2013年6月24日月曜日

長元3年(1030)3月 安房守藤原光業、忠常に追われ京都へ戻る。平維時の従兄弟、平正輔(維衝の長男)が安房守となる。 平忠常の乱の概観と清和源氏の関東での勢力拡大

江戸城(皇居)二の丸庭園 2013-06-18
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長元3年(1030)
3月27日
・平忠常の乱。
安房守藤原光業(みつなり)、平忠常に追われ、国府の印鑑も庁府に残したまま京都へ戻る。
29日、朝廷は平維時(上総介)従兄弟の平正輔(維衝の長男)を新たに安房守とする。

正輔の起用は同族の追討使平直方を支援する意味をもっていた。
上総介は、直方の父であり正輔の従兄弟の維時が配されている。
忠常自身も彼らの同族である。
ここから、同族をもって同族を討たせるという国家の鎮圧方針が読み取れる。

しかし、正輔が安房に下向した形跡は見あたらない。
伊勢在地における致経との軍事紛争や裁判に忙殺され、下向どころではない。

■これまでの経緯
万寿4(1027)年12月、藤原道長没と同時期、平忠常は挙兵、安房に侵入、国府を襲い安房守平惟忠を焼殺。
下総・上総を基盤にする忠常が安房を攻めたのは、在地における安房住民と国司との衝突があったとみられる。
官物の納入を巡る国司の収奪に反対する紛争である。

平忠常は、平将門の叔父平良文の孫。
平良文は下総国相馬郡を本拠にし、子の忠頼、孫の忠常も関東で勢力を伸ばす。
良文については下段に再述)
忠常は上総国、下総国、常陸国に父祖以来の広大な所領を有し、国司の命に服さず納税の義務も果たさなかった。

長元元年(1028年)6月、忠常は安房守平惟忠を焼き殺し、続いて上総国の国衙を占領する。
上総国の国人たちは忠常に加担して反乱は房総3ヶ国(上総国、下総国、安房国)に広がる。

追討使として源頼信・平正輔・平直方・中原成通が候補にあがり、右大臣藤原実資は陣定において、頼信を推薦。
頼信は常陸介在任中に忠常を臣従させていた。
他の公卿も同調するが、後一条天皇の裁可により検非違使右衛門少尉平直方と検非違使左衛門少志中原成道が追討使に任じられた。

直方を追討使に抜擢したのは、関白藤原頼通だった。
直方は貞盛流の嫡流ともいえる立場であり、同じ貞盛流の常陸平氏と連携していた。
常陸平氏は、武蔵・下総を勢力基盤とする良文流平氏とは長年の敵対関係にあった。
直方は頼通の家人であり、頼通に働きかけることで追討使に任命されたと推測される。
直方は国家の公認のもとに、平忠常ら良文流平氏を排除する立場を得ることに成功した。

8月、京に潜入した忠常の郎党が捕らえられた。
郎党は内大臣藤原教通(忠常の「私君」にあたる人物)宛ての書状を持っており、追討令の不当を訴える内容だった。

平直方と中原成道は吉日を選び任命から40余日も後の8月5日亥の刻(午後10時)に兵200を率いて京を出立した。夜中にもかかわらず、見物人が集まり見送ったという。

翌年には、直方の父・維時が上総介に任命され追討も本格化する。
国家から謀叛人扱いされた忠常は、徹底抗戦を余儀なくされる。

追討使の中原成道は消極的で、関東へ向かう途上、母親の病を理由に美濃国で滞陣している。
合戦の詳細は不明だが消極派の成道と積極派の直方は仲たがいしたため討伐軍は苦戦し、乱は一向に鎮圧できなかった。

長元2年(1029年)2月、朝廷は東海道、東山道、北陸道の諸国へ忠常追討の官符を下して討伐軍を補強させるが鎮定は進まなかった。

同年12月、都への報告を怠ったとの理由で成道は解任されてしまう。

そして、この月、
長元3年(1030年)3月、忠常は安房国の国衙を襲撃して、安房守藤原光業を放逐した。
朝廷は後任の安房守に平正輔を任じるが、平正輔は伊勢国で同族の平致経と抗争を繰り返している最中で任国へ向かうどころではなかった。

■その後の経過
忠常は上総国夷隅郡伊志みの要害に立て篭もって抵抗を続けた。
乱は長期戦となり、戦場となった上総国、下総国、安房国の疲弊ははなはだしく、下総守藤原為頼は飢餓にせまられ、その妻子は憂死したと伝えられる。

同年9月、業を煮やした朝廷は平直方を召還し、代わって甲斐守源頼信を追討使に任じて忠常討伐を命じた。
頼信は直ぐには出立せず、準備を整えた上で忠常の子の一法師をともなって甲斐国へ下向した。

長期に及ぶ戦いで忠常の軍は疲弊しており、頼信が上総国へ出立しようとした長元4年(1031年)春に忠常は出家して子と従者をしたがえて頼信に降伏した。
頼信は忠常を連れて帰還の途につくが、同年6月、美濃国野上で忠常は病死した。
頼信は忠常の首をはねて帰京した。忠常の首はいったん梟首とされたが、降人の首をさらすべきではないとして従者へ返され、また忠常の子の常将と常近も罪を許された。

長元5年(1032年)功により頼信は美濃守に任じられた。

平直方の征伐にも屈しなかった忠常が、頼信の出陣によりあっけなく降伏したのは、忠常が頼信の家人であった(『今昔物語集』)ためであるともいわれている。

■乱後の情勢(関東における清和源氏の勢力と坂東平氏)
この乱の主戦場になった房総3ヶ国(下総国、上総国、安房国)は大きな被害を受け、上総守藤原辰重の報告によると本来、上総国の作田は2万2千町あったが、僅かに18町に減ってしまったという。
だが、同時にその原因は追討使であった平直方や諸国兵士、すなわち朝廷軍による収奪であったと明言している(『左経記』長元7年10月24日条)。
この乱を平定することにより坂東平氏の多くが頼信の配下に入り、清和源氏が東国で勢力を広げる契機となった。

長元の乱は5年で終息したが、房総3国の疲弊は天慶の乱より甚だしく、特に房州農民の被害は二度も馬蹄に蹂躙されて、散り散りになり、戦乱が終わってようやく帰り、耕地を復旧するには5~6年を要した。
朝廷は乱後4ヶ年の間租税の徴収を延期し、その後も分納を認めたので追々に復興した。
この乱では忠常1人が刑を受け2人の子常将・常近には類が及ぼなかったため、房総にあって、それぞれ上総氏・千葉氏として隆盛を持続することになる。

忠常の乱の鎮圧後、彼の子供の平常将が房総半島の復興に努め、その子・平常長の5男・常晴が、相馬地方に移住して相馬郡を開発。

また、忠常の弟・平将常は忠常が神妙に降伏したこともあって、武蔵権守に任じられて武蔵国秩父郡中村郷に本拠地を構えて勢力を張り、のちに「坂東八平氏」とよばれた平氏の一党・秩父氏となった。のちこの秩父氏からは源平合戦にも活躍した、河越氏・畠山氏・江戸氏・小山田氏・渋谷氏・などの諸氏が輩出する。

先の追討使・平直方は頼信の武勇に惚れて、頼信の嫡子・頼義に娘を娶わせて源氏との結びつきを深め、鎌倉の館も譲り渡した。こうして直方の娘から生まれたのが、清和源氏八幡太郎義家である。

平良文:村岡良文(むらおかよしふみ)
第50代桓武天皇の皇子であった葛原(かずはら)親王(臣籍降下して平性を賜る)から5代目に、桓武平氏として平良文(たいらのよしふみ)がいる。
平良文は下総国の豪族として武蔵国・下総国などを開発して勢力を確立し、相模国村岡にその住居を定めて村岡姓を名乗り、村岡(平)良文として関東鎮守府将軍となる。
平良文の孫・平忠常(上総介)が上総国で起こした大反乱「長元の乱」を起こすが、忠常は清和源氏の源頼信(みなもとよりのぶ)に討ち取られる。

伊勢平氏の平直方は、関東で発生した「鎮守府将軍・村岡五郎(平)良文の乱」の鎮圧に追討使として失敗し、役を解かれて伊豆の国に在住する。
この直方の流れが後に北条家となる。

清和源氏の源頼信が忠常の乱鎮圧に成功し、関東では源氏の勢力が強まり、鎮守府将軍などの現地武門トップの地位は源氏へと移ってしまう。
この村岡良文(平良文)の子孫が、源義家に従って奥州(東北)と坂東(関東)の治安にあたる縁を持ち、坂東(関東)各地に土着して土豪武士となり、その諸氏が八つの氏族に大別されていた為に「坂東八平氏」と呼ばれる。
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