2015年5月2日土曜日

沖縄問題の淵源には「廃藩置県の失敗」がある (対談 白井聡×佐藤優 『世界』2015.4臨時増刊) (その1) :  「これまでとは違った規模で沖縄独立論が出てきてもまったく不思議ではない」 「文化に政治を包み込んでいく形での自己決定権論議が重要」

沖縄問題の淵源には「廃藩置県の失敗」がある
対談 白井聡×佐藤優 (『世界』2015.4臨時増刊 - 沖縄 何が起きているのか)

しらい・さとし 文化学園大学助教。社会思想・政治学。1977年生まれ。早稲田大学政治経済学部政治学科卒、一橋大学大学院社会学研究科総合社会科学専攻博士後期課程単位修得退学。著書に、『永続敗戦論』、『未完のレーニン』、『「物質」の提起をめざして』など。

さとう・まさる 1960年生まれ。作家、元外務省主任分析官。外務省入省後、在モスクワ日本大使館、本省国際情報局等に勤務。著書に『国家の罠』『獄中記』『自壊する帝国』『人に強くなる極意』など多数。

アイデンティティの移行が示すもの

 - 二〇一四年の沖縄県知事選では、辺野古新基地建設を最大争点として、初めて保革の対決を越えて、オール沖縄という枠組みから翁長雄志知事が誕生しました。続く総選挙のあと、自己決定権を主張する沖縄と、強硬な安倍政権の対称性が明らかになりました。

 佐藤 沖縄は、過渡的で不安定な状態だと言えます。今後の方向性は、「自己決定権の再確立」へ動くことは確実ですが、どういう形で行なわれるのか - 現状の沖縄の枠内で行なわれるのか、あるいは道州制の方向で起きるのか、それとも分離独立の方向で起きるのか、あるいは道州制よりも進むけれども分離独立まではいかない連邦制に近い形になっていくのか、それが沖縄県民自身にもわからない。なぜならば、この問題は沖縄県だけで決められるのではなく、日本、それからアメリカの対応が大きな鍵となってくるからです。

 沖縄は常に、たとえば呼称においても「琉球」「沖縄」の間で揺れるように、日本との同一性が高い方向で向かう時期と、反対に、日本との差異を強調する方向で行く時期がありますが、いまは差異を強詞する方向にあります。

 仲井眞弘多前知事は、二〇一三年一二月二六日までは、保守の県政の中では最も沖縄県民に寄り添った知事だったと言えるでしょう。二〇一〇年四月二五日の普天間県内移設反対の県民大会に参加して、沖縄の基地負担について「差別に近い印象すら持ちます」と明言し、オスプレイの強行配備に対しては全基地閉鎖の可能性すら出てくると言っていました。

 ところが一二月二六日に、辺野古の埋め立てを承認します。あのような形での変化が出てきたのは何なのか。沖縄県民は、仲井眞さんに対する憤りはあるけれど、知事が沖縄人以外の日本人に「裏切者」と非難されることには、カチンとくる。それは、「本当に悪いのは、県民に寄り添ってきた知事を最終的に押し切って反対側に追いやった中央政府である」という事実から来る感情なのです。

 白井 私は、あくまで本土の日本人にとっての沖縄問題を考えてきました。『永続敗戦論 - 戦後日本の核心』(太田出版)の執筆中、「永続敗戦レジーム」と呼んでいたものが最もダイレクトに出ているのが沖縄だと気づきました。本土の日本人が永続敗戦レジームの本当の構造・本質を見ないで済むのは、まさに沖縄のおかげです。戦後の日本は、アメリカを受け入れざるを得なくなった。その際に、「アメリカ的なるもの」には二面性がありました。すなわち、「暴力としてのアメリカ」と「文化としてのアメリカ」です。前者のプレゼンスは、本土ではどんどん不可視化されていったわけですが、それは沖縄に「暴力としてのアメリカ」のほとんどの部分を引き受けさせたからです。こうして「暴力としてのアメリカ」が見えなくなったから、「アメリカはいつでもいつまでも日本を守ってくれる」という温情主義的妄想が生まれ、それを親米保守の政治家はもちろん、大手のメディアも必死に守ろうとしてきました。今日のアメリカは衰退のツケをできるだけ日本に回したいわけで、そのためには収奪も辞さないという暴力性を回帰させてきています。だから、日本が置かれている本当の姿が沖縄にこそあるのです。

 沖縄だけが、「暴力としてのアメリカ」を直視させられてきた。そういう場所だからこそ、いまの情勢を沖縄は客観的に把握することができる。二〇一四年の沖縄県知事選は、いま沖縄県が日本の中で政治的には最先端地域になっていることを示しました。私は永続敗戦レジームに終止符を打たない限り、日本に未来はないと言い続けてきましたが、それを打ち倒す努力が結集しないと、何も始まらない。ところが現在は、民主党が永続敗戦レジームのなかにとりこまれて全く対抗努力になっていないように、本当の意味での政治的な対立構造が成立していません。しかし沖縄では、それが先鋭的に可視化されている。

 仲井眞さんは県知事選で負けたあと、その引き継ぎ期間に重要な辺野古基地の建設に関する書類にサインをしました。残念ながら、仲井眞さんは永続敗戦レジームのいわば代理人に堕してしまったと思います。沖縄県知事選は永続敗戦レジームの代理人と、それを打ち倒そうとする勢力の一騎討ちだったと言えるでしょう。日本本土の政治対立の構造も今後同型になっていかなければならないと考えています。

 佐藤 確かに、仲井眞さんは永続敗戦レジームに飲み込まれていきました。しかし、考えるべきもう一つの要素は、沖縄県民のアイデンティティの変容です。沖縄県民のアイデンティティは次の四つに大別されます。

 第一は、自分たちを「日本人である=沖縄人ではない」として、日本人以上に日本人になって行動するタイプです。しかし彼らは、過剰な日本人性を強調せざるを得ない点で、実は沖縄に対する裏返しの強い意識が存在しています。

 第二は - 圧倒的大多数の沖縄人ですが -、あまり深く考えないタイプ。これはウクライナ紛争ともとても似ていて、東部ウクライナの人たちはそもそも、自分はウクライナ人かロシア人かなど特に考えていない。日頃はウクライナ人はロシア人の悪口を言っているけれど、外国人がロシアはとんでもない後進国だ、などというとウクライナ人が怒り出す(笑)。同様に、大多数の沖縄人は、強いて言うならば沖縄系日本人ですね。日本人だけれどもアイデンティティのどこかに沖縄があるという程度の意識だと思います。

 第三は、究極のところで沖縄人か日本人かの選択をせまられたら、沖縄人を選ぶタイプです。この認識は、中央政府の権力者的な沈黙に対して、自分たちが同胞とみなされていないのではないかという疑いから発しています。つまり、都合のいい時だけ日本人に入れられて、都合の悪い時は外側に迫いやられる、という事実が可視化されていると言えます。

 第四は、自分たちを琉球人であると考えるタイプ。日本人とは全く関係のない別の民族だという認識です。彼らは、当然、自己決定権を行使すべきであると考えます。

 挙げた四つのなかでは、二番目と三番目のタイプが圧倒的な多数です。しかしこの数カ月の間で、二番目から三番目へのアイデンティティの移行が起きています。つまり「沖縄系日本人」から「日本系沖縄人」へと軸足が移っている。私自身もその一人です。

 白井 なるほど。今後の沖縄を考える際に、アイデンティティの問題は避けて通れないですよね。私の見る限り、二番目から三番目へのシフトはもちろんのこと、四番目のタイプが増えてくるだろうと思うのです。実際、本土の側はそう仕向けるような仕打ちをしているのですから。

 佐藤 ゲルナーが言うように、産業社会とナショナリズムと資本主義は、パッケージです。彼の例をそのまま引用すれば、鉄板の中で同じように熱を加えているのに、一定の部分だけに常に熱が集まっている。耐エントロピー構造ができている。そういう状況においては、それに対応して独自のアイデンティティが出てくるのは当たり前です。

 したがって、中央がいくら平等だと強調したところで、あちこちに構造化された差別があるから、日本人が支配する本土に行きたくないわけです。その上で、可視化される形で国土の〇・六%の陸地面積の沖縄県に七四%の基地が集中している。それなのに、本土はわからないから、「触れてくれるな」ということです。それは、排外主義とは違います。

日本と沖縄の情報空間が違ってきている

 佐藤 沖縄県の新聞を読んでいて面白いのは、やはり日本語が違うと気づくことです。たとえば本土で「御礼参り」と言えば報復のことですが、沖縄の新聞では本来の感謝の意味で使っています。小さなことですが少しずつ差異が出ている。

 つまり、情報空間が変わってきているのだと思います。だからいま沖縄の本音に近いのは、沖縄と沖縄人の死活的利益に関わる事柄は沖縄人が決めるので、あなたたちは触れないでほしいというところでしょう。辺野古の基地、安全保障条約などの問題、そして沖縄が最終的に金で転ぶとか、本土の活動家が来ているとか、後ろで中国が動いているとか、その手の言説には反論する気も起きないので放置しているのです。

 沖縄では日本に対する無関心が強まっています。そして沖縄の若い世代にはネットで、「いまの沖縄は既得権益者の集まりだ」と言っている人がいますが、彼らは昔のような集団就職、あるいは高等教育を受けるためには親族を頼って本土に出て来ざるを得ないといった状況を知らない。つまり、逆説的なことに、沖縄県のなかで充足して自己完結しているから、日本人の差別性を皮膚感覚でわからないのです。彼らが日本に対する過剰な思いを持って日本に渡ると、さまざまな問題にぶちあたる。沖縄の保守系政治家から、沖縄にいるときは読売と産経を読んでいたけれど、本土に来たら全く読まなくなった、という話を聞きました。

 思ったよりも沖縄と日本が、相互に違う情報空間の中にいる。そしてそのことにお互いが気づきにくくなっています。

 - 本土の人は沖縄で何が起きているかに触れる機会は少ないし、沖縄の人は、沖縄の新聞に載っていることが本土の新聞には全然載っていないことを知らないと思います。

 佐藤 沖縄は、新報、タイムスを地域で回し読み、新聞をベースに議論の土台ができています。

 今回の選挙は、自民党はもちろん、オール沖縄のなかで共産党も大変な試練だと思います。共産党は、たとえば部落解放運動でもそうですが、差別を言いたがらない傾向が非常に強い政党です。だから沖縄との関係においても、差別は言わない。いままで革新陣営が保守に負けてきた理由は、保守は差別を語れるけれど、革新陣営は共産党が入ってくることによって差別について言及しにくくなり、沖縄人の琴線に触れられなかったのです。オール沖縄に入って翁長雄志さんを支援するということは、保守の翁長さんも変容するけれど、共産党も変容している。

 いま、リベラル派も変わってきています。いま沖縄にあるのは、大別すればナショナリズムなのですが、ポストモダンな状況をくぐり抜けた上でのナショナリズムというか、ナショナリズムには「悪いナショナリズム」と「うんと悪いナショナリズム」しかない、それを承知しているナショナリズムなのです。人権や啓蒙思想には権力性があることや、アジアの全体構造の中では沖縄も収奪する側にいるかもしれない、それも承知した上でのナショナリズムです。

 そして、それは目的論的ではなく、何よりもまず、いま目の前に迫った危機の解決を求めています。安保条約の廃棄、すべての基地の閉鎖という極端な話はしていないのであって、国土面積の〇・六%の沖縄に七四%の基地が集中しているのはおかしい、という単純な話です。仮に辺野古に基地を建て、嘉手納以南が返還されるとしても〇・二五%しか減らず、しかも嘉手納基地に匹敵する恒久基地が建てられるという見方さえある、沖縄は東京の中央政府に対して「こんなことは聞いていませんよ」と言っているのです。

 これまでは東京の政治エリートvs.オール沖縄の闘いでした。しかし近年、東京の政治エリート+全国紙、全国メディアが相手になってきている。もう少し事態が進めば、日本vs.沖縄の図式になってしまいます。

 沖縄の闘いは、おそらくは歴史認識が焦点化するでしょう。たとえば、いま沖縄で原本が展示されている琉球王国とアメリカ、フランス、オランダとの三条約は、琉球処分の国際法的合法性を問いかける深刻な歴史認識の問題をはらんでいますが、日本では完全にスルーされていますね。

 「琉球処分」というかたちで琉球国が日本の一部になったのは、民意を全く経ない「併合」だったのではないか。いま琉球国の問題が出てくるのは、「廃藩置県の失敗」を意味しています。それを沖縄が提起する形で、いまの辺野古問題への視座を提供している

 辺野古で、海上保安庁は適法に取り締まっている、と言いますね。確かに日本法に照らしたらそうかもしれない。しかしその前提を問わないといけない。我々はなぜ日本法に従わないといけないのか? そう沖縄は考えるわけです。ですから事態は非常に複雑になっています。

 白井 情報空間の違いについては非常に実感するところがありますね。私は「ヤフーニュース個人」というウェブ上のコラム欄を持っています。いままでそこに一〇本近く記事を載せましたが、そのうち、「沖縄」がタイトルに入ると、如実にアクセス数が伸びないのです。これにはちょっと愕然とします。ここまで歴然とした差が出るとは。沖縄問題が、日本国家の根幹に関わる問題なのだということを理解している人口が、あまりに少ないのです。

 佐藤 率直に言って本土では、沖縄ヘイト本 - 真実の沖縄の姿はこうであるというものしか売れないでしょう。

 一方、二〇一〇年に文庫化された大城立裕氏の『小説 琉球処分』(講談社文庫)は部数が多く出ましたが(四万五〇〇〇部)、その七割は沖縄県内で売れているようです。人口割で考えるならば、たいへんなベストセラーになります。沖縄に関する真面目なものがほとんど売れないのは、版元の資任ではなく、ひとえに情報空間の違いによるものです。使い古された用語ですが、内国植民地の姿が非常に鮮明です。

「独立」を煽る政府の無神経

 白井 沖縄県民のアイデンティティの移行のお話がありましたが、知事になった翁長さんに会わないなどの行為によって、日本政府がその方向に仕向けているとしか思えないような行動が目立ちます。

 佐藤 無意識のうちにやっているのでしょうね。安倍さんや皆さんには、沖縄で起きていることは理解不能なのです。

 私は外務省時代、東京の役人たちの「外交安全保障は中央政府の専管事項である」という理屈を目の当たりにしてきました。中央政府からみると、とにかく沖縄は、自分たちが拒否権を事実上持っていると勘違いしているのではないかと、見えているんですね。すると、そんな勘違いしているやつとは会う必要がない、となるわけです。

 そもそも知事は、日本の役所の序列では、非常にプロトコル的には低い。戦前においては任命制だから、内務省の課長程度の地位でしかないし、中央官庁には、「民意によって選ばれた知事」だという意識は薄いのです。むしろいままでの仲井眞さんに対しては、特別に自分たちのためにサービスをしてくれたから、そのお返しをしているという程度の感覚ですから、中央政府は結局のところ、沖縄県のことがわからない

 白井 構図的には、佐藤栄佐久元福島県知事と経済産業省との対立の構図を反復していますね。佐藤知事は、「原発立地自治体の意見・意向が原発政策に全く反映されないのはおかしい」という声を上げました。それに対する国側の反応はゼロ。原発推進は中央政府の専管事項だから、県知事に発言権などない、ということでしょう。ついには「こいつはあまりにもうるさい」と、国策捜査で逮捕。佐藤元知事が書いた『知事抹殺』(平凡社)のなかの原子力政策の無責任性を指弾する言葉は、3・11の発生を予言するものとなってしまいました。

 こういう過ちがあったのに、そこから学ぶ姿勢は存在しない。それが沖縄を独立の気運を高めています。しかし中央政府の振る舞いは、本土の人間の無関心を象徴しているように思えます。

 佐藤 その無関心は植民地の歴史を見ればごく普通ですね。朝鮮半島や満州における日本人のなかに、中国語や朝鮮語や朝鮮史を勉強しようとした人がどれくらいいたか。

 差別が構造化しているという話についても、たとえば原発などの別の差別構造と混同している面もあります。原発は容認するか否かを別として、地元の自治体も民主的な手続きによって選ばれた、選挙による同意の形をとっています。ところが沖縄では、今回の辺野古が初めてその形をとられそうになったので、それ以外の基地は民意は全く斟酌されていない。

 白井 しかし日本政府は、沖縄は独立してもいいという考え方かというと、いや、そんなことができるはずがないと高をくくっているんですね。

 佐藤 ちょうどモスクワの中央がバルト三国など独立できるはずがないと高をくくったのと一緒です。独立の動きは、る種の流れになってくると加速します。特に文化エリートの動きがものすごく重要です。

 先ほど触れた琉米条約、琉仏条約、琉蘭条約の意味も大きい。今回、三条約が沖縄に里帰りしていますが、それを外務省の外交史料館があっさり認めていることは、問題の深刻さをいかに理解していないかの証左です。次の段階で三条約原本の返還要求になってくるでしょう。

 この前まで沖縄戦が焦点になっていましたが、その後一八七九年の琉球処分が論点になってきた。いま、一八五四年の琉米通好条約の時点の関係が焦点化しています。するとその先は、一六〇九年の琉日戦争でしょう。薩摩の琉球入りが、国家間戦争だったという認識になってきます。

 白井 県知事選以前からいまに至る状況 - 辺野古で流血沙汰すら起きている - をみると、これまでとは違った規模で沖縄独立論が出てきてもまったく不思議ではないと思います。佐藤さんは、『佐藤優の沖縄評論』(光文社知恵の森文庫)で、二〇〇九年一一月の段階ですでに、今日の展開を推測されておられます。東京の政治が辺野古移設路線のゴリ押しに戻れば、「民主党とも自民党とも異なる独自路線」を取る沖縄党が生まれるだろう、と。翁長知事の誕生過程では、「オール沖縄」という形で実質的に沖縄党が生まれたとも言えます。それでも辺野古での建設強行路線はピクともしないから、ここからさらに進んで、自決・独立の方向へ行かざるを得ない気配が感じられる。かつては独立論と言えば「居酒屋独立論」だと言われてきました。酒の肴、憂さ晴らし程度の話で、本気ではないと。しかし、いま生じてきている気運は、こうした従来の雰囲気とは異なるもののように見えます。

 佐藤 革命や独立論は、必ず居酒屋やカフェのようなパブリックな空間から出てきます。だから、ソ連時代のモスクワには居酒屋や喫茶店はなかった。「居酒屋独立論」は正しい道程なのです。みんなが立ち寄って文句を言い、人民戦線の母体になるのは居酒屋です。問題は文化エリートです。独立のイデオロギーをつくることができる人が出てくるかどうか、が大切です。

 沖縄の場合、翁長県政の存在が、一定の歩留まりとなっている。もしも翁長さんが仲井眞さんのようなやり方に変質することになった場合、その瞬間において翁長さんは正当性を失うし、もう保守からは真の代表を出すことは無理だ、となるでしょう。あるいは日本国の選挙だったら我々の民意は代表できない、選挙はボイコットだとなるかもしれない。

 非常に気になるのは、海上保安庁の動きです。海保は沖縄ともっとも良好な関係で来て、トラブルなどこれまで聞いたことがありませんでした。ところが今回、海保がいかに暴力的な組織で弾圧の先頭に立っていたか露呈してしまった。これが、いざ中央からの命令が来たときの旧軍の記憶にも重なるのです。それから、海保は全国で人事をやるので沖縄県警やガードマンと違い県外の人の比率が高い。海上保安庁との問題は、日本に対する視線が悪化していることと表裏です。

沖縄は排外主義では行きたくない

 - あるテレビで「沖縄への差別」として辺野古工事強行を取り上げた際、コメンテーターたちが「東京にも起こり得る」と受け取ったことが印象的でした。現政権の強権的なあり方を我がこととして受け取るようになっているのかもしれません。
 
 白井 そのあたりは、原発政策がどのように推進されてきたのかとつながってくる話です。先ほど原発問題と基地問題の相違点、民主主義の形式的手続きを経ているかどうかという話が出ましたが、もう一つの違いはアイデンティティの問題と関わってくると思っています。昨年沖縄を訪れて嘉手納基地とその周辺を見て印象深かったことは、「基地との共生」「基地との共存」のようなスローガンが一切ないことです。基地に依存している現実もあるのに、だからといってそれと「共生」しようとは決して言わない。

 原発でも基地でも、嫌なものを押し付けられる背景には、明らかにマジョリティの日本人から差別されている構造があります。しかし、誰しも自分が差別されていると認めることはつらいことです。だから、原発立地自治体の人たちは、構造的差別を逆に肯定的なアイデンティティに転化してきました。「ここに原発があるからこそ日本の産業は成り立って、みんな幸せな暮らしができるんだ」、という風に考えて、原発という迷惑施設をある種の地域のプライドにしていったということです。原発立地自治体にみられるスローガンの類には、このような心理操作の形跡がうかがえます。こうした心理操作が生じた必然性は理解できます。しかし、福島であれだけの事故が起こったにもかかわらず、多くの原発立地自治体の首長選挙で原発問題が焦点にすらならないという現状はやはり異様だと思うし、その背景には、以上のような心理操作によって「原発を抱きしめて」きた過去があるのでしょう。

 では、沖縄の場合はどうなのか。沖縄に米軍があることによってこそ、日本の安全が、ひいてはアジアの秩序、世界の秩序が保たれている - という理屈をつくろうと思えばつくれないことはないでしょう。だけども、基本的に沖縄はそれをやってこなかった。同じように犠牲化されている地域だとは言っても、ここには大きな違いがあると思うのです。プライドとアイデンティティの形成構造が違うのだと思います。

 佐藤 「沖縄イニシアティブ」の人たちは、それをつくろうとしたのです。しかし、それは沖縄県民を納得させられなかった。それは皮膚感覚として全然違うからです。

 白井 沖縄で、基地負担をすることが沖縄の誇りである、という言説を生産する人たちは、現在はほぼいないと言ってもいいのですね。

 佐藤 沖縄に行って、その辺にいる人たちに基地について聞いてみるとします。基地に対して肯定的な答えが返ってきたとしても、それが本音とは限りません。人口の一%しかいない少数派の人間が、見ず知らずの本土の人間に本音を話すと思うこと自体がおかしな話で、内国植民地に対する鈍感さ以外の何物でもない。だから、東京でいま「沖縄の心を理解する」と言う人たちの理解は、「沖縄イニシアティブ」までにとどまるのです。日本には、カルチュラル・スタディーズやポストコロニアリズムとかの専門家はたくさんいるのだから、その辺の感覚はもう少し敏感でなければいけないと思います。

 白井 私は、カルチュラル・スタディーズとかポストコロニアリズムが流行した頃、ちょうど大学生でした。沖縄についての研究者が急速に増え始めた頃でもありました。率直に言って、私はそのことに対する違和感があったんですね。研究対象としてなぜ沖縄を選ぶのか、一向に伝わってこない場合もある。だから、流行っているからという研究動機も多かったのではないかと。

 それはともかく、研究の厚みが増してきたことは確かなのです。そこで問題になるのは、国民国家論以来、左派・リベラルは政治的な民族自決と結びつく形での民族アイデンティティの主張を苦手としていることです。だから、わたしと同年代か少し下の世代だと、松島泰勝さんの独立論に対して、批判的な人を多く見かける気がします。彼らは、こうした議論が沖縄アイデンティティを固定化する方向へ向かうことを危惧するのでしょう。かれらの多くはアイデンティティの複合性や混合性を称揚してきましたから、「琉球民族独立総合研究学会」のような方向性に対して警戒感を持つ。佐藤さんの言われたようなポストナショナリズム状況をくぐり抜けたナショナリズムだという認識がないですね。

 佐藤 そういう批判をする人たちは松島泰勝さんの『琉球独立論』(バジリコ)などを読んでいないのでしょうね。松島さんの発想は沖縄アイデンティティを固定化する旧来型のナショナリズムとは異なります。

 私は琉球王国との過去の記憶は非常に重要だと思うし、琉球語を復活するにおいては首里・那覇方言を中心とした公用語が必要だとも思います。必要なのは、日本と外交文書をつくるための琉球標準語です。そう考えると、私の方が松島泰勝さんよりも旧来型のナショナリズムに近い考え方をしていると思います。

 沖縄は、自己決定権を確立しても排外主義はやりたくないのです。一九八一年に出された川満信一さんの「琉球共和社会憲法C私(試)案」も「国」を極力避け「社会憲法」としたし、松島泰勝さんたちの考え方にも連邦制が入っています。

 カルスタなどを専門にしている学者さんの問題は、沖縄を扱っていながら沖縄の言葉を学習しないことです。地域研究は言語の知識なしに成り立ちません。それでいま沖縄が、「しまくとぅば(島言葉)」の日をつくった(沖鮒県条例第三五号)。それから翁長さんが那覇市長時代に力を入れていたのはハイサイ・ハイタイ運動で、那覇市の試験に琉球語を入れることになった。これは琉球語を話す意思を確認する重要な意味を持ちます。文化に政治を包み込んでいく形での自己決定権論議が重要になります。

(つづく)

沖縄問題の淵源には「廃藩置県の失敗」がある (対談 白井聡×佐藤優 『世界』2015.4臨時増刊) (その2終) : 沖縄は、「近代国家とは何か」を日本人全体に突きつけている / いまの日本の絶望的な政治状況下で、ある意味沖縄が唯一の希望にも見えます

「沖縄近現代史の中の現在」 (その1) (比屋根照夫 『世界』2015.4臨時増刊) : 「他愛心は人間の情の中でも最も高尚なるもので、劣等民族は他愛心が薄い。自己以外の民族を愛すると愛せざるとは直ちにその国民的品性の高低を測定する尺度になる。この点から見ると日本人はたしかに一等国民ではない」(伊波月城)

「甘えているのは本土」 - 「沖縄は基地依存」への反論 (「脱基地経済の可能性」前泊博盛(『世界』2015.4臨時増刊所収)) : 「国土の面積の〇・六%の沖縄で、在日米軍基地の七四%を引き受ける必要は、さらさらない。いったい沖縄が日本に甘えているんですか。それとも日本が沖縄に甘えているんですか」






1 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

「世界」の記事を取り上げてくださり、深謝いたします。松島氏の「琉球独立」を一読以後、沖縄のことが非常に気に書かる東京人です。幾重にも、日本の病巣が垣間見られる沖縄問題を他人事で済ませるわけにはいかないと思います。

それにしても、他者の心情や思想を思いやれない現在の日本人の劣化には驚かされます。

私自身は、琉球は斯様な日本から離れて、独立すべしと考えています。