮断すべし」とあり、宮内省の電話線を遮断。そして、録音を終えて退出する下村総裁ら情報局関係者(山岸重孝放送課長ら)、大橋八郎会長ら放送協会関係者を捕えて監禁し、訊問によって録音盤が宮中にあることを知る。
しかし、録音盤押収の為に、各部屋を探すが、発見できず。
2時頃、宮城内の異変を知った東部軍管区司令官が動き始める。
3時過ぎ、井田中佐が行動中止を説得。
4時頃、徳川侍従、反乱軍に掴まり暴行をうける。
4時過ぎ、近衛歩兵第2連隊長、偽命令であると知り、畑中中佐らに退去要請。
5時頃、東部軍司令官田中静壱大将自ら鎮圧に動く(反乱将校の全軍蹶起の構想潰える)。
午前8時頃には宮城内は平静を取戻す。
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4時過ぎ、1個中隊が放送会館包囲。兵隊が建物入口に立って交通を遮断。
5時前、畑中少佐らしき将校が、5時のニュースの準備をしている館野守男アナウンサーに放送させよと要求。「東部軍の許可」をたてに拒否され果せず。
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畑中健二少佐・椎崎二郎中佐らは、全軍蹶起の計画潰え、録音盤奪取にも失敗。
憲兵隊で取り調べを受けるが、犯行を認めた上で、「陛下にお詫びして自決する」と誓約したので釈放され、15日午後宮城前広場で自決。
古賀秀正大尉(28)は、同日森師団長の葬儀終了後、近衛師団司令部において自決。古賀は東條英機の女婿。
石原少佐は上野公園に立籠ろうとするかつての教え子水戸陸軍航空通信学校生徒を説得中、兇弾に斃れる。
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・未明(5時30分過ぎ)、阿南惟幾陸軍大将、割腹自殺。遺書「一死以て大罪を謝し奉る」、「神州不滅を確信しつゝ大君の深き恵にあみし身は言ひ遺すべき片言もなし」(16日付「朝日新聞」)。
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「歴史的建造物インデックス」をご参照下さい。
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「★東京インデックス」も宜しく。
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