2015年2月13日金曜日

「苦しむ人の痛み想像できるか」(フリージャーナリスト 土井敏邦 『朝日新聞』2015-02-11)

「苦しむ人の痛み想像できるか」(フリージャーナリスト 土井敏邦 『朝日新聞』2015-02-11)
53年生まれ。中東のほか、原発事故で被害を受けた福島県飯館村などを取材。主な著書に「占領と民衆-パレスチナ」「沈黙を破る」など。

 中東でパレスチナ・イスラエル問題の取材を30年近く続けています。フリージャーナリストの役割の一つは、組織ジャーナリストが入れない地域にも入って被害者たちの現状と痛みを伝えることだと思います。人質となり殺害されたとみられる後藤健二さんも同じ思いだったはずです。

 だからこの間、テレビも新聞も日本人の生死に関する報道で埋め尽くされたことに、私は強い違和感を覚えます。過去にも紛争地で日本人が巻き込まれるたびに似た報道が繰り返されました。2004年にイラクで高遠菜穂子さんらが人質となり、07年にはビルマ(現ミャンマー)の民衆デモを取材していた長井健司さん、12年にはシリアを取材中の山本美香さんが殺され、メディアはその報道一色になりました。

■国際感覚持って

 同じ日本人の生死に関心が集まるのは当然だとしても、報道がそれで埋め尽くされると、肝心の現地の実情が伝えられなくなります。例えば長井さんが亡くなったとき、その葬儀がトップニュースになる一方、ビルマで民主化を求めた僧侶らに激しい弾圧が行われていたことは黙殺された。ビルマ問題が「長井さん殺害問題」に変わってしまったのです。

 今回も後藤さんが本当に伝えたかったであろう、内戦に巻き込まれて苦しむシリアの女性や子ども、寒さと飢えに苦しむ何十万人というシリア人避難民のことはどこかへ行ってしまった。日本人の命は、ビルマ人の、イラク人の、シリア人の何千倍も重いのでしょうか。これは日本人の国際感覚の問題だと思います。

 私はジャーナリストとして、どうしたら遠いパレスチナの問題を日本人に近づけられるかとずっと悩んできました。国際感覚とは、外国のことばや文化に精通することだけではないと思います。言葉も文化も肌の色も違う遠い国の人たちと、同じ人間としての痛みを感じる感性と想像力を持つことができるかどうか。それはこのグローバル化の時代に、なおさら日本人に求められていることだと思うのです。

 だから私たちは現場へ行く。「あなたと同じ人間がこういう状況に置かれている。苦しんでいる。もしそれがあなただったら」と想像してもらう素材を人々の前に差し出すためです。

■萎縮は自殺行為

 紛争の現場に行くと、遠い日本では見えなかった、現地の視点が見えてきます。今回の事件の最中、積極的平和主義を唱える安倍晋三首相は、イスラエルの首相と握手をして「テロとの戦い」を宣言した。しかし「テロ」とは何か。私は去年夏、イスラエルが「テロの殲滅」を大義名分に猛攻撃をかけたガザ地区にいました。F16戦闘機や戦車など最先端の武器が投入され、2100人のパレスチナ人が殺されました。1460人は一般住民で子供が520人、女性が260人です。現地のパレスチナ人は私に「これは国家によるテロだ」と語りました。

 そのイスラエルの首相と「テロ対策」で連携する安倍首相と日本を、パレスチナ人などアラブ世界の人々はどう見るでしょうか。それは、現場の空気に触れてはじめて実感できることです。
 
 自民党の高村正彦副総裁は、後藤さんの行動は政府の3度の警告を無視した「蛮勇」だと非難しています。しかし政府の警告に従っているばかりでは「伝えられない事実を伝える」仕事はできません。悪の権化と伝えられる「イスラム国」。その支配下にある数百万の住民はどう生きているのか、支配者をどう見ているのか。それは今後の「イスラム国」の行方を知る上で重要な鍵であり、将来の中東の政治地図を占う上で不可欠です。現在は危険で困難ですが、それを伝えられるのは現場へ行くジャーナリストです。

 メディアが日本人報道一色になり、被害者を英雄や聖人にしたり、一転して誹謗中傷したりという形で視聴率や部数を稼ぐような報道をくりひろげている一方で、ジャーナリズムの危機が迫っているのです。私たちフリーにとっても大手メディアにとっても、安易な自主規制や萎縮はジャーナリズムの自殺行為になりかねません。
                              (聞き手 編集委員・稲垣えみ子)

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