2014年3月3日月曜日

康平7年(1064) 源頼義(75歳)、降人安倍宗任、家任、正任らを率いて凱旋。 宗任、伊予に配流。 前九年の役のまとめ(1)

北の丸公園 2014-03-03
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康平7年(1064)
この年
・源義家、越中守に転任される事を望み、朝廷に請う。
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・サルジューク朝アルプ・アルスラーン、アルメニア(東ローマの1州、キリスト教徒領)首都アーニを占領、更に小アジア(アナトリア)へ進み、東ローマとの闘争再開。
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・ノルウェー王ハードラダとスェーデン王スウェイン、16年交戦ののち和平。
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・ロゲリウス1世、2度の大勝利の勢いに乗りシチリア首都パレルモを陥落を試みるが、この年の遠征は失敗。
以後4年間、進撃は停滞。
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3月29日
・源頼義(75歳)、降人安倍宗任、家任、正任らを率いて凱旋。
宗任、伊予に配流。

頼義は政府の指示を持たず、宗任ら主従37人を引き連れ、13年ぶりに京に戻る。
政府は帰降者たちを俘囚として扱うことに決め、8~9世紀の俘囚移配の故事に則り、宗任らを頼義の任国・伊予に、良照らを大宰府に移配し、「長く皇民となし衣類を支給せよ」と命じた。
政府は今回の合戦を、最終的に夷狄征服戦争と位置づけた。「乱」でなく「役」というのは、そういう含意。
治磨3年(1067)、宗任らは本国へ逃帰の恐れありとして、大宰府に再移配された。

■この戦争(前九年の役)は武士たちに何をもたらしたか。
河内源氏の地位の確立
これまでは武士にとって戦闘とは、逃走する犯人の追捕か、面識ある武士同士の決闘(私合戦)であった。武士は個人戦しか知らなかったし、戦闘自体はわずかの時間で決着がついた。
ところが、夷狄との合戦で鍛え抜かれた安倍氏との戦争は、本国から遠く離れた辺境での長期在陣、酷寒と飢餓、戦闘の規模と激烈さ、攻城戦、夷狄蔑視による容赦ない殺戮など、坂東武士にとって今まで経験のない激烈なものであった。

このような激烈な戦闘を共にくぐり抜けるなかで、辛酸と悲嘆と歓喜を共にすることを通して、頼義と坂東武士たちの主従関係の絆はますます強固なものになっていった。

戦場での勲功に報いるため、頼義は上洛したあとも、郎等たちの恩賞獲得のために奔走し、20人近くの郎等が叙位・任官された。
坂東武士に棟梁として仰がれる河内源氏の地位は、ここに確立した。

また武士たちの第二の英雄神話が作られた。
『陸奥話記』は、棟梁頼義と坂東武士との主従関係の神話である。

■戦後の諸相
安倍一族の戦後
安倍宗任以下の投降者たちの移管先、伊予国に宛てた「太政官符」(康平7年3月29日)がある(『朝野群載』(巻11))。
そこには宗任(むねとう)・正任(まさとう)・真任(さねとう)・家任(いえとう)・沙弥良増(昭)(しやみりようぞう)5人と従類32人の措置が記され、頼義の解状が引用されている。
従類32人は、宗任の従類7人、正任の従類20人、真任の従類1人、家任の従類3人、良増の従類1人と各主人別に列記されている。

頼義の解状では、宗任以下の投降者たちの戦場での動きが報じられている。
宗任;
衣川関を破った日、鳥海の楯を去り、兄貞任の嫗戸の楯に籠って共に戦ったが、貞任が誅されたので庇を受けながらも逃亡、その後に武器を棄て「前悪を悔いて」陣前に脆(ひざまず)き投降。

正任;
衣川関の陥落後、小松楯に逃れた折、伯父僧良増(昭)と共に出羽国に逃亡。国守源斉頼がこれを聞きその在所を囲んだため「狄地」に逃げたが、去年5月、「命を公家に奉ずる」と称し降参。

真任;
合戦の時は病気だったため、戦いには従軍しなかったが、諸々の楯が落されたことを聞き、遁れ難いことを悟り投降。

良増(昭);
俗名は則任、初戦より従軍、敗北後は身命のために出家、投降に際しては「母を以て、先となり、合掌出来(しゆつたい)す」と。

家任;
嫗戸の楯に籠り、兄のために合戦したが、貞任・重任・経清が誅されたので、歩兵に混り逃走、一両日を経て投降。

投降者たちの戦場での動きに関する頼義の報告を受けて、「太政官符」は「宗任たちが、旧悪を悔いて降虜となったからには、その心情をおもんばかり憐みを以て、かれらを便宜の場所に移住させ、『皇民』として『衣糧』を支給するように」との裁断を与えた。

『百錬抄』(康平7年3月29日)にも同様の記事がみえる。
宗任以下の奥州の捕虜については、入京させず諸国に分遣すべきとある。
宗任・家任は伊予に。良昭(『朝野群載』は良増)は大宰府に。そして治暦3年(1067)に宗任については「本国に逃れ帰ることの聞え」があったため、大宰府に再度移されたとある。

宗任については『古今著聞集』(巻9)に義家との関係について、次のような説話がある。
義家のもとに朝夕伺候していた宗任が、共に狩に出た折、義家が狐を射た矢を宗任の手でうつぼに入れさせた様子をみて、郎等たちが「降人に参りたりとも、本の意趣は残りたるらん」と、義家の行為を危ぶんだが、宗任は害心をあらわさず、何事もおこらなかったという。
この説話は義家の武勇談の一つとして広く知られているもので、降人たる宗任の態度に「人は人を知る」との道義的訓話が設定されている。

経清の未亡人(安倍頼時の娘);
『吾妻鏡』よれば、頼時には「有加一乃末陪(いちのまえ)・中加一乃末陪、一加一乃末陪」の3人の娘がいた(文治5年9月27日)。このなかの1人が経清の妻となったと思われ、その間に7歳の清衡がいた。夫を失った彼女は、清衡ともども清原武則のもとに再嫁させられる。
安倍氏との血の混交をはかるための方策であり、同一族の陸奥国内の遺領を円滑に継承するうえでも必要なことだったと思われる。
後三年合戦までの20年、安倍の血を清原氏に同化させるための艱難が続く。

■凱旋将軍の苦悩
治暦元年(1065)の頼義の上疏文(『本朝続文粋』(巻6))は、「征夷功」で伊予守に任ぜられた頼義が、康平7年の上京の際、前九年合戦や新任地伊予のことについて語ったもので、眼目は伊予の官物その他の進済を条件に、重任の要請を願い出たもの。

①頼時父子が「都県を領し」、「国務に従わず皇威を忘れる如き」状況下で、頼義に「征伐」の命が下り、鎮守府将軍として「万死の命を忘れ」尽力した。
②貞任以下を誅し、都にその首級をもたらしたことで、「夷狄の居」は「公地」となり、「反乱の輩」は「王民」となった。
③頼義は康平6年に「その功績により」、伊予守となったが、安倍氏掃討のため奥州に留まり、翌年に上洛が実現した。
④速やかに任国伊予に赴くべきところ、「征戦の軍功者」への処遇が決まらず、朝廷からの命令を待っていたために、任国への下向が遅れた。
⑤そうしている間に、伊予国司の任期の2年が過ぎ、官物その他の徴納ができず、「封家(ふうけ)納官(のうかん)」についての責任を取沙汰される事態のなかで、自己の「私物」で官物を進済(しんさい)した。
⑥伊予国の雑掌の指摘によれば、「旱損」で農民が苦しんでいるので、「興復の計」を具体化し、「弁済の勤」をなしたく「重任」のことを許されたい。
⑦昔、後漢の班超は西域を平定するのに「三十年」を要し「千戸の臣」に封(ほう)ぜられたが、頼義は「十三年」で奥州を鎮圧し功績を新たにしたことを考慮し、「征夷の功」により「重任宣旨」を賜わりたい。

(1)頼義の財力
伊予国の「封家納官」(官物を朝廷に納めることと、荘園領主が当該国にもっている年貢物の権利)の進済を私財により達成した頼義の力量に、軍事貴族の本領が発揮されている。
私財による公物の補填(「公」と「私」の混交)は、平安期の成功(じようごう)制度の現れで、王朝国家期の政治的特色でもある。

(2)恩賞問題
頼義の伊予国司への遅任は、戦後処理に伴う陸奥での残留と恩賞問題の未解決にあった。
戦争に勝ち、武名も揚ったが、凱旋将軍頼義の大きな懸案は、12年にわたる戦を共に遂行した士卒たちへの朝廷からの恩賞授与の行方だった。
朝廷側にとっては、恩賞という公的制度は、追討軍の官符や宣旨の対象者に限定されるべきもので、頼義との個人的関係は考慮の外と考えたと思われる。
頼義は、自己の私兵であるが、国家的追討に参じた「兵」たちまで恩賞授与の対象にしようとした。
結局、頼義が求めた軍功者たちへの恩賞は解決されたらしいが(「前陸奥守源頼俊申文」(『平安遺文』4652))、彼らの多くは「坂東の精兵」たちであり、頼義の私兵たる彼らへの恩賞の実現こそが、来るべき棟梁の道に繋がることになる。
「公」と「私」のこうした形の交差は、頼義の主従制は国家の恩賞という公的要素を前提に、これを強化したことになる。
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