2015年5月23日土曜日

嘉承2年(1107) 堀河天皇(29)没。 皇太子宗仁親王(5)践祚、鳥羽天皇として即位。 関白藤原忠実が摂政となる。 源俊明ら白河法皇近臣の台頭 白河の家父長権確立。 因幡守平正盛(清盛の祖父)に源義親(義家の次男)追討宣旨下る 

千鳥ヶ淵 2015-05-22
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嘉承2年(1107)
この年
・頃、イングランド、財務府開設。
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・アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ1世(武人王)、タマリーテとレリダ近傍の幾つかの城を占領。
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・ダニシメンド没後、抑留中のボードワンはモースル領主ジャワリの手に渡る。ジャワリはボードワンを釈放し同盟を申し入れる。
後、ボードワンはジャワリの圧力により、タンクレード(アンティオキア)よりエデッサの返還をうける。
ボードワンは、領地内のムスリム捕虜全員を釈放。一方、アレッポのリドワーンはモースルのジャワリに対する警戒をタンクレードに促す。
アンティオキア(タンクレード)・アレッポ(リドワーン)連合対エデッサ(ボードワン)・モースル(ジャワリ)連合、成立。
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1月8日
・スコットランド、エドガー王(33?)、エジンバラ城で没(1074?~1107、位1097~1107、23代、マルカム3世息子、未婚)。
次弟アレグザンダー(29?)を次王(アレグザンダー1世)に、末弟デイヴィッドを副官ならびにロージアン、ストラスクライド両地域統治者とする(ブリテン島中北部の広大な土地支配)。
アレグザンダー1世(1107~1124)は遺言通り、フォース湾から北部のスペイ川に河口至る中部・北部統治にあたる。
対イングランド友好関係(妹マチルダはヘンリ1世と、アレグザンダー1世はヘンリ1世庶子シビルと結婚)。イングランドの封建的家臣に連なり、1114年ウェールズ征服にも参加。
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1月16日
・若狭守源俊親らに昇殿を許す。
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1月28日
・陣定。若狭鈎文など議論(「中右記」)。
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2月11日
・地震あり。
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2月21日
・陣定で、「唐人」来航について定める(「中右記」)。
前年8月越前国が報告した「唐人」の措置決まる。
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3月
・ハインリヒ5世、1107年3月8日没ヴェルダン司教リュヒェル後継者を自ら任命(自己の諸権利を放棄しない事の表明)。
この時期、ハインリヒ5世、国内問題に追われイタリア遠征できず。ボヘミア、ハンガリで難局。ポーランド人の脅威。
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4月
・サン・ドニ、教皇パスカリス2世、フィリップ1世・ルイ6世と会談。
教皇、フランス王にハインリヒ5世への抵抗を要請。
教皇のフランス旅行中に、フランスとの叙任権に関する妥協成立(英国同様、国王は教権の叙任は与えない、司教位に付属する財産は引き続き譲与)。
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4月7日
・地震あり。10日にも地震あり。
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5月
・マルヌ、教皇使者とハインリヒ5世使者が叙任について交渉。
教皇、皇帝の主張を拒否、交渉決裂。
皇帝の主張:選挙の前に皇帝が任命、選出された聖職者は皇帝に叙任を懇請し忠誠と臣従の誓いを行う。
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5月23日
・前年から京中で飛礫(つぶて打ち)と呼ばれる石合戦が流行。死傷者が多くでたので検非違使に禁止令を出させる。
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5月23日
・トロア公会議。俗人叙任の禁止を更新。公会議後、教皇パスカリス2世、ローマに帰国。
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7月19日
・堀河天皇(29)、没(誕生:承暦3(1079)/07/09)。73代天皇。
皇太子宗仁親王(5)、践祚。鳥羽天皇。越前掾藤原有成らを蔵人に任じる。

摂政には関白藤原忠実がなる。
鳥羽天皇の母苡子(いし)は、閑院流藤原氏の実季の娘。実季も苡子も他界していたが、苡子の兄の東宮大夫公実が外伯父として摂政の地位を望んだという。
公実の主張は、天皇の外祖父でも母方の伯父でもない者が、御即位に際して摂政となった先例はないということ。
堀河天皇のもとでの関白であった忠実(師実の孫)は、堀河の外戚でも鳥羽の外戚でもなく、公実は、関白忠実がそのまま摂政となることを阻止しようとする。

この時、醍醐源氏の権大納言源俊明(としあきら)が、周囲の制止を振り切って強引な参院し、白河法皇に摂政人事の決定を迫ったという(「愚管抄」)。忠実にするように説得したわけではないが、結果として、前天皇堀河の関白をそのまま摂政にするという常識的な決定に落ち着く。

承徳2年(1098)、白河法皇は、閑院流藤原実季の娘苡子(いし)を、堀河天皇の女御として入内させる。
康和5年(1103)、その苡子が宗仁(鳥羽天皇)を産む。
苡子入内の時には実季は他界しており、苡子も産裾により没するが、公実はかつて堀河天皇の乳母であった自分の妻光子(こうし)を、再び皇子の乳母にする。
白河法皇の母茂子(もし)も閑院流の出身であり、鳥羽の践祚によって閑院流の外戚としての地位が確定する。

①院近臣の世策決定への関与、影響力が強まる
源俊明は白河法皇の院庁別当で、日頃から後見役として院の政務に深く関与していた。俊明ら兄弟は後三条天皇の側近くに仕え、兄の権中納言隆俊は記録所(記録荘園券契所(けんけいじよ))の上卿(長官)をつとめ、「陣中公事、一身奉行す。殆ど傍に人無きが如し。末代に於いて無双の卿相也(けいそうなり)」(『古事談』)とさえいわれている。

この俊明らの醍醐源氏と同じように政務の中枢に関与したの人物に大江匡房(おおえのまさふさ)がいる。匡房は文章道の家に生まれた学者であるが、その学識を高く評価されて、後三条天皇の皇太子時代に東宮学士(皇太子の教育係)となる。後三条の即位後は、記録所の運営に関わり、永保2年(1082)、弁官局(太政官の事務局)の左中弁ながら、右大臣の人選に際し白河天皇に進言を行ったという。この年、匡房はたかだか弁官局(太政官の事務局)の役人の左中弁にすぎない。

他に、藤原通俊も、「通俊、匡房などは近古の名臣也」(『古事談』)として白河から賞賛を受けている。通俊は、関白実頼に始まる小野宮(おののみや)流の藤原氏で、左少弁、右中弁、蔵人頭を経て権中納言となった。また、後三条天皇の蔵人頭であった同じ小野宮流の資仲も、宣旨枡(せんじます、後三条天皇が定めた公定枡)の制定を執行し、人事にも介入した。

②上皇の権威を高める
公実が外戚として摂政を望んでいたとため、忠実は、補任(ぶにん)の宣命(せんみよう、天皇の命を伝える文書)には「上皇の仰の由」(『殿暦』)を明確に記載せよと指示し、その宣命は「太上天皇乃詔久(だいじようてんのうののたまわく)」(『朝野群載』)と書き出される。この宣命によれば、摂関が上皇の権威によってその地位についたことを意味し、上皇の権威を高める結果となる。

③摂政・関白と外戚関係との分離、及び摂関を世襲する家としての摂関家の定着
摂関期には、摂関と外戚は、密接不可分であったが、後三条の即位によって関白に就任した藤原教通は、外戚ではなかった。その跡を継いだ頼通の嫡子師実も、後三条の外戚ではなかった。白河の場合は、妻の賢子が師実の養女となっていたので、師実はその間に生まれた堀河天皇の外戚、外祖父と言える。しかし、師実の子の関白師通や、その子の忠実は外戚関係ではない。
この外戚ではない師通、忠実に摂関の地位が、世襲され始めた。(外戚ではないにもかかわらず、道長の子孫である一つの家系に、摂関が世襲されることになった)

④王家における白河法皇の家父長権確立
白河法皇の孫・鳥羽天皇の即位で、白河の異母弟である輔仁の即位はさらに遠のいた。
幼帝即位後、法皇は内裏六条院に近い院御所に住み、輔仁勢力の動きを警戒して、源為義(義家の孫)や同光信(頼光の玄孫)らの武士に終日内裏警固を命じた。

永久元年(1113)、天皇に対する呪詛計画が発覚し、輔仁の護持僧仁寛(にんかん)と醍醐寺座主勝覚(しようかく)の童子千手丸(せんじゆまる)が流罪となった。仁寛は輔仁勢力の中心人物とされる源俊房(藤原頼通の養子源師房の子)の子であり、勝覚はその仁寛の兄である。
事件の真偽は不明であるが、この政治的事件によって、輔仁即位の芽は完全につみとられ、王家における白河法皇の家父長権が確立する。

この時より、実質上、院御所での会議が、陣定や摂関邸での会議、内裏の摂関宿所での会議の上に立つ、朝廷の「最高審議機関」になった。また、内裏の天皇のもとでの会議(内裏御前定や殿上定)が開かれなくなる。
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8月1日
・ウエストミンスター協約(ベック・ロンドン政教条約)批准。イングランドの聖職叙任権問題解決。
司教叙階に先だち王に臣従儀礼(大司教選任順序:土地寄進の代償として王に臣従。同僚聖職者が大司教に叙任)。
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8月23日
・堀河天皇57日御忌により、越前守藤原仲実が御誦経使として勧修寺へ派遣。
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10月
・ボエモン1世(アンティオキア公国ロベール・ギスカール長男)、タラントよりギリシアに出撃。ギリシア・ヴァローナ上陸、ドゥラッツォ攻撃、失敗。東ローマ皇帝アレクシオスに臣従し、タラントに帰国。
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10月12日
・進藤成家は鳥羽天皇の滝口に補任(「中右記」同日条)。
進藤氏は疋田斎藤系の修理少進藤原為輔に始まり、為輔の子成道は「方上四郎大夫」と称する。成家はその子。成家の子為範以降は代々検非違使左衛門尉などに任じられる有力な侍の家に成長。進藤氏は摂関家とりわけ近衛家に近侍し、為範の曾孫長範は丹生郡鮎川荘と近衛家領丹波国宮田荘(兵庫県西紀町)の預所。
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10月14日
・京都で大火。
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12月1日
・令子内親王を皇后とする。
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12月1日
・鳥羽天皇、即位。大将代に左中宮亮兼越前守藤原仲実がなる。
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12月19日
・源義親(義家の次男)、出雲の目代を殺害したかどにより、因幡守平正盛(清盛の祖父)に追討の宣旨が下される。

康和3年(1101)、源義家の嫡男で対馬守義親が、九州各地で人民を殺害し公物を押し取り、更に大宰府の命令に背いたとして、大宰大弐(大牢府の実質上の長官)大江匡房(後三条の代から仕える白河法皇側近の学者)に告発され解官される。
朝廷は追討使派遣を決めるが、父の義家に義親召還を命じさせる。しかし、義家が派遣した腹心の郎等豊後権守藤原資通が、義親に与して朝廷の追討使を殺害する。

翌康和4年、ようやく義親は隠岐に配流される。
そして、父の義家は、嘉承元年(1106)7月、京都で没する。
この年(嘉承2年)、隠岐に流されている義親が出雲に渡り、目代(国司の代理)と郎従7人を殺害し、公事物を奪い取る事件がおきた。
また、近隣諸国にも義親に同調する動きがあり、山陰諸国の国衙支配が動揺する。
ここで因幡守平正盛(清盛の祖父)が追討使に選ばれる。

出雲での義親の反乱に、隣国因幡の国守正盛の起用
前九年の役での陸奥守源頼義、延久2年(1070)の陸奥藤原基通の反乱での下野守義家、寛治7年(1093)の出羽平師妙の乱での陸奥守義綱などの追討使の例から考えると、不穏な動きのある国あるいは隣国には、軍事貴族を国守として配置する政策が存在した。
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12月21日
・越前守藤原仲実らに重任の宣旨を下す(「中右記」)。
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