2014年3月6日木曜日

『桜が創った「日本」 -ソメイヨシノ 起源への旅-』(佐藤俊樹 岩波新書)を読む(2) 「ソメイヨシノはいわは「革命」の花である。いや、ソメイヨシノそのものが革命だったといった方がいいかもしれない」

千鳥ヶ淵 2013-03-29
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ソメイヨシノはすべてクローン
「桜の春」の本当の姿:
いろんな桜がここ百年くらいの間に、次第にソメイヨシノにとって代わられていった
「そんないろんな桜がここ百年くらいの間に、次第にソメイヨシノにとって代わられていった。それが「桜の春」の本当の姿なのである。」

ソメイヨシノには種子から育った樹がない。すべて接木や挿木による
「ソメイヨシノはオオシマザクラとエドヒガンの交配でできたと考えられているが、オオシマにもエドヒガンにもない性質がある。ソメイヨシノには種子から育った樹がない。すべて接木(つぎき)や挿木(さしき)による。すでにあるソメイヨシノの木の一部を切り取って、新たな樹に育てたものだ。
桜には自家不和合性といって、同じ樹のおしべとめしべの間では受粉できない性質がある。できた種(たね)には必ず別の樹の遺伝子がまざる。だから種から育てると(これを「実生(みしょう)」という)、元の樹とは同じものにはならない。それに対して、接木や挿木でふやせば、元の樹の形質をそのまま引き継ぐ。複製ができるわけだ。これを「クローン(栄養繁殖)」という。
日本の桜の八割を占めるソメイヨシノはすべてクローンなのである。このことも最近はかなり有名になって、ソメイヨシノの話にはちょくちょく顔を出す。・・・」

ソメイヨシノというのは品種の名前、ヤマザクラやエドヒガンやオオシマザクラというのは種名
「ソメイヨシノにも種子はできるし、それが育てばソメイヨシノに似た桜になる。ただ、それは定義によってソメイヨシノとよばない。ソメイヨシノというのは品種の名前で、いわば特定の樹単位でつけられている。わかりやすくいえは、すでにあるソメイヨシノと同じ樹しかソメイヨシノとはよべない。それに対して、ヤマザクラやエドヒガンやオオシマザクラというのは自生種の種名で、いわば似通った樹々の総称である。」

「人間でいえば、ソメイヨシノは個人個人の名前、ヤマザクラなどは「モンゴロイド」などの集団の名称にあたる。・・・」

花見の時空
「桜の春」のイメージとソメイヨシノの特性
「「桜の春」で多くの人はソメイヨシノを思いうかべるといったが、その春のイメージにもこのソメイヨシノの特性は深く関わっている。
例えば、イラストやアニメの映像ではあたり一面同じ桜色の並木がよく描かれるが、あれはソメイヨシノならではの景色である。花の色も咲く時期もほとんど同じだから、満開時に並木の下にたつと、視界すべてが花で満たされる。頭上も花、四方も花、そして足元にも落ちた花びらと、圧倒的な量感でせまってくる。並木には特に映える花である。」

「開花宣言」「桜前線」とソメイヨシノ
「春の名物「開花宣言」や「桜前線」も、ソメイヨシノの咲き方と関係がふかい。気象庁では各地のソメイヨシノ(ただし奄美以南はカンヒザクラ、北海道中部以北はオオヤマザクラ)のなかに基準木を定めており、その樹で開花を判定する。例えば、東京の基準木は靖国神社の境内に三本あり、うち二本で花が開くと、「東京で桜が咲いた」という開花宣言がでる。その日づけを等高線にして、地図に描いたのが桜前線である。現在の「桜前線」のシステムは昭和二八年にはじまるが、原型は大正一四年(一九二五)にできている。」

「ソメイヨシノでなくても開花宣言はできるが、ずい分まぬけなものになってしまう。例えばヤマザクラだと、十数本ぐらいでも十日前後、満開日がずれることがある。ソメイヨンノであれば、一本咲けば近辺のソメイヨシノはほぼ同時に咲く。だからTVのニュースにしやすいし、視た人も「来週ぐらいが満開かな」とあたりがつけられる。」

花見のあり方とソメイヨシノ
「ソメイヨシノは密集して植えると特に見映えがするが、その分、花の下の地面は狭くなる。もっと切実なのは時間だ。開化から満開までがはば七日、さらに咲き終わるまでが七日で、花のシーズンといえるのは十日間ぐらい。咲くタイミングは近隣でほぼ一致するから、一つの町や村で花見ができる期間も十日間になる。」

「だから、ソメイヨシノの花見は戦争じみてくる。空間も狭い、時間も狭い。希少な時空をめぐって争奪戦がくりひろげられる。時機をのがせばすべておしまい。いきおい狂おしくなるが、別の面から見れば、勝っても負けても十日間。それがすぎれば、それこそ憑き物がおちたように平常にもどれる。だからこそ、かんたんに狂おしくなれる。それがソメイヨシノの花見である。」

ソメイヨシノ以前の花見:「一本桜から群桜へ」
「ソメイヨシノが広まる前は、花見も今とはだいぶちがっていた。もちろんソメイヨシノの前といっても、ずい分長く、その間ずっと同じやり方で花見をしていたわけではない。よくいわれるのが「一本桜から群桜へ」の変化である。
一本桜というのは、寺社の境内などで一本ずつ咲く桜をいう。先ほどのべた白山の自旗桜や渋谷の金王桜のように、一本桜には「この桜は昔々……」という伝脱が残っていることが多い。その伝説ごと花を愛でるのが一本桜の花見であった。
それが群桜、つまり多数の桜がならんで咲くのを見るようになる。この変化がいつおきたかについては、一七世紀後半とか一九世紀前半とかいわれているが、突際にはゆっくりと変わっていったようで、後でまたふれるが、東京でも戦前までは一本桜に近いものがかなり残っていた。」

上野の花見:群桜+飲食+群集の花見
「白幡洋三郎『花見と桜』によれば、新しい花見の姿は上野から生まれてくる。「一本ではなく群桜であること」「詩歌……などではなく飲食をともなっていること」「群集で行われること」という、群桜+飲食+群集の花見だ。」

1ヶ月間続く花見の期間
「これが今日の花見につながってくるわけだが、現在と大きくちがう点が一つある。花見の期間である。例えは文政一〇年(一八二七)に出た『江戸名所花暦』は上野をこう紹介している。「上野‥…当山は東都第一の花の名所にして、彼岸桜より咲き出でて一重・八重追々に咲きつづき、弥生の末まで花のたゆることなし」。江戸第一の桜の名所上野は、一ヶ月間ずっと花が絶えないことで知られていたのである。上野とならぶ江戸の三大名所、隅田川堤や飛鳥山でも花の期間は一ヶ月近くあったらしい。」

「もう一つ参考になるのは吉原。吉原の仲之町大通りには、毎年春の間だけ桜の樹が移植され、「満街花雲」とうたわれた。いかにも遊里らしい話だが、その桜は旧暦三月初めに植えられ、月末に抜き去られた。ここは八重桜が主で、「葉桜になりても人なお群集す」とあるから、咲いていたのは三週間ぐらいだろうが、ほぼ一ヶ月間花見を楽しんでいた。
貝原益軒の『花譜』にも「桜 ひとえ桜、春分の後花ひらく、彼岸桜より十日はかり遅し、また八重桜にさきだつこと十日はかりなり」とあるように、江戸時代には、桜の特徴はむしろ開花期がずれるところに見出されていた。『花譜』は二十種ちかくの桜を咲く順に並べており、開花の遅早や花期の連なりに関心をよせていたのがわかる。」"

多品種型と単品種型
明治以降でもソメイヨシノ以外を売り物にしたのは、上野、小金井、荒川堤(「江北の櫻」)。
「・・・明治以降、東京の桜は次第にソメイヨンノで占められていくが、そのなかでソメイヨシノ以外を売り物にした名所が三ヶ所あった。一つは上野で、ここは明治の終わりまでエドヒガンとヤマザクラで有名だった。口絵に載せた明治二二年の幾英の錦絵にも、満開の桜の向こうには緑の樹がしっかり描かれている。もう一つは小金井。ここは江戸時代からヤマザクラの名所として知られる。そして最後の一つが「江北の桜」こと、荒川堤である。
この桜は荒川沿いに西新井から埼玉県境まで、約五キロにわたる。造られたのは明治一九年(一八八六)。江戸時代の園芸品種の保存に大きな役割をはたしたことで知られるが、もう一つ、ここは息の長い江戸の花見を残す場所でもあった。
山田孝雄(よしお)の『櫻史』では、桜の種類が多いので、散り終わろうとするのがあれは新たに咲き始めるのもあって、花期がとても長く、花盛りの季節には人々でごった返していた、と紹介されている。堤の桜は洪水や大気汚染のために昭和十年代初めには衰退していくが、その頃でも四月初めから五月初めまで、一ヶ月間が花見のシーズンになっていた。」

そして吉原
「吉原仲之町大通りの桜もつづいていた。明治四四年(一九一一)に出た若月紫蘭『東京年中行事』は、

桜は……方々から珍しいのを珍しいのをとさがして来て植える。今年の桜は、天の川、普賢桜、遅桜、南殿(なでん)、長州緋桜、虎の尾、車返し、大提灯、鬱金桜など言う素大別にしてもおおよそ二十四種、本当に分けると百十種、総数三百五十株千余本もあって……。

と書いている。やはり品種の多きと珍しさが売り物だったようだ。「四月の十四、五日から二十日頃にかけて花はポツポツと妍(けん)を競い出す」とあるので、花期も少しずつずれるよう、工夫されていたのだろう。」

「実際、花期の長さや連なりは各地の名所の見所の一つになっていたし、邸宅の庭でもいくつかの品種を植えるのがふつうだった(龍居松之助「庭園木としての桜」『櫻』八号。雑誌『櫻』はⅡ章3参照)。南畝の「花見の日記」でも、ほとんどが多品種植えをしている。」

多品種分散型(ソメイヨシノ以外)と単品種集中型(ソメイヨシノ)
「新聞やTVがない時代、花の様子は自分の目で見るか、人伝てに聞くしかない。十日間しか咲かないような名所では、花見の客もろくろく集められない。その上、品種が多けれは、病害虫で全滅する危険も減らせる。つまり、経済的にも生態学的にも、多品種の名所の方が断然生き残りやすい。
それらを考えると、「群桜」といっても、多品種分散型と単品種集中型の二種類に分けた方がよさそうだ。明治になってソメイヨシノが拡がる前は、上野や隅田川堤など数百本単位で咲く場所でも、寺社の境内など数十本単位で咲く場所でも、多くは多品種分散型だった。それがソメイヨシノの拡大とともに、大部分がソメイヨシノで占められるという単品種集中型へ変わっていく。私たちになじみ深い桜や花見の姿は、同じ群桜でも単品種集中型なのである。」

「今も京都の平野神社など、多品種型を残す神社やお寺はある。東京の小石川植物園や新宿御苑、多摩森林科学園など、研究や産業振興のために多くの種雛を集めている施設もある。そういう場所では花が見られる期間も長い。・・・」

吉田兼好の花見
「花はさかりに月はくまなきをのみ見るものかは」(『徒然草』)とは?
「そんな目でみると、有名な『徒然草』の一節もちがった感じに読めてくる。

花はさかりに月はくまなきをのみ見るものかは。……たれこめて春のゆくへ知らぬも、なはあはれに情け深し。……春は家を立ち去らでも、……思へるこそ、いとたのもしう、をかしけれ。(桜の花は満開を、月は満月だけを見るというのもどうだろうか。・・・家の内にこもって春のすぎゆくのを知らないというのも、心をうち、情感ふかい。)」

「『平家物語』桜町大納言の逸話に「桜は咲いて七筒日に散るを」とあるように、中世京都の桜も花期はふつう一週間ぐらいだったが、町にはさまざまな種類の桜があり、花が咲く一週間は少しずつちがう。・・・都市全体でみれば、花の波は激しく一気に通り過ぎるのではなく、もっとゆっくり始まり、ゆっくり終わっていた。」

「そう考えると、こんな姿も思いうかぶ。--- 家の内から、外を歩く人の話し声に耳をかたむけ、近くの桜が咲き散っていく様子を聞く。戸を開けると、花びらだけがそっと吹きこんできたかもしれない。そうやって花を思う一週間や十日がすぎて、その後に町に出ると、見知った桜はすでに散って、しらじらとした庭だけが残っている。だが、少し遠くまで歩いているうちに、見知らぬ桜の満開の姿に出会うことだってある。そんなとき、兼好の心にどんな気持ちがわきだしたか、想像するとなかなか楽しい。
あるいは、そんなことは先刻承知で、町中の桜が散り終わるまで、一週間ではなく一ヶ月近く、家にずっとこもっていたのかもしれない。外の話し声で、近所の桜が散り終わったのを聞きつけても、「まだまだ」「まだまだ」と我慢して、こもりつづける。そんな頑固なこだわり男の姿を想像するのも、いとをかし、である。」

吉田兼好の一重桜へのこだわり
「吉田兼好は世の流行に逆らって一重桜にこだわった人であった。

花は一重なる、よし。八重桜は、奈良の都にのみありけるを、このごろぞ、世に多くなり侍るなる。吉野の花、左近の桜、みな一重にてこそあれ。八重桜は異様(ことよう)のものなり。……植ゑずともありなん。遅桜、またすさまじ。(桜の花は一重がよい。八重桜は奈良の都だけにあったのに、最近、世の中にふえてきたそうだ。吉野の桜も、左近の桜もみな一重である。八重桜の姿は変だ。植えなくてもよい。遅咲きの桜も興ざめだ。)

独自の美意識といえなくもないが、さすがにここまでくると理屈が勝ちすぎた感じだ。この一重桜中心主義は後に独り歩きして、「日本の桜は本来……」という話の典拠になったりするが、「これこそが日本の桜」という考え方が昔からあったわけではない。中世の京都でもいろんな桜が愛好されていた。」

「例えば『枕草子』は「桜は花びらおほきに葉の色濃きが枝ほそくて咲きたる」をよしとしている。『源氏物語』「幻」では、紫の上が「外(ほか)の花は、一重散りて、八重咲く花桜盛り過ぎて、樺桜は開け、藤は遅れて色づきなどこそすめるを、その遅く疾(と)き花の心をよく分きて」と追想されている。貴族の邸宅では多品種植えはあたりまえで、さまざまな桜の種類や花期に通じていることは教養の一部でもあった。
そうしてみると、一本桜から群桜へ、というのも少し考え直した方がよさそうだ。京都では、江戸時代の前から多品種分散型がみられる。観賞用に桜を植えるようになれば、種類をふやして花期を長くするのはごく自然な発想である。ただそれには財力も必要で、そこまで豊かな団体や住人がいない町や村では、多品種植えをしたくてもできなかった。そんなところでは、寺社の境内などで一本桜を愛でていたのだろう。
江戸をはじめ、各地の旧城下町は関ヶ原の戦い以降の百年間で、都市化したところが多い。そういう歴史が「一本桜から群桜へ」という花見の転換を演出したのではないか。飛田範夫『日本庭園の植栽史』によれは、寛文四年(一六六四)の記録で、鷲の尾、普賢象、塩竈、楊貴妃といった名前の桜が、現在の物価水準になおすと、今とほぼ同じ値段で売り買いされている。都市の成長とともに、江戸でも多品種植えはかなり急速に広まったようだ。」"

ソメイヨシノ革命
「その意味では、ソメイヨシノの出現をさかいにして、桜とは何か、桜を見るとは何かの感覚が大きく転換したように思える。

さくらは、初花からほんの十日ほどで、花を終る。……
昔から人は、花の一日一日がどんなに貴いものか知り尽くしていて、さくらの美しさをたたえた。その十日の衣食住は、すべて咲く花散る花にかかわりあるものとして詩歌に詠じ、一刻を惜しんだ。……
真昼の花盛りに樹下にさんかく彳(た)つと、一年がかりで花を咲かせたさくらの心が、悦びが、そのまま人の胸に染みてきて、生きもの同士の切ない共感をおぼえる。
花見という行事も、元来はそうした静謐さを愛惜するところから、生まれたものではなかろうか。(永井龍男「真昼の桜」、昭和四七年、竹西寛子編『日本の名随筆65 桜』より)

桜語りのお手本のような端正な文章だが、もちろん、花見という行事は元来こうだったわけではない。次のⅡ章・Ⅲ章でみるように、ソメイヨシノが他の桜を圧倒し、桜といえはソメイヨシノとなったことで、こういう花の見方が育まれたのだ。」

別れと出会いに、ソメイヨシノはよく似あう
「三月末から五月初めにかけて、九州から北海道南部までの多くの町や村をソメイヨシノの波が通り過ぎていく(図1-2参照)。おかげで、桜の花は卒業と入学、退社と入社など、退出と新入の儀礼を飾る絶好の風物詩となった。年度替わりとともに、顔見知りの幾人かが要を消し、代わりに見知らぬ新人たちが現れる。そして葉桜の頃には、見慣れぬ光景がなじんだ光景となっている。そんな別れ方と出会い方に、ソメイヨシノは特によく似あう。」

ソメイヨシノはいわは「革命」の花である。いや、ソメイヨシノそのものが革命だったといった方がいいかもしれない
「十日間で一斉に開き散っていく。その花はあらゆるものが一斉に姿をかえ、居場所をかえるさまを象徴するのにふさわしい。ソメイヨシノはいわは「革命」の花である。いや、ソメイヨシノそのものが革命だったといった方がいいかもしれない。明治維新とともに表舞台に登場してきたこの桜は、やがて日本中を席巻し、日本の桜の八割を占めるまでになる。それにつれて桜と春の景色は変わっていった。そういう意味でもソメイヨシノという花は革命であった。
そこにはまるで日本の近代という時間が濃縮されているかのようだ。」"

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