江戸城(皇居)東御苑 ぼたん(諏訪の茶屋近く)
2014-05-01
*昭和16年1月10日には、
「墓石建立致スマジキ事」などを簡条書にした遺書を作り、従兄弟の杵屋五叟に送る。
荷風の憂愁は日増しに深くなる。
昭和17年6月20日
「午後町會の役員来りわが家防火設備をなさゞる事につき両三日中警察官同行にて重ねて来り、その時の様子にて罰すべしと言ひて去りぬ。この頃町會の役員中古きもの追々去りて新しき者多くなりし由。その為この後は偏奇館獨居の生活むづかしくなるべき様子なり。いよいよ麻布を去るべき時節到来せしなるべし」
都会にはしょせん隠れ家などあり得ないし、隣組組織が強化されていくときには、アウトサイダーの気ままな暮しなど許されない。長年住みなれた偏奇館での暮しの先行きに荷風は不安を抱き始める。
昭和18年9月9日
荷風は上野動物園の動物が薬殺されたことを記す。
「上野動物園の猛獣はこの程毒殺せられたり。帝都修羅の巷となるべきことを豫期せしが為なり」。殺されていく動物たちに、あるいは、国民の姿を重ね合わせたか。
この年10月、学徒出陣の壮行会が神宮外苑競技場で開かれ、12月には文部省は学童疎開の促進を決めている。
12月31日
「今秋國民兵召集以来軍人専制政治の害毒いよいよ社會の各方面に波及するに至れり。親は四十四五才にて租先伝来の家業を失ひて職工となり、其子は十六七才より学業をすて職工より兵卒となりて戦地に死し、母は食物なく幼児の養育に苦しむ。國を挙げて各人皆重税の負擔に堪えざらむとす。今は勝敗を問はず唯一日も早く戦争の終了をまつのみなり。然れども余窃に思ふに戦争終局を告ぐるに至る時は政治は今より猶甚しく横暴残忍となるべし。今日の軍人政府の為すところは秦の始皇の政治に似たり。國内の文学藝術の撲滅をなしたる後は必づ劇場閉鎖を断行し債券を焼き私有財産の取上げをなさでは止まさるべし。斯くして日本の国家は滅亡するなるべし」
終戦2年近く前に、荷風は、暗い思いで大日本帝国滅亡を予見している。
文明批判者荷風の醒めた目だろう。
しかし、「日蔭の芸術」の荷風には、現実にはなんらすべきことはない。
ただ「日蔭」へ「日蔭」へと後退していく他はない。
そして最後にはその後退していく場所も失なわれてしまう。
昭和19年3月31日(「日乗」のなかでももっとも悲痛な日)
この日、荷風のオペラ「葛飾情話」を上演した浅草オペラ館がついに閉館。建物疎開の対象となり取り壊されることになったためである。
この日の夕刻、荷風はオペラ館最後の日を見るために浅草へ出かけた。
8時過ぎに最後のレヴューが終り、客が帰る。館主田代旋太郎が一座の男女を集めて別れの挨拶をする。それに答えて長沢という楽屋頭取が答辞を述べる。話をしているうちに感きわまって涙声になる。つられて男女の芸人およそ4、50人がいっせいに泣きはじめる。こうした様子を見ているうちに荷風もまたもらい泣きしてしまう。涙は帰り道にもとまらない。荷風にとって「最後の別天地」がなくなったのである。
「同顧するに余の始めてこの楽屋に入込み踊子の裸になりて衣裳着かふるさまを見てよろこびしは昭和十二年の暮なれば早くも七年の歳月を経たり。オペラ館は淺草興行物の中眞に淺草らしき遊蕩無頼の情趣を残せし最後の別天地なればその取払はるゝと共にこの懐しき情味も再び掬し味ふこと能はざるなり。余は六十になりし時偶然この別天地を発見し或時は殆毎日来り遊びしがそれも今は還らぬ夢とはなれり。一人悄然として薬屋を出るに風冷なる空に半輪の月泛びて路暗からず。地下鐡に乗りて帰らんとて既に店を閉めたる仲店を歩み行く中涙おのづから湧出で襟巻を潤し首は又おのづから六區の方に向けらるるなり」
「オペラ館楽屋の人々は或は無智朴柄。或は淫蕩無頼にして世に無用の徒輩なれど、現代社會の表面に立てる人の如く狡猾強慾傲慢ならず。深く交れば真に愛すべきところありき。されば余は時事に憤慨する折々必この楽屋を訪ひ彼等と共に飲食雑談して果敢き慰安を求むるを常としたりき。然るに今や余が晩年最終の慰安處は遂に取払はれて烏有に帰したり。悲しまざらんとするも得ぺけんや」
65歳になろうとする荷風が、店閉まいをした仲見世をひとり歩きながら消えゆくオペラ館のことを思い涙を流す。
玉の井がそうだったように、しょせんは傍観者だった荷風にとって、オペラ館もまた一時の別天地でしかなかったことは確かだろう。たとえオペラ館が残ったとしてもいつかは荷風のほうが立ち去ったかもしれない。
それにもかかわらず日中戦争が拡大していくなかでオペラ館は荷風にとって”もうひとつの玉の井”になった。そこに行けば、瞬時、知識人としての自分を忘れ、かりそめの自由にひたることが出来た。しかも老いの自覚を深めているいま、この戦時下に、また新たな「別天地」を求めることも出来ないだろう。
もはや荷風には後退していく場所がない。
この夜の涙は、単に感傷の涙という以上に、心底の悲嘆の涙であったのだろう。
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