2013年11月29日金曜日

堀田善衛『ゴヤ』(15)「マドリード」(4) 「 それは革命的でもなく、反革命的でもなく、きわめてスペイン的であった」

北の丸公園 2013-11-29
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1766年3月2日、数人が逮捕され刑務所に収監される。イエズス会を背景に全土で民衆の抵抗運動が組織される。
「一七六六年三月二日、この御法度を犯した数人が逮捕され、罰金を払うことを拒否して、刑務所へ送られた。敵意を催した群衆が警察をとり囲んだが、これは簡単に追い払われた。
民衆の、ユーモアたっぷりの智恵は、今度は逆手の方法を見出した。数人の男が、お祭りの山車にも似た、巨大なフランス風のカツラをかぶって通りへ出て来て、人々と一緒になって大騒ぎをし、大笑いに笑った……。
こういう奇妙な抵抗運動は、ほとんどスペインの全都市でひそかに組織されて行った。しかもその背後には強力なイエズス会がいた。」

3月23日、暴動始まる。衛兵所占領、武器奪取して自ら武装
「かくて三月二三日、四旬節最後の日曜日の夕刻、・・・。
・・・物陰から五〇人ばかりのヤクザ連中がとび出して来て、衛兵を武装解除し、衛兵所を占領しただけではなくて、武器弾薬を持ち出して自らを武装した。
・・・
「王様万歳、エスキラーチェ(*首相)を殺せ、奴の女もやっつけろ!」
・・・」

「・・・王は、例によって、狩猟に行っていて、マドリード北郊のエル・パルドの森から戻りつつあった。・・・
王の一行が王宮に無事帰りついてみると、エスキラーチェ首相が、ぶるぶるふるえていた。
インファンタ通りにあった首相邸は襲われて掠奪された。召使の二人が殺され、彼は自ら禁止を命じたツバ広帽子と黒いマントで変装して命からがら逃げ出したものであった。群衆はついでジェノア人の大臣グリマルディ邸を襲い、これを掠奪し、むちゃくちゃにしてしまった。」

翌24日、軍隊に出動命令
「あくる二四日、民衆は首都の中心をなす広場、プエルタ・デル・ソル(太陽の広場)を占領し、お祭り騒ぎをやらかした。・・・そうして王は、軍隊に出動を命じた。
・・・軍隊それ自体が、その四分の一くらいは外国人の雇い兵であった。スイス人、ウォルーン人(ベルギー南部)、アイルランド人、イタリア人、それに各国からの志願兵からなる外人部隊。この志願兵とは、要するに各国軍隊からの脱走兵や、ありとあらゆる犯罪を故国で犯して来た連中である。そうして最高指揮官は国防大臣の、アイルランド人の将軍アレクサンダー・オライリーである。
・・・」

「のこりの四分の三の、スペイン人の部隊は、五人一組でクジを引いて一人が徴兵されるという、インチキの入るべき余地のはなはだ多い兵で構成されていた。・・・。彼らはもっぱらおしゃれと金儲けにはげんだ。おしゃれとは、この場合きっぱりフランス風にすることである。胸に金時計を二つぶら下げ、鼈甲の嘆ぎタバコ箱をもち、絹靴下をつけて、バックルつきの靴をはく……。」

「・・・
ともかくこういう軍隊が武装した群衆に対して何の役に立つか。
彼らに出来ることは、彼ら自身を衛るために零距離で民衆に発砲することだけである。
零距離ならば、距離はない。次の弾丸を銃にこめているあいだに、撲り殺されて、四肢をばらばらにされてしまった。勇気ある聖職者の呼びかけに耳をかすものは誰もいなかった。群衆は娼家から売春婦たちを解放して、街頭でバッカスとエロスの一大祝祭を敢行した。」

民衆は王宮に殺到。国王一行はマドリード南50キロのアランホエースの離宮に落ち延びる
「あとにのこるもの、もう一つ残されたものは、宮廷だけである。暴動から革命へ、王を殺せ!王宮に火がかけられた。火事は幸か不幸かポヤ程度で消しとめられた。
この際、いかにもスペイン的なのは、民衆も軍隊も、双方ともに〝昼寝(シエスタ)〞の時間は休戦ということになっていたことである。
アイルランド人の軍指揮官は、冷静な男であった。夜に入って王宮の地下道を通って逃げ出し、一行はマンサナーレス川に沿ってマドリードの南方五〇キロ弱のところにあったアランホエースの離宮に落着いた。憎まれたエスキラーチェ首相も一行のなかにいた。

マドリードにのこされたものは、略奪と打ち壊しである。
暴動は全スペイン規模に広がり、血の熱いサラゴーサでは二五〇人の死者を出し、パルセローナ、ムルシア、サラマンカ、ブルゴス、シュウダード・レアールなどにも及んだ。」

何かが起るようでいて、たしかに何かが起って、しかもなお結果としては、あたかも何事も起らなかったかのような結果になるのは、スペイン史の謎とでも言うべきものであろう
「この稿のはじめのところで、私は次のように書いたことがあった。
何かが起るようでいて、たしかに何かが起って、しかもなお結果としては、あたかも何事も起らなかったかのような結果になるのは、スペイン史の謎とでも言うべきものであろう、と。」"

暴動のあっけない終結
「王は、エスキラーチェを、スペイン王国の大使として、彼の故国であるナポリへ帰してやった。・・・
それだけである。
王はマドリードへ戻った。
内閣の後釜には、アラゴン出身の、われわれの主人公と同郷のアランダ伯がすわった。」

ともあれ、ツバ広帽子とマント党の大勝利
「しかしともあれ、ツバ広帽子とマント党には大勝利であり、スペイン伝統主義者にとっても大勝利である。そしてもっとも快哉を叫んだものはイエズス会の会士たちである。」

この民衆蜂起は、革命的であったのか、反革命的であったのか
「暴動は、その根底に、反フランス的な要素をこめていた。反フランスだけではなく、全般的に排外的な要素、つまりはスペイン保守主義の擁護という要素を強くもっていた。そうしてイエズス会があまりに強力であることは、政治の開明化、教育の普及、産業の奨励などの邪魔になったことである。すでに海の彼岸では産業革命がはじまろうとしている。

ピレネーのかなたでは、一七四八年にはモンテスキューが『法の精神』を書き、ディドロ等は一七五一年から『百科全書』を発行しはじめている。ルソーの『民約論』は一七六二年に出ている。六四年にはヴォルテールの『哲学辞典』が出る。フランス革命は目睫の間に迫っている。

いったいこのマドリードの民衆の蜂起は、革命的であったのか、反革命的であったのか。

反進歩、反改革、反フランス的であった下層階級が蜂起したからと言って、またそれを暗黙のうちにイエズス会が支持したからと言って、それが反革命的であったとは言えないのである。
そうして、結果として、追い出されたエスキラーチェにかわって、アラゴン出身のブルジョアジーであったアランダ伯が首相になり、この伯爵がヴォルテールと親交があったからと言って、結果としてこの擬似革命が、革命的なものであったとも言えないであろう。・・・

イギリスが産業革命へ向って邁進し、フランスがルソー、ディドロ、ヴォルテールなどの啓蒙思想を経て大革命へと傾斜して行くなかで、スペインもまたかつての先進大帝国から、いまでは後発国の様相を呈して来たことのなかで、身をよじって苦悶をしていたのである。」

それは革命的でもなく、反革命的でもなく、きわめてスペイン的であった
「それは革命的でもなく、反革命的でもなく、きわめてスペイン的であった、としか言い様がないであろう。・・・
ツバ広帽子とマント禁止は、われわれにとっては、明治維新のときの、廃刀令あるいはチョンマゲ廃止、ザンギリアタマの奨励と瓜二つであろう。」
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