2014年3月2日日曜日

『桜が創った「日本」 -ソメイヨシノ 起源への旅-』(佐藤俊樹 岩波新書)を読む(1) 「桜とはそういうものだ、と私はずっと重いこんでいた。とんでもない誤解である。桜だからではなく、ソメイヨシノだからそうなのだ。」

 エドヒガン 江戸城(皇居)東御苑 2013-03-19

 コヒガン 江戸城(皇居)東御苑 2013-03-19

ヤマザクラ 北の丸公園 2013-03-27
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『桜が創った「日本」 -ソメイヨシノ 起源への旅-』(佐藤俊樹 岩波新書)

まえがき
「春になると、桜が咲く。
桜の花はまるで空から降ってくる。冬の間裸だった木を、縁の葉がめぶくまえに、白桃色の花弁が覆う。人は桜と出会い、そして春に出会う。日本列島の春は桜の春である。」

「・・・多くの人が経験する、ありふれた春の風景の一つ。一斉に花が咲き散っていく姿に、日本列島の人々は出会いと別れをずっと重ねあわせてきた。はてしない花色の回廊や、一斉に吹き散る花びらの乱舞。なかにいると自分も引きこまれていきそうで、おそろしく、そしてなつかしい。何度すごしても、桜の春は心がざわめいて、しかたがない・・・。」

「春=桜=ソメイヨシノ」はたかだかここ80年くらいの姿
「・・・あんな桜の語られ方かふつうになったのも、決して旧くはない。五十年か、長く見積もっても七、八十年ぐらい。それより前には、もっと別の形で桜の春は語られていた。」

「・・・桜が一斉に咲き散る景色に「日本らしさ」や「日本人らしさ」を見出す人は今も多いが、本当は逆で、いつからこんな春ができたのか、どうしてこんな春をずっと過ごしてきたと思うようになったのか。そう考えた方が「日本」や「日本人」について、もっと深く、もっといろいろ見えてくるのである。」

Ⅰ ソメイヨシノ革命
1 「桜の春」今昔
桜、桜、・・・
表Ⅰ-1 桜の種類
  ■自生種
ヤマザクラ群:ヤマザクラ、オオヤマザクラ、オオシマザクラ、カスミザクラ
エドヒガン群:エドヒガン
マメザクラ群:マメザクラ、タカネザクラ
カンヒザクラ群:カンヒザクラ
  ■園芸品種  
「里桜」:普賢象、一葉、関山

「これほど多種多様な桜があるなかで、現在私たちが目にする桜のほとんどはソメイヨシノ(染井吉野)という、たった一つの品種で占められている。」

日本の桜の中でソメイヨシノが占める割合は、
「平塚晶人『サクラを救え』は、・・・関西以外の都市部で九割、関西の都市部で八割、都市部以外では七割ぐらいではないかと述べている。」

「・・・私が特に好きなのは目黒川だ。中目黒という駅の近くから目黒橋まで、一キロにわたって桜並木がつづく。川といっても幅は十メートルぐらい。両岸の枝はふれあい、落ちた花弁が川面を塊りになって流れていく。岸辺からの眺めもいいが、川の上、鉄橋を渡る電車からの眺めはもっといい。樹冠が並んで見えて、花色がいっそうひきたつ。
よく似た景色は明治の頃からあったらしい。例えば、もっと都心に近い神田川でも、飯田僑から江戸川橋までソメイヨシノが両岸に植えられていた。島崎藤村の『若菜集』にもでてくる。当時の川幅はやはり十メートルほどで、今の目黒川にはおりられないが、昔の神田川では小舟を出して花見ができた。なんともうらやましい話である」

ソメイヨシノだからそうなのだ
「桜並木は同じ彩りでずっと向こうまでつづく。樹に近づけば、その感じはもっと鮮烈になる。どの樹も本当に同じ花色をしている。遠くからぼんやり同じように見えるだけではなく、近くで見てもはっきり同じなのだ。
桜とはそういうものだ、と私はずっと重いこんでいた。とんでもない誤解である。桜だからではなく、ソメイヨシノだからそうなのだ。」

昔の桜景色
「ソメイヨシノの咲き方には、いくつか際立った特徴がある。特に目をひくのは、葉が出る前に花が出そろうところだ。桜のなかではエドヒガン系も花だけ先につけるが、ソメイヨシノは一つ一つの花が大きい。そのため、樹全体を覆いかくすように、花が一斉に広がる。まさに「一面の花色」という感じだ。「花の随道(トンネル)」とか「花のアーチ」といった形容もよく聞く。
実は、これはソメイヨシノならではの咲き姿で、「まえがき」で少しふれたが、桜の歴史のなかでは新しいものなのである。・・・」

「では、それ以前の桜の景色はどんなものだったのだろうか。」

ソメイヨシノ以前には日本列島のほぼ全域を一つの種類の桜が覆うことはなかった
「ヤマザクラは主に西日本に自生する。例えば、有名な奈良県吉野山の桜はほとんどがヤマザクラ。京都の内裏紫宸殿前の桜、あの「左近の桜、右近の橘」の桜は何度も植え継がれていて、江戸時代には紅色の八重桜もあったようだが、多くはヤマザクラ系統だろうと考えられている。
ところが東日本では、暖かい地域にしかヤマザクラは自生しない。太平洋岸では宮城の石巻以南、日本海岸では新潟の糸魚川以南。内陸の長野県では、木曾川や天竜川沿いの南の方にかぎられる。東北や中部の少し寒い山野にはカスミザクラや紅色の濃いオオヤマザクラ、別名「紅山桜」が多い。人里近くでもエドヒガンが主で、今でもヤマザクラをほとんど見ない土地がかなりある。
つまり、ソメイヨシノ以前には日本列島のほぼ全域を一つの種類の桜が覆うことはなかった。だから、本当は、人々が見ていた桜の姿も地域によってちがう。」

「近畿地方はやはりヤマザクラが多いが、長野県ではエドヒガンが目立つ。エドヒガンはソメイヨシノやヤマザクラよりやや早く、東京(江戸)付近ではお彼岸頃に咲く。長寿の樹が多く、種蒔きの時期を告げる桜としても知られる。枝が地面に垂れる糸桜や枝垂桜はこのエドヒガンの変種である。有名な高遠のコヒガンはエドヒガンとマメザクラの雑種と考えられている。」

「東北地方になると、例えは西行の歌、

聞きもせず束稲(たばいね)山の桜花 吉野の外にかかるべしとは

で有名な、平泉の束稲山。『吾妻鏡』に旧暦の四~五月まで雪が残るとあるくらい寒い場所だから、これはヤマザクラではない。いくつか候補は考えられるが、一番有力なのはカスミザクラだろう。
西行はこの後に、「出羽の国に越えて、たきの山と申す山寺に侍りけるに、桜の常よりも薄紅の色こき花にて、なみたてりけるを、寺の人々も見興じけれは」という詞書で、

たぐひなき思ひいではの桜かな 薄紅の花のにはひは

という歌も詠んでいる。色と場所からみて、これはオオヤマザクラだろう。たきの山」は現在の山形市。西行が訪れたのは平安時代の終わり頃だが、当時ここには霊山寺という大寺院があったと伝えられている。」

エドヒガンの花見がふつうだったようだ
「江戸時代になると、もう少しはっきりする。元禄年間にできた仙台の桜の名所、榴ヶ岡(つつじがおか)はエドヒガン系。角館もエドヒガン系である。「ソメイヨシノ以前はヤマザクラが花見の対象だった」と書かれたりするが、東日本で記録に残っているのはエドヒガン系が多い。数百本単位で植えた事例もいくつかあり、エドヒガンの花見がふつうだったようだ。」

江戸の桜
エドヒガンとヤマザクラ、そして海沿いには潮風に強いオオシマザクラが多かったのではないか
「江戸時代の前、江戸が東京湾奥の小都市だった頃にも、もちろん桜は咲いていた。警視庁のある「桜田門」の「桜田」など、桜にまつわる旧い地名も残っている。その種類を特定する手がかりはないが、後代の資料から考えてエドヒガンとヤマザクラ、そして海沿いには潮風に強いオオシマザクラが多かったのではないか。」

「エドヒガンが本州北部から九州まで広く分布するのに対して、オオシマザクラは伊豆大島、相模湾沿いや東京湾沿いなど、南関東の温暖な土地に自生する。大きく濃い縁の巣の問に、大きな白い花をつける。」

「江戸幕府の八代将軍徳川吉宗がヤマザクラの愛好者だったこともあって、一八世紀以降はヤマザクラがふえるが、それでもヤマザクラ一色になったわけではない。」

大田南畝(蜀山人)「花見の日記」の「白桜」はオオシマザクラ
「大田南畝(蜀山人)が寛政四年(一七九二)に「花見の日記」を書いている。江戸のあちこちに花見に出歩いた記録で、桜の種煩がかなり確実にわかる貴重なものだが、これには「白桜」とよばれる一重咲き(花びらが五枚)の桜がよく出てくる。回数でいうと「白桜」が一八回、「山桜」は九回、「彼岸桜」と「糸桜」は五回と一〇回(『大田南畝全集 八巻』の白井文庫本による)。種煩の名称では実は一番多い。上野や品川御殿山といった有名どころでも、もちろん咲いていた。
江戸時代の桜図鑑、松岡玄達の『櫻品(おうひん)』によると、「白桜」は「山桜に似て色潔白なり、単(ひとえ)にして弁広く丸し、茎葉ともに青し」。花は真っ白で一重、花弁が大きく丸い、葉と茎はともに緑。この特徴はオオシマザクラにちょうどあてはまる(口絵のカラー写真参照)。南畝も『櫻品』で見分けていたようだが、「日記」では花が小さめのや匂いの強いのも「白桜」と呼んでいる。今の上匂(ジョウニオイ)や新墨染(シンスミゾメ)などもふくめて、オオシマ系の一重桜を広く「白桜」と称していたのではなかろうか。隅田川堤(向島)の、桜餅で有名な長命寺の門前でも、南畝は「白桜」を見ている。」

「花見の日記」には園芸品種の八重桜もたくさん顔をだす。また「彼岸桜」と「糸桜」はエドヒガンの系統である。だから、かりに南畝のいう「山桜」がすべて今のヤマザクラだとしても、回数は決して多くない。主にオオシマから作られた八重桜に、オオンマ系の「白桜」とエドヒガン系の一重、それにヤマザクラ系の一重が加わるというのが、当時の桜のありようだったのではないか。ヤマザクラは潮風に弱いせいか、他の桜を押しのけるほどではなかったようだ。」

「この頃の江戸には、上野や隅田川堤といった大がかりな名所だけでなく、各種の桜を数本から数十本ほど境内に植えて、花見の客を集める寺社があちこちにあった。今日の東京でも、その姿を残す場所はいくつかある。」

文京区白山の白山神社
「一つは文京区白山の白山神社。今はアジサイで有名だが、江戸時代には「白旗桜」という桜で知られていた。八幡太郎源義家が戦さの際に旗をかけた、という伝説のある桜である。元の樹は国の天然記念物に指定されていたが、昭和の初めに枯れてしまい、現在あるのは二代目。春、境内をたずねると、葉の縁の間にあざやかな白い花をつけて迎えてくれる。並木ではなく、単独で咲いているので、一本一本の花と薬の色がくっきり映る。その色彩の対照はソメイヨシノにない美しさである。」

渋谷区渋谷の金王八幡宮
「もう一つは渋谷区渋谷の金王(こんのう)八幡宮。ここには金王桜という桜の、植え継がれた何代目かがある。・・・」

「境内にはソメイヨシノも集まって咲いているが、金王桜は白旗桜と同じく、本殿の横に一本ずつ離れて立っている。名前は源義朝(義家のひ係で鎌倉初代将軍頼朝の父)の従者、金王丸にちなむもので、鎌倉の亀ケ谷から移植されたと伝えられる。」

江戸にはそういう「白い桜」の伝統がある
「白旗桜はオオシマの系統で、金王桜は現在のものは系統不明だが(『山渓セレクション 日本の桜』川崎哲也解説)、江戸時代には大輪の白い花を咲かせていた。オオシマザクラは緑が明るい分、花の白さが際立つ。オオシマ系の園芸品種にも白い花を強調したものが多い。南畝の「白桜」がすべてオオシマ系だと断定しきれないとしても、その重要な一部だったと考えられる。
江戸にはそういう「白い桜」の伝統がある。源頼義・義家以来関東に地盤を築き、鎌倉幕府をつくった源氏の一統、いわゆる「武家の棟梁」の旗色も白だった。その白と白のつながりが義家や義朝にちなむ伝説を生みだしたのではなかろうか。少し気取った言い方をすれば、東京の「地霊(ゲニウス・ロキ)」を感じさせる桜である。」

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