鎌倉 大巧寺 2016-06-01
*六月 茨木のり子
どこかに美しい村はないか
一日の仕事の終りには一杯の黒麦酒
鍬を立てかけ 籠を置き
男も女も大きなジョッキをかたむける
どこかに美しい街はないか
食べられる実をつけた街路樹が
どこまでも続き すみれいろした夕暮は
若者のやさしいさざめきで満ち満ちる
どこかに美しい人と人との力はないか
同じ時代をともに生きる
したしさとおかしさとそうして怒りが
高い鼻に胸でも病んでいるらしい
鋭い力となって たちあらわれる
(第二詩集)『見えない配達夫』飯塚書店刊 1958年11月
(初出 1956年6月21日『朝日新聞』)
詩人32歳
詩人茨木のり子の年譜(4) 1956(昭和31)30歳 翌年、同人誌「櫂」解散 ~ 1958(昭和33)32歳 第二詩集『見えない配達夫』刊行
芳賀徹「六月のユートピア ー 茨木のり子の詩一篇」
(『みだれ髪の系譜』 芳賀徹著 講談社学術文庫)
茨木のり子の詩にはなよなよしたところがない。甘えがない。人への、男への、あるいは自分への甘ったれがない。むしろ、そんな女々しさや、うじうじしたものがもしあなたにあるなら、私の詩で一風呂浴びて、しゃっきりとして出直していらっしゃい、とでもこの女流詩人は言っているかのようである。
それならば、彼女の詩は応援歌か、メーデーの歌のようなものか。この詩「六月」には、いくらか、どこか、そのような響きがないでもない。彼女の理想主義が底に強く流れているからである。しかし、この作に限らず彼女の詩は、もちろんそんな野蛮な、粗野なものではない。ポパイのように力こぶを見せて、ほうれん草を喰(くら)うなどというものではない。
詩人臭く凝った難解な語彙や言いまわしを使うのでもなく、繊細ぶるのでもない。平明で、鮮明で、立ちすがたがまことにすっきりとしている。しかも読む者の心臓をまっすぐに打って、そこに新たなすこやかな鼓動を打ちはじめさせる。知・情・意がおのずからなバランスをとって、ユーモアもたたえてしなやかなからだを弾ませている。それが、茨木のり子の詩の世界だと言おうか。
この「六月」もほぼそうである。
(略;詩の引用部分)
作者の第二詩集『見えない配達夫』(昭和三十三年)に載せられた一篇である。同詩集でこの作と並んでいる「わたしが一番きれいだったとき」などとともに、よく高校国語の教科書に選ばれて載っている。それにふさわしい、いい作品ではなかろうか。
どこかに美しい村はないか
・・・
どこかに美しい街はないか
・・・
どこかに美しい人と人との力はないか
・・・
と、詩人は三連のそれぞれの冒頭の行で繰返し問うている。自分に向かって、読者に向かって、男の声のような強い調子で。 - 「どこかに」は本当に人にたずねるような尻上りの口調で読まれ、次に三度同じ「美しい」が、五音であることもあって際立ってはっきりと強く発音されて、そこでわずかに息を切り、「村」「街」「人と人との力」とつづいてゆくのであろう。「美しい」が大事なのである。それはただの「いい」でも「すてきな」でも「立派な」でもない。真・善・美を兼ねそなえている欲張りな「美しい」であるらしい。だから、これは堀辰雄の信濃追分の「美しい村」でもなく、佐藤春夫の「美しい町」でもないらしい。疑問詞の「ないか」も、「ないのか」や「ないだろうか」の皮肉や逡巡を含まず、ぶっきらぼうなほどに、男まきりに、直截である。そしてその問いかけのショックによって、夢想でもある理想の、理想でもある夢想の土地の映像をよびおこし、くりひろげてゆく。
第一連では、それはどこか異国の、贅沢ではないが豊かな、秩序ととのって安らかな、農村の情景である。「黒麦酒」とか「ジョッキ」とかの語が、それが日本ではないことを語っいる。どぶろくでも「ワンカップ大関」でもないのた。どぶろくの男どものうしろめたい猥雑も、「ワンカップ大関」のせっかちでケチな陽気さもここにはない。「男も女も」平等に一緒に、堂々と、ゆったりと、「大きな」重いジョッキを呑み干すのである。「一日の仕事の終りには・・・」というから、そして題名にいうように一年でいちばん日の長い「六月」なのだから、あたりにはまだ明るい夕映えも残っているのだろうか。彼らは入口に「鍬(くわ)を立てかけ鎚を置」いて、おそらく仕事着の埃もはたいて、どっしりと、席についたのだろう。エチケットを破ることが親近感を表わすエチケットであるような、日本の酒場とはちがうらしい。「鍬」や「籠」が、それぞれに男女の耕作や収穫の仕事を象徴していることは、いうまでもない。
農耕という、大地の上の、自然のリズムに従った肉体労働。それを一日果したあとの大きな安らぎと充足感。ことさらでない、当然のこととしての男女の平等。彼らが坐った大きな分厚い木のテーブルや彼らの大きなジョッキのように、こせつくことのないずっしりとした仕種(しぐさ)と時間の流れ - それらが、この詩人の「美しい村」に託した価値なのであろう。
第二連では、それはまたどこか遠い国の、ひろびろとして、夕暮れは「すみれいろ」に光るという都会である。「街路樹が/どこまでも続き・・・」などという町が日本にはあるだろうか。「食べられる実をつけた街路樹」というのも面白い。戦争中のあの飢餓感を知る世代に属する作者の、いつも豊かに食べもののあることへの願いの言葉か。昔からどこの国でも子供たちが夢みてきた「お菓子の国」の映像が底にひそんでいるのか。いずれにしても、赤い、あるいは黄色い木の実が棄蔭に光る街路樹のイメージは、豊かで、香ぐわしく、美しい。詩人は自覚していたかどうかわからないが、ここにはゲーテ作森鴎外訳「ミニヨンの歌」(「於母影」 明治二十二年)の -
レモンの木は花咲さくらき林の中に
こがね色したる柑子は枝もたわゝにみのり
青く晴れし空よりしづやかに風吹き・・・
につらなるものがあることは、確かである。ただし、「六月」という題名が、もし詩全体をくまなく支配しているとしたら、ここはあのルビーのように赤い桜んぼの実をならせた街路樹なのであろうか。
その街路樹の果てから「すみれいろした夕暮」がひろがってくる。第一連でも「一日の仕事の終り」の夕暮れの情景であった。この第二連の「美しい街」にも、紫に薄い紅のにじんだ六月のさわやかな夕暮れがひろがるのである。
すると、それとともに、その「夕暮」のなかに低い潮騒のように満ちてくるのが「若者のやさしいさざめき」だという。June bride(六月の花よめ)という言葉さえあるではないか。西洋では、ローマ以来、六月は結婚の保護者・女神ジュノーの月、それゆえ「六月の結婚はしあわせ」(June marriages are happy)と言いつたえられてきた。「美しい街」の若者たちは、この六月の澄んだ「すみれいろの夕碁」のなかに、すこやかにやさしい愛をささやくのである。
こうして、ここまで来ると、題名の「六月」のイメージがようやくわかってきたような気がする。それはすぐに五月雨や梅雨を思わせる日本の伝統的な六月(陰暦五月)の像ではない。その湿潤さのない、「黒安酒」が渇いた喉にしみてうまいhigh summer(盛夏)の六月、日は長く、緑はようやく濃く、麦は黄金色に稔って収穫(とりいれ)に忙しく、桜んぼは赤く熟して若者たちが恋から結婚へといそぐ六月 - そのような北半球の中緯度以上の、日本ではないどこか異国の、「美しい村」「美しい街」の六月に行って住むことを、一九五〇年代半ばすぎの日本の若い女流詩人は夢みたのであった。
そうしてみると、第三連は、にわかにあまりに道徳的で、第二連までのそれなりに心をそそる美しい映像のふくらみを、狭く固く抑えこんでしまうのではなかろうか。茨木のり子が余計な気どりをせずにストレートにものを言う詩人であることはいい。だがこの第三連では、読む者の想像力に訴える具象的イメージは一つもなく、知・情・意の「意」のみが強く出すぎたきらいがある。わずか三連十二行の詩のなかで、少しせいて露骨に「テーゼ」を出しすぎたのではなかろうか。やはり、メーデー・ソングになりかけたのではないか。
そのために、第三連では語法もいささかあやしく、茨木のり子にあるまじく不鮮明である。「美しい人と人との力」は「人と人との美しい協力」の意味であろうが、「どこかに」と問うのに対しては、「村」や「街」にくらべ長ったらしすぎて、弱い。二行目「同じ時代をともに生きる」も、要するに「セカイヲツナゲ、ハナノワニ」の意であろう。だが、これももって廻りすぎて(また、前の行にかかるのか、次の行にかかるのか、あいまいで)訴えが弱い。三行目「したしさとおかしさとそうして怒りが」は、それぞれの語句も、その並べ方も面白い。友愛と、とらわれのない笑いと、なにか共通の理想のための義憤、との意味である。だが、最後の行で、それらが一つになって「鋭い力となって たちあらわれる」となると、ついにあまりにも抽象語が重なりすぎて、この第三連は崩れかかる。各連最終行の連体形(「かたむける」「満ち満ちる」「たちあらわれる」)は、前の二連では、それなりに弾力をもって跳躍して第一行の「美しい村」、「美しい街」にかかってゆくことができたのに、この最終連では第二行の連体形にさえぎられたこともあって、その力を失ってしまった。
だが、それでも、一九五〇年代の日本詩人としては、こう言わざるをえなかったのだろう。また、こう言えば、彼女の意は、当時彼女の詩を読むほどの人にはすぐ伝わったのである。そのような歴史的な回顧の展望をも、若干はこの詩に加える必要があるだろう。日本人が敗戦後の悲惨と空腹と失意ととまどいからようやく立ち直って、身はまだ貧しくとも、平和のなかの安息と豊かさと正義とを求め、その理想になお敏感に反応しながら懸命に働いていた時代、そしてその理想をすでに実現した国が世界のどこかにはあるはずだとまだ思っていた時代 - 茨木のり子はこのぎごちなくても切実で、そのことが美しい詩のなかに、そのような時代への証言を刻みこんだと評すべきであろう。しかも、いまもなおこの詩には、一九五〇年代とはおそらく別な意味で、私たちの身のまわりを顧みさせ、さらに遠くへと想いを馳せさせる力があるのではなかろうか。
細見和之「茨木のり子の全人性」(『別冊文藝「茨木のり子」』)
(略)
茨木の「六月」に登場する「村」もまた、そういう流れとけっして無縁ではないだろう。ある種のコミューン志向をここに聞き分けないわけにはいかないかもしれない。それでいて私は、茨木の「六月」に、一九五〇年代から六〇年代にかけての時代動向にはとうてい還元されないものを感じる。
否定的に言えば、所詮、都会で比較的裕福に暮らしている人間がふと夢見たイメージに過ぎない、ということになるのかもしれない。「食べられる実をつけた街路樹なんてあるわけがない。百姓の苦労を思い知れ!」と罵声のひとつだって飛ぶかもしれない。しかし、この詩のもつ、それこそ空想社会主義的な流れを汲むような「豊かさ」は、否定できないのではないか。この詩を読めば誰だって、そうだ麦酒といえば黒麦酒だと、ホップの濃い匂いに包まれるに違いない。とりわけ、三連目、「したしさとおかしさとそうして怒り」という言葉のならびには、社会運動的な場面で私たちが笑いがちだったものが指摘されていて、私にはいまでも印象深いのた。
茨木のり子の、そういう時代を超えた特質 - 。ようするに、それは茨木のもつ全人性のようなものから発しているのではないか、と私は思う。「全人性」というのは、ここで勝手に私が使っている言葉で、とくに誰かの思想や表現を借りたりしたものではない。ひとがこの世界で生きていて感じる悲しみ、喜び、怒りといったものを、ざわめて個人的なものから社会的なものにいたるまで、その都度きちんと受けとめ表現できる自然な能力のようなものだ。能力といっても、努力して身につくようなものではないのかもしれない。その個人の生まれもった資質、成育環現、社会状況などが微妙に絡み合ってできあがるものとしか言いようがなくて、私にはそれができない、あなたにもそれができない、などと悔やみ合ってみても仕方がないことなのかもしれない。それでも、現にそのような能力を発掘している個人の
仕事にふれることは、けっして無駄ではないはずだ。
(後略)
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