2012年5月27日日曜日

天慶2年(939)11月21日 平将門、常陸国衙と戦い勝利、続いて下野国に侵攻、これも占領

東京 北の丸公園 2012-05-25
*
天慶2年(939)
東京 北の丸公園 2012-05-25
*
11月21日
平将門、常陸国衙と戦いこれを占領
この日、将門は、武器や兵士を集め、常陸国国境を越えた。
常陸国側も、将門を待ち受けていた。
将門は、藤原玄明らを常陸国にこれまでどおり住むことを許し、追捕の取りやめを要求する牒を、常陸国衙に向けて発した。
しかし、国衙側は承諾せず、合戦を行うとの返事を寄せた。
そこで戦いがはじまり、常陸国衙の兵士3千人程が討ち取られた。
将門の随兵1千人が、常陸国府を包囲した。

常陸介藤原維幾は、監禁され過状(かじよう、自分の誤りを認める書き付け)を提出し、国府に留まっていた検交替使(けんこうたいし、前任国司が任期中に亡くなった場合などに都から派遣され、新任国司との間で、国司交替の手続きを行う使者)も維幾と同様の処遇を受けた。
検交替使は、詔使(しようし、天皇の詔により任命・派遣される使者)であったから、このこともまた、謀反とみなされる原因となった。

『将門記』によれば、国衙にあった高級な絹織物や見事な珍しい財宝も散乱し、絹も奪われた。
また、300余の家が焼かれた。(常陸国府は焼き討ちされたと解釈されてきたが、「家」とあるので、国衙周辺の家かもしれず、国庁が完全に焼失したかどうかは確定できない。)

常陸国府は、茨城県石岡市の石岡小学校付近と推定される。付近に惣社や国分寺などもある。また、最近、小学校敷地内から、正殿・東脇殿・西脇殿などが検出されはじめた。現在のところ、焼土層もなく焼けた形跡はみられないという。

また、
「犀風の西施(せいし)は、急(たちまち)に形を裸(あらわ)にするの媿(はじ)を取る。府中の道俗も、酷(から)く害せらるるの危(あやぶ)みに当たる。(中略)定額(じようがく)の僧尼は、頓命(とんめい)を夫兵に請い、僅かに遺(のこ)れる士女は酷き媿を生前に見る。」
屏風とは深窓をイメージさせ、西施とは、中国の春秋時代に呉王夫差(ふさ)が愛した美女(宿敵の越王勾践が夫差を陥れるために嫁がせた女性)のこと。
国司などの妻が無理やり引き出され、僅かに残された身分のある女性がひどい恥をさらしたという。彼女たちは、将門側の兵士に「戦利品」として処理され性暴力を受けたことを表している。

維幾は将門の前にひれ伏して、印鎰(いんやく)を将門に捧げたという。
印鎰は、国印と国府に付属した正倉の鍵を意味し、国印は、政府への上申文書に捺した印のことである。常陸国の場合、「常陸国印」と陽刻された2寸(約6cm)四方の印である。
正倉は、国衙の主たる倉庫のことで、国衙にとって必要かつ重要な物品が収納してあった。したがって、その鍵は国衙行政のシンボルとして重視された。
印鎰を奪われることは、国衙行政そのものが奪取されたことを意味した

将門はこの後、坂東諸国を手中に収めるが、翌天慶3年には上総介藤原滋茂(しげもち)は、「印鎰を奪われた」罪により、官職を追われて(『日本紀略』3月25日条)、平忠常の乱の際も、安房守藤原光業(みつなり)は、「印鎰を棄てて上洛」している(『日本紀略』長元3年(1030)3月27日条)。
*
11月29日
・維幾と検交替使は、豊田郡鎌輪(かまわ)の営所に監禁された。
(彼らは殺されず、丁重な扱いを受けている。この点から、将門が中央政府と全面的な戦争を企てていたわけではないということが推測できる)
*
12月2日
・平将門と興世(おきよ)王が常陸国に損害を与えたとの知らせが都へもたらされる(『日本紀略』)。
*
12月11日
将門、下野国へ侵攻
作者の想像と考えられる『将門記』の記述によれば、武蔵権守興世王は将門に対し、
「今までの前例を考えますに、一つの国(ここでは常陸国)を討ち取ったといいましても、公儀の責任の追求は軽くはありますまい。それならばいっそ、坂東全部を手中に収め、しばらくようすをみてはいかがでしょうか。」
と述べた。

将門は、中国の故事を引き合いに出して、
「自分は天皇の子孫である。坂東八カ国からはじめて、王城(京の都)を占領したいと思う。今、坂東諸国の印鎰を奪い、すべての受領を都へ追い出してしまおう。一方では坂東八カ国を手に入れ、一方では人民を掌握しよう。」
と答えた。

この日、将門は下野国との国境を越え、下野国府に入った。
新任国司の藤原公雅(弘雅の誤り)と前任国司大中臣全行(またゆき、完行とも書く)は、将門が下野国を奪おうとしている気配を察知し、将門を再拝して、印鎰を捧げて地に跪き差し出した

続いて将門は、国司の住む館や国府を手中に収め、使者を付けて、公雅・全行らを都へ追放した。国司たちの妻子は、徒歩で旅を続け、国司に付き従う従類たちも徒歩で碓氷坂に向かった。
国司は、国務に欠かせない四度公文(よどのくもん、正税帳・計会帳・調帳・計帳)を捨てて、東山道を上っていった。
*
*

0 件のコメント: