新宿御苑 2013-11-23
*明治37年(1904)
4月11日
・「初め中佐の死を聞て嘆惜す、中佐何ぞ自ら重んぜざるや、中佐の死は一兵曹の為なり、弾丸雨飛の際三度一兵曹を探ぬ、豈に乱暴ならずとせんやと、計らざりき、兵曹は中佐が親友にして肝胆相照らせるなり、中佐三度兵曹を探ねて得ず、得ずして将に去らんと欲す、友として遺憾なし、人として遺憾なし、将軍として亦遺憾なし、共時其際、弾丸中佐を打つ、遺憾なき中佐は更に限りなき満足を得たり、中佐は其探(たずぬ)る友に逢ひ得たるなり。」(『萬』4月11日)
廣瀬中佐の行動は軍の規律上は問題あるが、単なる職務上の関係を超えた慈愛という観点から、軍の外部にいる人間に受け容れやすい形での解釈。
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4月11日
・4月1日に旅順で、海上に浮かんだ日本海軍将校の葬儀が鄭重に行なわれたという報道を受けて、『東京朝日新聞』は次のように述べる。
「報中の日本将校厚葬は廣瀬中佐の遺体に係るものの如し。頭部の負傷といひ福井丸の船首に浮び居たる事といひ袖に金線ある事といひ、廣瀬中佐ならではと思はるゝ節のみ多し。日本武士の名誉の死骸は敵中に於ても亦日本武士が相当に享受す可き尊敬と儀礼とを享受したるに相違なし。又想ふに中佐は嘗て久しく露国に在りたるを以て敵中にも必ず相識のものありたらん。其戦死の趣も必ず欧洲を廻りて敵の軍中に達し居るぺければ、此厚葬は或は中佐の遺骸と知りて此(かく)したるものなるやも知れず。敵中亦中佐のために涙を流したるものありしや否や。」
敵方も自分たちと同じように、廣瀬を追悼する気持ちを持ったに違いない、涙を流した者もいるかもしれないと考えている。
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4月12日
・旅順口の太平洋艦隊司令長官マカロフ中将、日本軍上陸阻止作戦発令。
午後6時30分、駆逐艦8隻が出撃。
午後10時5分頃、日本軍機雷敷設隊計17隻、ロシア駆逐艦隊とすれ違う形で南東から旅順口湾口に接近(ロシア艦はこれを味方と誤認)。
13日午前1時45分、日本艦隊は機雷44個投下して引揚げ。
午前4時頃、ロシア駆逐艦「ストラシヌイ」が日本軍第2駆逐隊4隻に接近。
午前4時50分頃、日本駆逐艦「雷」が砲撃。「ストラシヌイ」艦橋付近に命中、艦長ユラソフスキー中佐戦死。
午前5時35分「ストラシヌイ」沈没始める。
午前6時20分、巡洋艦「バヤーン」が現場に到着、「ストラシヌイ」乗組員5名を救助して引揚げ。
13日午前7時50分、再び出港命じられた巡洋艦「バヤーン」、日本第3船隊を発見。マカロフ中将に連絡しこれを砲撃。
午前8時5分、第3戦隊司令官出羽少将、太平洋艦隊の出撃を連合艦隊司令長官東郷中将に打電。
午前8時10分、第3戦隊は「誘敵」のため第1戦隊の方向に転進、ロシア艦隊がこれを追尾。
午前8時40分、ロシア艦隊は第1船隊に気付き反転。
午前9時39分、旗艦「ペトロパウロフスク」が老虎尾灯台東方で触雷、爆沈。司令長官マカロフ中将・参謀長モーラス少将など幕僚、戦死。乗組員773人中生存者129。
16日、後任に黒海艦隊司令長官スクルイドルフ中将、任命。
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4月12日
・堺利彦控訴公判。東京控訴院。弁護人今村力三郎・花井卓三・高木金之助・木下尚江ら。
16日、判決。「平民新聞」発禁棄却・軽禁固2ヶ月(←3ヶ月)。
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4月12日
・斉藤兼次郎・石川三四郎、5月1日より週刊新聞「社会新報」発行届出。「平民新聞」発行禁止が確定した場合の処分対応。
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4月12日
・セルビア・ブルガリア、秘密軍事同盟条約締結。
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4月13日
・廣瀬中佐の葬儀
前日の12日、廣瀬中佐の柩は兄の勝比古邸を出て築地の水交社に収められ、通夜。
13日、海軍省の公葬として葬儀。
午前10時、勅使によって幣帛(へいはく、紅白絹)が下賜される。通例、勅使が差し遣わされるのは勅任官以上であり、海軍中佐の葬儀では空前のこと。
午後1時、水交社を出た葬列は、青山斎場まで行進。軍楽隊と儀伏兵220名らが先導し、東伏見宮依仁親王ほか海軍関係者などから贈られた七対の真榊、紅白旗四対、勲章などが水兵らに捧持され、ついで砲車に乗せられた廣瀬の霊柩が水兵に曳かれてゆく。
その後を、「当年十二歳の少女、妻子を有ざりし故人が愛情の凝(かたまり)とも見るべき姪の馨子」が、「親戚にまもられて従へるは亦一種異様の感を以て沿道の人々の鼻をつまらせぬ」。
親族の後を山本権兵衛海相、伊東祐亨軍令部長ら海軍高官が徒歩で従い、儀杖兵250名がこれに続き、その後を多数の一般会葬者が歩むという大葬列。
途中からは、学校帰りの学生らが 「書籍と弁当箱とを小腋にかゝへ静粛に」、これに参加している。
このことからも、「如何に中佐が学生間に其遺徳の仰がれ」ているかが分かると報じられている。
そして、「各戸弔旗を掲し其沿道に人垣つくり一里余の両側を埋に埋たる人々」が、この一行を見送っている。
葬列の勇士たちが 「其繕はぬ面に包みがたき悲痛の色を浮めて、胸轟かすべき軍楽の哀譜の中を粛々として進行くさまは、実に是れ崇高の極悲壮の限にして、かかる葬列は東京市民が多く見るを得ざりし処、況んや軍国の民此『軍神』とまで慕ふの人の葬式に於て之を見る、むべなり往々感極て稠人(ちゆうじん)の中に涙を拭ふ髯男の多りし事や」というありさま。
沿道の帝国ホテル前では、「同館外泊中の外国紳士淑女数十名」が「整列し脱帽して哀悼の意を表」し、様々な学校の生徒たちが、各所に整列して葬列を見送った。
なかでも、北白川宮武子、擴子両女王を含む華族女学校生徒530人と、「武装して」並んだ青山、赤坂両小学校生徒が、「わきて人の感情を惹」いたという。
「職員は両殿下を路傍に立たしめ給ふ事余りに勿体なしと其思召しを伺ひたるに、両殿下は容(かたち)を改め給ひ、中佐の如き誠忠義烈の人に対して弔意を表するに身分の階級など問ふの要あるべきや、他の生徒と一列にて何の差支へもなしと仰せありしとぞ、中佐たる者死して余栄ありしと云ふべし」という(『萬』4月14日)。
また、「沿道幾多の子女感極まり涙を垂るゝもの」ばかりであったが、「中にも赤阪(ママ)小学校、青山学校の女生徒が教師指揮の下に、哀悼の唱歌を声を震はせながら歌ひつゝ送迎したるは一段の感を深うしたり」という。
「此の日の天気殊に好く、幾千人と云ふ会葬者が行列正しく進み行く順路中の所々、日本男児の紀念たる桜花の雪心ありげに中佐の遺骸を乗せたる砲車に散りかゝる様は、如何にも哀深く覚えたり」(『東朝』4月14日)。
桜が花吹雪を作る下を、廣瀬の葬列が通っていった。
青山斎場には、「陸海軍人、朝野の紳士、外国新聞記者等数百人集まり居り、英国公使マクドナルド及同館附武官、米国領事なども来り会し」ていた。
そして、「村田斎主祭文を朗読し、読で中佐が最期の事に至るや満場寂として婦人席より鳴咽の声のみ高かりき、特に黒紋付の婦人連の間に、襟のつきたる綿服着て一種の異彩を放ちたる杉野兵曹長の北堂(ほくどう、母堂)の如きは、小笠原(長生)少佐夫人に向ひ、今日の御仏は妾が倅孫七郎の姿が見えざるとて三度迄も御捜しくだされたはつかりにかう云ふ事になりました、其の優しき御心ばせは何と申しても御礼の申しやうが御坐りませんと、感極つて号泣せしは慰めんかたなく気の毒なりけり」という(『萬』4月14日)。「式場に臨める杉野兵曹長の老母身の粗服を顧み、躊躇して入らず、子爵小笠原海軍少佐之を慰め、子爵夫人をして導いて場中に入らし」めた。
黒紋付きを着ることもできないような貧しい杉野の母親が、このような盛大な葬式で埋葬された海軍中佐の温情に号泣し、それがまた周囲の人々に深い感銘を与えていた。
廣瀬の盛大な葬送は参列者たちの流す涙が支配する場であった。
「衆人愔然(いんぜん)として首を低(た)れ又一人として能く仰ぎ見るもの無し、悼惜(とうぜき)の感は電気の如くに左右両列十数万の心胸を撃てり、悲哀の涙は噴泉の如くに老となく若となく各人の瞼に満てり」。
「此の如く国民の追慕を受くる所以のもの、是れ氏の天品の力なり、人格の力なり、語を更(か)へて言へば幾百年来我大和民族の精神的帝国を支配したる武士道の力なり」。
廣瀬の「人格の力」は、日本の伝統に深く根ざした「武士道の力」であり、日本人が心の奥底に持っている崇高な精神を、はっきり発現させたところに、廣瀬の偉大さがあると捉えている。
日本人が揃って泣くのは、自分たちが共有する精神を、廣瀬が命を懸けて見せてくれたからだ。「氏の偉大なる精神は、永く国民の教条として万代に振ふべし。吾人は士風動(やや)もすれば廃れんとする現代に於て、此の活きたる経典を得たるを、寧ろ一捷報(しようほう)よりも貴重なるものとして茲(ここ)に聊(いささ)か意を安んず、懐(おも)ふに偉霊亦当(まさ)に地下に瞑すべし」(『戦報』7)。
廣瀬の死を悲しむことが、すたれがちだった「士風」を復活させるきっかけとなり、戦闘で一度勝つよりも重要だとみなされた。
乃木の弔文
謹テ海軍中佐廣瀬君ノ霊ニ告ク。鳴呼君ノ功ヤ偉大。君ノ死ヤ壮烈、世ヲ挙(こぞ)リテ君ノ名ヲ嘖々(さくさく)シ、君ノ精神ヲ欽慕スル。洵(まこ)トニ宜(よろしき)ナル哉。而シテ吾人ノ特ニ君ニ感謝セサルへカラサルハ、我国未曾有ノ大戦ノ劈頭ニ於テ、広大無限ナル、精神上ノ教訓ヲ垂レラレタルコト是ナリ。君ノ徳ニ感シ、君ノ志ヲ継ク者、応(ま)サニ長(とこし)へニ尽ルナケン。鳴呼君ハ万古死セサルノ人卜謂フへシ。今ヤ質素ニシテ盛大ナル君ノ葬儀ニ方(あた)リ、桜花爛漫沿道ニ送迎シ、君ノ雄魂ヲ慰セントス。是レ亦天意卜人心トヲ表スルニ庶幾(ちか)シ。謹シテ吊(ちよう)ス。
星桜会総代 乃木希典敬白
廣瀬の葬儀は、13日の東京以外に、17日に廣瀬の出身地、旧岡藩藩主中川伯爵邸で在京関係者を集めて行なわれたものや、5月1日には故郷大分県竹田町で地元の名士や中学生らを集めて行なわれたものなど、各地で追悼会が催された。
『海軍中佐廣瀬武夫弔詞集』(竹田や中川伯爵邸での追悼式の弔辞46通を纏めたもの)をみると、意外にも、杉野兵曹長を三度捜索したことに、半分以上が触れていない。これに言及しているものは46通中19通のみ。
3回も船内を回って部下を捜したという話は、他の戦死者との違いを際だたせ、だからこそ、廣瀬が軍神と賞讃されるようになったと思われるが、それは軍神となる契機を与えたに過ぎなかったと思われる。
戦争が始まり日本人としての同胞意識が高まる中で、人々は無意識のうちにその一体感を投影できる人格、体現する英雄を望んでいた。
廣瀬はその受け皿になれるような条件を備えていたから、国民の関心を集めたと思われる。
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