2013年11月27日水曜日

1778年(安永7)4月~7月 モーツアルト母アンナ・マリア(57)パリで客死 グリムのモーツアルト評:「才能は半分でいいから、倍の要領の良さが必要だ」 【モーツアルト22歳】

江戸城(皇居)東御苑 2013-11-26
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1778年(安永7)
4月
・パリ、モーツアルト、フランソワ・ジョセフ・ゴセックと知り合う。
僅かな金を稼ぐためド・ギーヌ公爵令嬢に作曲を教え、この父娘のためにフルートとハープのための協奏曲ハ長調(K.299(297c))を作曲。

母が体調を崩す。

3月か4月、モーツアルト、コンセール・スピリチュエルで上演されるホルツバウアーの「ミゼレーレ」に加えるためにル・グロの懇願に応じてK.297a (Anh.1) ホルツバウアーの「ミゼレーレ」のための8楽章を無報酬で作曲したが、紛失。

5日~20日、モーツアルト、コンセール・スピリチュエルの監督ル・グロの依頼によりK.297B (Anh.9) フルート・オーボーエ・ホルン・ファゴットのための協奏交響曲(変ホ長調)を作曲、紛失。ヤーンの遺品にあった写譜K.297bで今日に残る。
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4月7日
・フランクリン、パリ訪問のヴォルテールをフリーメイソンに加入させる
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4月7日
・イギリス、ロッキンガム派の独立承認の動きに、チャタム(大ピット)、病躯にむち打って議会で独立反対の演説、卒倒
独立承認動議は後日否決、チャタムは5月11日没。
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5月
・この月の初め、モーツアルト、宮廷のヴァルトホルン奏者ヨハン・ヨーゼフ・ルドルフがヴェルサイユ宮廷礼拝堂のオルガニストの地位(年俸2000リーヴル)が紹介されるが断る。
(母の臨終の手紙(7月3日)で、オルガン奏者なんかイヤだ、高い俸給の楽長でなければイヤだ、と父に書いている。自分の才能についての絶対的な自信だけでなく、 パリでの生活がうまくいかないことや、マンハイムにいるアロイジアが恋しいことや、最愛の母の病気があったりして、気がすすまなかった。)
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5月4日
・北米、大陸会議、全会一致で米仏条約を批准。
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5月19日
・傷ついたり量目の減った金が流通しないため、幕府が交換・売買を拒む者の取り締まりを命じ、通用をはかる
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5月29日
・モーツアルト、パリで父の「ヴァイオリン奏法」のフランス語訳を見つける。
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5月30日
・フランス、詩人・啓蒙主義者ヴォルテール(83)、没。
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6月
・パリ、モーツアルト、ボーマルシェの「セビリヤの理髪師」のロマンス「私はランドール」によるクラヴィーアのための12の変奏曲変ホ長調 (K.354(299a))作曲。

5月~6月、オペラ座のノヴェールのためにバレー音楽とそれに関連する曲、パントマイム「レ・プティ・リャン」のためのバレエ音楽(K.Anh.10(299b))、「狩」(K.Anh.103(299d))(断片)、ガヴォット変ロ長調(K.300)、クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタホ短調(K.304(300c))作曲。
バレエ・インテルメッツォのスケッチ(K.299c)作曲。

中旬、母が病床に着く。
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6月6日
・米、カーライル和平使節団、フィラデルフィアに到着。
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6月9日
・ロシア人イワン・オチェレデンを隊長とする一行、蝦夷地本土に初めて交易を求めてノッカマプに来航。

「・・・六月九日夕、蝦夷地船体にて二艘、異国人乗組み、外に水先として、ヱトロフ島の蝦夷一艘渡来仕り、浜近所に至り数挺の鉄砲打放ち申し候。蝦夷人ども何事とも知らず、殊の外に驚き騒動仕り候。・・・それより赤人共上陸仕り、浜辺に小屋を掛け、それより赤人の通詞にて、シモシリ島住居の蝦夷人をもって申し候は、蝦夷地に日本人詰合い候由、兼て承知仕り候に付、対面下され候様相願い申し候。・・・翌朝シモシリ蝦夷をもって、又々赤人申聞け候は、日本の産物交易仕り度候に付、少々仕入荷物御座候間、望みの通り御承引下され侯様申し来り候。此段大八殿へ申し達し候処、異国人交易の儀、一分にて挨拶相成らず、松前に罷り帰り、主人に申聞け候上、否やの挨拶仕るべく候間、当年は此より罷り帰り、明年夏に至りヱトロフ島にて、此方より否やの返答遣わさるべく候。これに依って此節は早々立退き候様申渡し候処、同十二日ノツカマフ出立にて、帰船仕り候。尤も赤人ども松前領主へ音物、書翰等差出し候処、則ち大八殿請取り、松前に持帰られ、右音物何品と申す儀、一向存じ申さず候。」(国後場所請負人飛騨屋久兵衛の通詞林右衛門の口書(「北門叢書」第1冊))。
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6月11日
・パリ、モーツアルトがノヴェルのために書いた「レ・プティ・リャン」(K.Anh.10(299b))がピッチーニのオペラと共にオペラ座で初演。

12日、書き上げたばかりの交響曲第31番K.300a (297)(ニ長調、通称「パリ」)を持参して、ラーフと一緒にズィッキンゲン伯爵邸を訪問。
聖体節にコンセール・スピリチュエルがこの曲で始まると父へ報告。
モーツァルトはコンセール・スピリチュエルの常連作曲家に任命され、以後1781年までそのための作曲を行う。

18日、モーツアルトの交響曲(第31番)ニ長調(パリ)(K.297(300a))がコンセール・スピリチュエルで初演。大喝采を受けたが、この頃から母の病状が悪化し会場に行けず。
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6月28日
・米、独立戦争、大陸軍、モンマス・コートハウスの戦いでイギリス軍を破る。
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6月30日
・フランス、サド候爵、マルセイユ事件の公判。死刑判決の破棄。
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7月
・この月から79年1月8日(ミュンヘン)にかけて、モーツアルト、アロイジアのために、K.300b (316) レチタティーヴォとアリア「不滅の神々よ、私は求めず」作曲。
モーツァルトの作品中、最も高い音が出てくる難曲。
冒頭のすすり泣くような低音弦はアロイジアに対する作曲者の恋心か、母の病状を心配してか。

この頃、モーツアルト、母の死の予感してか短調作品が作られる。
K.300c (304) ピアノとヴァイオリンのためのソナタ第28番(ホ短調)、K.300d (310) ピアノ・ソナタ第8番(イ短調)、K.300l (306) ピアノとヴァイオリンのためのソナタ第30番(ニ長調)。
K.304 の第1楽章は最もドラマチック、K.310 はパリ滞在中に書かれた最初のピアノ・ソナタで深い不安と悲しみが投影されている。
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7月2日
・フランス、ルソー(66)、没。パリ北郊外エルムノンヴィル。
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7月3日
・モーツアルト母 アンナ・マリア・モーツァルト(57)、パリで客死。
翌4日、サン・トゥスタシュ教会で、母の葬儀が執り行われ、教会付属の墓地に埋葬される。
母の死の数時間後にザルツブルクの父とブリンガー神父に手紙。
父への長い手紙では、突然に妻の死を聞く父の苦しみを考えて、交響曲 K.297 がパリでヒットしたことや父の喜びそうな話題を次々と並べた。
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7月5日
・バイエルン継承戦争
プロイセン王フリードリッヒ2世、ザクセンと同盟してオーストリアに宣戦。ボヘミア侵入
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7月9日
・モーツアルト、父へ母の死を事実として伝える。
父レオポルトは3日の手紙ですべてが分かっていた。
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7月10日
・フランス、イギリスに宣戦布告
ハイチの黒人兵、フランス軍の前面で活躍。帰国後、独立運動の主流となる。
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7月12日
・フランス、試験的にべリ州議会をブルジュに創設。

この年、ネッケルが、税金問題を主に扱うため、フランス全国に州議会と市町村庁とを創設する計画を発表し、彼の人気は更に高まる。
この日、べリ州議会をブルジュに、1779年7月11日オート・ギュイエンヌ州議会をにモントバンに創設。
グルノーブルでのドーフィネ州議会とムーランでのブルボネ州議会の計画は失敗。
べリ州とオート・ギュイエンヌ州の議会では第三身分が、貴族・聖職者を合わせたのと同数の議員を持っており、これが「第三身分議員の倍増」という考えを広める。
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7月15日
・フランス、サド候爵、ヴァンセンヌ牢獄に投獄されるが、逃亡。
8月26日、逮捕。
9月7日、ヴァンセンヌ牢獄に投獄。
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7月27日
・グリムからモーツアルト父レオポルトに手紙。
モーツアルトについて、「彼は人が好すぎる。だまされ易く、成功の可能性のある手段を知らない。才能は半分でいいから、倍の要領の良さが必要だ」と書き、「人々はピッチーニ派とグルック派に分かれていて、この間で成功を収めることはできない」と伝える。
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7月30日
・モーツアルト、パリからアロイジアに手紙。
アリア「テッサリアの人々よ」K.300b (316)を送ると伝える(モーツァルトがアロイジアに宛てた中で唯一現存している手紙)。
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