(『朝日新聞』2014-05-02)
戦争の記憶が薄れ、9条を含めて安易に改憲を求める空気が強まっている気がします。憲法は国家権力を縛る縄のようなもの。権力側からも「変えたい」との声が出てきていることに、ある種のうさんくささを感じています。
来年で80歳になります。戦時中に多くの若者たちが命を落としたことを考えると、僕も長生きしたものです。平和な社会を守り続けた果実として平均寿命は延び、日本は戦争で一人の外国人も殺さずにすんでいます。これが100年続けば、さらに世界で名誉ある地位を占められる。憲法の戦争放棄条項を「お前、よくがんばっているな」と抱きしめたくなります。
■敗戦で価値逆転
僕は旧満州の奉天市(現・瀋陽市)で生まれ、10歳で敗戦を迎えました。通っていた国民学校では絵に描いたような軍国少年でした。予科練に行った先輩たちは「俺たちに続け」と意気軒高でした。「特攻隊に入って、国のために死のう」と考えていました。
当時は今の時代のような「言論の自由」はありませんでした。密談をすれば、憲兵が寄ってくる時代でした。振り返ると、たとえ民間人同士でも「非国民」と一度断罪されれば、全く反論が許されない空気になっていました。
そんな空気は、敗戦で一変します。満州に旧ソ連軍が攻め込んできました。両親と生まれたばかりの弟と逃げました。逃げる最中、赤ん坊の弟を何度も疎ましく思った自分が嫌になった。船に乗って日本に引き揚げる時、米国が支給したパイナップルの缶詰のおいしさを忘れられません。「鬼畜米英」がくれたわけですから、価値観が百八十度変わりました。
敗戦を経験し、何事にもうたぐり深くなりました。言葉を額面通り受け取らず、一歩掘り下げて様々な解釈をする。例えば、「氷が溶けたら何になる?」 「春になるね」といった、常識から外れた発想を好むようになった。それで脚本家になれたのかもしれません。
■説明尽くす弊害
最近、テレビドラマやバラエティー番組でナレーションや回想場面を多用し、全てを説明し尽くす傾向が気になっています。僕がドラマを執筆する際は、3割部分は余白として残し、視聴者の想像力にゆだねるように心がけてきました。わかりやすくし過ぎる弊害によって、考える力や想像力を奪われている気がしてなりません。
ネットの普及が拍車をかけています。疑問を検索すれば、すぐに答えが出ると思い込んでいる人が若い世代を中心に多い気がします。世間に流布する言葉をうのみにして疑わず、自身の思考で咀嚼(そしゃく)しない空気が、安易な改憲論議の背景にある気がしています。
いつの時代も戦争で一番傷つくのは最前線の若者です。よく考えれば、戦争を仕掛けるのは時の政府です。一部の指導者が国民に被害者意識を植え付け、戦争に駆り立てる。人間は防衛本能があるから身を守るために攻撃をしたくなる。だから根は深い。
グローバル化によって経済の相互依存が進み、国境を超えた文化交流も活発な今、戦争には全く合理性がありません。政治に求められているのは「武力」ではなく、「外交力」です。今は居丈高な方が人気が出るのかもしれませんが、質の高い妥協ができる「大人のしたたかさ」が、政治家の真骨頂のはずです。我々も地味な政治決着に意義を見いだす冷静さと、知性が求められています。
日本国憲法の草案づくりにかかわり、男女平等の概念などを盛りこんだベアテ・シロタ・ゴードン氏は生前、日本国憲法について「アメリカの憲法よりずっと優れています。自分の持ち物より、もっといいものをプレゼントするとき、それを『押しつけ』というのでしょうか」と語っていました。
平和憲法の理想主義は、いまだに色あせていません。万が一、大量殺戮兵器が戦争で使用されれば人類は絶滅する恐れさえある。
「戦争放棄」 「主権在民」 「基本的人権の尊重」などの理念を土台に民主主義と平和の防波堤として機能している憲法を、空気が変わっても守り抜き、大切なバトンとして子孫に渡さなければならないと思っています。人間はだれもが歴史の中継ランナーですから。
(聞き手・古屋聡一)
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