2015年2月7日土曜日

野口冨士男『わが荷風』を読む(10) 「5 麻布十番までの道」 (その2終) : 「『おかめ笹』では翰(主人公)を当時としては最下級の花街であった麻布十番へ追い詰めるまでにその無慙さをエスカレートしたとき、ついに花柳小説としての限界・・・最後の壁に衝き当ってしまった・・・。その先には、もはや『つゆのあとさき』から『ひかげの花』に至る世界しかなかった・・・。」

北の丸公園 2015-02-06
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 「・・・彼の年譜をみておく・・・。明治四十一年七月に帰朝した彼は同年秋に柳橋芸者=小勝(鈴木かつ)となじんでいるばかりか、翌四十二年正月から十一月ごろまで浜町不動新道の私娼=蔵田よしとまじわったいっぼう、新橋=新翁家の富松(吉野コウ)と四十二年夏から翌年九月ごろ彼女が落籍されるまで情をかわした。重層的愛慾生活がおこなわれたわけである。富松のことについては『きのふの淵』にくわしいが、腕にたがいの名(荷風の場合は《こうの命》)を刺青し合ったという逸話をのこしている・・・」

 「つづいて四十三年六月に登場するのが新橋巴家の八重次(内田ヤイ)こと後年の舞踊家=藤間静枝(のち藤蔭静樹)で、彼女との仲は大正四年までつづいていったん中断後、大正九年から十一年まで復活状態にはいっている。

 そして、荷風にはその間に明治四十三年二月から大正五年三月に至る六年間にわたっての慶応義塾大学文学科教授と「三田文学」主幹という生活がはきまり、大正元年九月には本郷湯島の材木商=斎藤政吉の二女=ヨネとの結婚(二年二月離婚)、翌年一月には父=久一郎の死、三年八月には市川左団次夫妻の媒的で内田ヤイと再婚(四年二月離婚)という事態が生じている。これを客観的にみれば、父は死ぬ、離婚はした、あとは何をしてもよいという状況に彼はおかれることになったわけである。」

 「そういった体験のなかからつむぎ出されて『新橋夜話』として一括された諸篇のうち、たとえば『松葉巴』では神田明神下の花街=講武所の小玉という芸者がヒロインになっているように、その背景はかならずしも新橋のみにかぎられてはいない。・・・吉田精一の『荷風と女たち』によれば、《「短夜」「昼すぎ」わけても「風邪ごゝち」、随筆「妾宅」などは、いずれも八重次をモデルにした》ものであるという。・・・」

 「また、『新橋夜話』一連の作品群は、背景ばかりでなく、その内容においても同一傾向のものばかりが蒐められているわけではない。大きく分ければ抒情的ないし情緒的な傾向と、リアルな傾向の二種にしぼられるかとおもうし、後者のなかには滑稽味をおびたものすら混在していて、『風邪ごゝち』、『松葉巴』、『短夜』、『昼すぎ』と『見果てぬ夢』などが前者に属し、『掛取り』、『色男』、『名花』、『五月闇』、『浅瀬』などが後者の部類に振り分けられる。そして、私が本章の冒頭に近いあたりで、彼の花柳小説に対して《花柳情緒に陶酔する感受性がすでに磨耗してしまった地点》で書きはじめられたと先まわりして指摘しておいたのは、この場合の後者に該当する。・・・」

 「しかし、それ以後の作品では後者の傾向がいよいよ濃密となって、前者の傾向はいちじるしく衰退するばかりか、やがては無に近い状態にまで変容していくことになるのだが、ここで彼の花柳小説とよばれる四作品の初出年月をみておくことが必要になる。
1、『新橋夜話』 明治四十三年一月
2、『夏すがた』 大正四年一月
3、『腕くらペ』 大正五年八月
4、『おかめ笹』 大正七年一月

 『夏すがた』は書きおろしとして出版された直後に発禁となったため、私も他の大部分の読者と同様に敗戦直後の昭和二十二年三月に扶桑書房から上梓された・・・」

 「荷風ほど、後日になってから自作をいじりまわす作家はめずらしい。日記までひとたび公刊したものを改訂するなど、その例のさいたるもの・・・
・・・岩波書店版「荷風全集」第六巻の『後記』をみると、『腕くらべ』に関しては次のように記載されている。

《一九一六年(大正五)八月発行の「文明」第一巻第五号から一九一七年(大正六)十月発行の第十九号(第二巻)へかけて、連載十三回をもって打切った。そのかん、第十四号(第二巻、一七年五月)と第十八号(同年九月)においてだけ休載だった。
 そのご存分に朱を加えて、一九一七年(大正六)十一月十三日に改稿を終え(『断腸亭日乗』巻之一・其月日)、十二月、その初版を十里香館の私家版「別刷五拾部限」として知友に頒った。
あくる一九一八年(大正七)二月、この私家版の紙型にもとづき、およそ一万数千語を省略したものを、十里香館版として新橋堂から発売させた。流布本の初版である。さらに十月、この十里香館版を京橋堂から再版発売した。以上、三本は、ほぼおなじ装帖である。こえて一九二〇年(大正九)二月、同一紙型による流布本第三版が、装帳をやや新たにして春陽堂から刊行された。この本文がいくらか修訂されて元版全集第五巻(一九二一年七月)におさめられ、さらに多少の加筆のうえ、重版全集第五巻(一九二五年六月)に収録された。流布本の定本といっていい。》」

 「・・・さきに私が『新橋夜話』中の諸作を二分割した後者 - リアルな傾向は夏すがた』、『腕くらべ』を経たのち『おかめ笹』までエスカレートする。・・・」

 「通常『おかめ笹』を取り上げるばあい、『腕くらべ』の新橋という一流地に対して、二流以下の富士見町と白山が舞台になっていることが挙げられるし、それはその通りに相違ない。が、私としては、荷風が『腕くらべ』でも脇役の山井要と尾花家の次男坊=滝次郎を浅草千束町の銘酒屋まで追い落したように、『おかめ笹』では主人物である内山翰をついに麻布十番まで追いこんだとこうに注目したい。『夏すがた』でノゾキによる煽情という醜悪無慙な男女図をくりひろげた荷風は、『腕くらべ』で駒代と菊千代の衣類をはぎ取って裸体としたあと、『おかめ笹』では翰を当時としては最下級の花街であった麻布十番へ追い詰めるまでにその無慙さをエスカレートしたとき、ついに花柳小説としての限界という表現を避けるとすれば、最後の壁に衝き当ってしまったのである。その先には、もはや『つゆのあとさき』から『ひかげの花』に至る世界しかなかったのも、ある意味では当然であった。」

 「『おかめ笹』の末尾に、《この小説は大正四五年頃の時代を写したるものと御承知ありたし大正七年以後物価の騰貴人情の変化甚しければこゝに一言御断り致す也》という作者自身の附言が記されてあるが、石田龍蔵の『明治変態風俗史』をみると富士見町花街の開設は明治二十年、学生たちがたわむれにモンブランとよんだ白山は明治四十五年(大正元年)、麻布十番は翌大正二年であるから、『おかめ笹』の時代背景が《大正四五年頃》であるとすれば、翰は開設早々(白山は銘酒屋が変身したもの)の土地に足を踏み入れたわけで、この点でも荷風が『正宗谷崎両氏の批評に答ふ』のなかで《流行も亦既に盛を越した》から執筆したといっているのは、いささか事実に反しているわけである。」
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