2013年6月16日日曜日

1769年(明和6)6月~9月 ナポレオン・ボナパルト誕生 田沼意次、老中格となる モーツアルト父、イタリア旅行計画 【モーツアルト13歳】

江戸城(皇居)二の丸庭園 2013-06-11
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1769年(明和6)
6月
・福井藩、再度の農政組織改革(前年明和5年、越前での最大規模一揆が発生したことによる)。
この月、大庄屋制度復活。
翌7年閏6月、代官も宝暦11年以前の14人に復する(「家譜」)。
大庄屋は、農民支配組織の末端に位置づけられ、以前の組頭給が郷盛の中から出されていたのに対し、新制度の大庄屋は藩から毎年20俵の手当てが給与。人数も以前の組頭約40人に比べて少なく、金津奉行の所管地域で3人、郡奉行支配の上・中・下各領で5人ずつの計18人。
「大庄屋共江申渡候ケ条之覚」として任務6ヶ条が明示される。
代官増員・大庄屋再任は、農村掌握の徹底、騒動再発に備えるもの。
一方、大庄屋は天明期以降疲弊する農村において改革仕法の実施を指導し、時に国産奨励の推進にも当たる。
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・浪人風の者が関東や伊豆・甲斐の村々で銭をねだりまた止宿するため、幕府が逮捕と公事方奉行への報告を命じる触れをだす。
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6月9日
・八戸を中心とした地震。大橋が落ちるなどの被害。
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6月9日
・フランス、ロベスピエール、パリのルイ大王学院に入学。
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6月13日
・オーストリア、マリー・アントワネットとフランス王太子ルイ・オーギュストとの結婚について、フランスから正式な結婚の申込み。
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6月15日
・佐藤信淵、誕生。
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6月17日
・キャプテン・クック、タヒチで太陽を通過する金星の観測
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7月
・コルシカ島、パオリ副官カルロ・ブオナパルテ(ナポレオン父)、降伏条約調印。
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7月28日
・九州で大地震。特に延岡城・大分城で被害が大きく、熊本領内でも多くの被害がでる。
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8月6日
・モーツアルト、ザルツブルク大学の修了式のためにカッサシオント長調<フィナル・ムジーク>(K.63)作曲。
K.62a (100) セレナード第1番(ニ長調)、K.62 カッサシオン(ニ長調)が演奏される。
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8月8日
・モーツアルト、ザルツブルク大学の修了式のためにカッサシオン変ロ長調<フィナル・ムジーク>(K.99(.63a))作曲。
ドミニクス師の日記
「8月6日若いモーツァルトが作曲した論理学部生たちのための終了祝賀音楽があった。
8月8日、同じく物理学部生たちのための終了祝賀音楽があった。 」。

フィナール・ムジーク:ザルツブルク特有のジャンル。
毎年8月大学の学期末に2年間の予備課程を終えた学生により主催された終了式で使われた音楽。 楽士たちは行進曲を奏でながら大司教の夏宮殿のミラベルまで練り歩き、そこで大司教のためにセレナードを演奏。
後、再び行進曲で退出、大学へ戻り、教授たちのために演奏。 更に、もう一度行進曲を奏でて楽士たちは退場、ザルツブルク夏の恒例行事が終る。
学生の感謝と別れの音楽祭だが、市民にとっても楽しみな行事。
大学には2つの課程(論理学科と物理学科)があったので、毎年2曲がザルツブルクの有力な作曲家に委嘱。
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8月10日
・伊勢遷宮にあたり、幕府からの太刀献上のため、高家が江戸を出発する。
9月3日、伊勢神宮内宮が遷宮。
9月6日、伊勢神宮外宮が遷宮。
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8月15日
・ナポレオン・ボナパルト(ナポレオーネ・ブオナパルテ)、フランス領コルシカ島の西海岸アジャシオで誕生。カルロ・ブオナパルテ(シャルル・ボナパルト)第4子。
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8月18日
・御用人田沼意次、老中格に。
西の丸老中板倉勝清、本丸老中になる。
田沼意次は再び5千石の加増を受け、2万5千石の知行となる。
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8月23日
・ジョルジュ・キュヴィエ、誕生。フランスの博物学者
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8月26日
・江戸で大風。家屋多数が倒壊。
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9月
・10月にかけて尾張・江戸のほか、諸国に感冒が流行する。
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・モーツアルト父レオポルト、ヴォルフガングを音楽の本場イタリアに連れて行く計画を立てる。
この月、2回目のウィーン旅行のとき知り合った宮廷作曲家ヨハン・アドルフ・ハッセにそのための推薦状を依頼。
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9月13日
・幕府、新真鍮銭の通用をはかるため、江戸から諸国への銭の輸送制限をとく。
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9月14日
・アレクサンダー・フォン・フンボルト、誕生。博物学者・探検家・地理学者
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9月15日
・フランス、ボン=アドリエン・ジャンノ・ ド・モンセイ(15、後、ナポレオンの元帥)、王立軍隊に志願入隊、コンテ歩兵連隊に所属。法律家にさせたい両親に何度か連れ戻される。
1774年の3度目の入隊で初めて両親の許しを得る。
85年中尉、91年大尉に昇進。
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9月24日
・モーツアルト父レオポルトの「ヴァイオリン教程」再版。
その序文で、レオボルトが息子の伝記を書こうと考えていること(この点は既にオルミュッツ滞在中に洩らされている)と、イタリア旅行の計画が進んでいることがわかる。

「私はここで、おそらくは世紀に一度だけ立ち現われ、また音楽の世界ではこれほど驚くべきかたちではおそらく唯の一度もかつて起こったことのない物語で読者諸氏に楽しんでいただく機会を捉えることもできようし、愚息の驚嘆すべき天才を描いてみせることもできよう。音楽上の知識の全領域に亙ってのこの子の理解しがたいまでに素早い進歩を、五歳から十三歳にいたるまで委細に亙ってお話しすることもできよう。しかも私は、かくも信じがたい事柄にあって、とくに偉大な音楽の巨匠たち多数の否定しがたい証言を引きあいに出すこともできるだろうし、嫉妬心の証言までも引きあいに出すことさえ可能だろう。だが、ここで私が書かなければならないのは短い緒言であって、詳しい物語ではないので、私が神の御加護のもとに旅しようと目論んでいるイタリアから帰ったあとで、この物語で読者諸氏に楽しんでいただこうと思っている・・・」
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9月30日
・この日付のウィーン宮廷作曲家ヨハン・アドルフ・ハッセ(1699~1783)からヴェネチアの政治評論家ジョヴァンニ・マリア・オルテス宛ての手紙。
「私は当地でザルツブルク大司教楽長のモーツァルト氏なる人物と面識を得ましたが、才知に富み、明敏で、世慣れた人物です。・・・この人物は娘と息子を一人ずつもっています。・・・息子の方は、たかだか十二歳か十三歳にしかなっていないのに、こんな年頃で作曲を能くし、しかも音楽を完壁にマスターしております。この子のものだという作品を見ましたが、たしかに稚拙なものではなく、十二歳の少年のものとは思われませんでした。・・・ところで父親は、この子をイタリアに連れて行って有名にしたいと考え、この旨私の手許に手紙をよこしまして、同時に推薦状を幾通か求めておりますので、あえて一通を貴下にお送り申し上げたいと存じます・・・父親が申しておりますには、ザルツブルク出発は十月二十四日になるとのことで、従いましてそちらには月末に到着することでありましょう。」

「少年は美しく、元気で、やさしく、かつ礼儀正しいので、彼を識ってしまうと、好きにならないでいることはなかなか困難です。確かなのは年齢に応じての然るべき進歩がみられるならば、父親が彼をあまりに度をすごして可愛がったり、またこれが私の一つだけ恐れている点ですが、行き過ぎた讃辞でもって彼をはめそやすあまり、そのことで彼を台無しにしないかぎり、この子は驚嘆すべき人物となることでありましょう。」
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