2012年5月4日金曜日

延長9年/承平元年(931) 承平南海賊の蜂起 群盗の横行

東京 江戸城(皇居)東御苑 2012-05-02
*
延長9年/承平元年(931)
1月21日
・源公忠、「海賊」に関する文書を奏上(『貞信公記抄』)。
*
2月8日
・左右「近衛」府・左右「衛門」府・「検非違使」、京中に「群盗」が満ちているということで夜警命令を受ける(『扶桑略記』)。
*
4月
承平南海賊(この年~承平6年、瀬戸内海で出没した大規模な海賊蜂起)
天慶2年(939)12月に始まる藤原純友の乱とは区別される。

瀬戸内海には、9世紀中頃から海賊が出現している。
瀬戸内海は穏やかで、山陽・南海・西海道諸国の官物は、陸送ではなく瀬戸内海を海送されており、その荷を狙って海賊が出没した。
承平元年4月、海賊が出現すると(『貞信公記』)、翌年4月に追捕海賊使が任命されるが(『貞信公記』)、承平3年12月には更に拡大し蜂起に至る(『扶桑略記』)。
彼らは小野氏彦・紀秋茂(きのあきもち)・津時成(つのときなり)らを首領とする30余の小集団から構成され、数次にわたる追捕(追捕海賊使の派遣や諸国警固使(坂東諸国の押領使に相当する国ごとの軍事指揮官)の配置)にも屈しなかった(『扶桑略記』承平6年6月是月条)。
*
4月26日
・承平に改元。
*
閏5月7日
・源公忠、「霖雨」により諸人の愁いが多い旨を奏上。
これを受けて「祟」りであるかを占わせると、艮坤方の神社に「穢」を為す者があるというので、「検非違使」を派遣し実検を命令する(『貞信公記抄』)。
*
7月3日
・「大宰府」警固所に「鷺」が集結した事件を占うと、西方に「兵賊」が発生するという結果であった(『日本紀略』)
*
7月9日
・藤原忠平、「天変」が続発しているので10箇寺に「内御読経」を修法させる(『貞信公記抄』)。
*
7月19日
・宇多法皇、没。

この時点の台閣の構成:
全員15五名のうち、藤原氏は11名で、他の氏は中納言以上にはいない。源氏は僅か1名。
藤原氏の主流は摂政左大臣の忠平(52)で、その長子実頼(32)がすでに参議に列している。
大納言仲平(なかひら、57)は忠平の兄であり、保忠(やすただ、42)は甥、故左大臣時平の長子。
忠平は、幼帝の外舅という関係で摂政として権力を掌握している。
*
12月2日
・「群盗」横行により山城国に淀・山崎などの5道警衛命令が発せらる(『貞信公記抄』)。
*
12月12日
・「検非違使」及び諸衛官人・舎人ら、故藤原菅根邸に籠もった「群盗」を捕縛し獄に下す(『貞信公記抄』)。
翌13日、前日「群盗」を捕縛した諸衛官人・舎人ら、「禄状」を下賜される(『貞信公記抄』)。
*
*

0 件のコメント: