2015年12月23日水曜日

永久6/元永元年(1118)1月 平清盛誕生。父は忠盛。母は白河院女房(祇園女御説、その妹説 白河法皇落胤説あり 清盛3歳の時没)。 清盛の成長と白河法皇独裁体制 (背景)武士の役割の増大

鎌倉・円覚寺 2015-12-16
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永久6/元永元年(1118)
この年
・宋、新興の金と結んで遼を挟撃し、宿願の燕雲16州を回復しようとして金に同盟を申し入れ。
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・バグダードのアッバース朝カリフ、アル・ムスタズヒル、没(位1094~1118)。アル・ムスタルシド、即位(位1118~1135)。  
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・カラーブリア・シチリア伯ロゲリウス2世、北アフリカ・イスラム諸都市への遠征開始(1118~1127)。北アフリカに橋頭堡を築く試みは全て失敗。
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・シチリア、ロジェ1世未亡人アデレード、尼僧院で没(帰国(1117年)の1年後)。 
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・ルッカ、自治都市の認可を取得。
中世後期、フィレンツェが抬頭するまでトスカナ地方一の有力都市として栄える。ルネサンス時代、一貫して共和主義的な寡頭政治を守る。
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・この頃、「ヘンリ1世の法」(法書)成立。
ローマ法、教会法、フランク法を参照しながら「アングロ・サクソン法」を主とする慣習法の註釈。
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・アランソンの戦い。ヘンリ1世とアンジュー伯フォルク5世の戦い、ヘンリ1世破れる。
アンジュー伯フォルク5世、メイヌ伯領を横断しノルマンディ公領に達する。
ヘンリ1世はメイヌ伯領・ノルマンディ公領境の町アランソンでアンジュー伯を迎撃。
アンジュー伯軍は、砦を築いて籠もり部隊を4つに分けて縦深陣を敷く。
ヘンリ1世は正面からアンジュー伯軍の砦に対面する形で王の甥が指揮する前衛と王自ら指揮する後衛の2陣を組んで布陣。
戦いはヘンリ1世軍の弓・クロスボウ支援下での攻撃で始まり、アンジュー伯は2度、騎兵100・弓兵200の小部隊で反撃。ヘンリ1世の攻撃が頓挫した時、ヘンリ1世の側面の森の中に潜むアンジュー伯の伏兵がイギリス軍を射撃ののち突撃、一撃でヘンリ1世軍を蹴散らす(丁度タンシプレの戦いと逆、但しヘンリ1世は捕縛されず)。
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・フランス、クレルヴォー修道院長(1115年建立)聖ベルナール、最初の娘修道院トロワ・フォンテーヌ修道院建立。
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・ピサの大聖堂完成(建設期間1063~1118年)。
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1月8日
・この日始まる御斎会・御七日御修法料の供進を諸国に命じる。越前には海藻55斤。
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1月14日
・教皇パスカリス2世、ローマ帰還。21日、没(位1099~1118、ラヴェンナ出身)。
24日、教皇ゲラシウス2世、即位(位1118~1119、ガエータ出身)。ローマ教会尚書院長、教皇ウルバヌス2世・教皇パスカリス2世の協力者。
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1月18日
・平清盛、誕生。父は忠盛。母は白河院の女房で清盛3歳の時没。「白河法皇落胤説」あり。

清盛の母は白河法皇身辺の女性で、法皇の子を身ごもったまま忠盛に下賜されたとも言われる。その子が清盛で、つまり彼は法皇の落胤と目される。
それに関係して、清盛の母を祇園女御もしくは彼女の妹とする伝承があるが、前者は事実ではなく、後者は根拠薄弱である。

『中右記』保安元年(1120)7月12日条に
「伯耆守忠盛妻俄に卒去すと云々。是れ仙院の辺也(あたりなり)。近日、京都の下人、旁(かたが)た夭亡(ようぼう)の聞えあり」(平忠盛の妻がこの日に没した)とある。
この女性が清盛の母であるとは断定できないものの、「仙院」(白河法皇)のあたりの女房であったことを考えると、清盛ののちの異例な出世から見てその可能性は高い。元永元年に出生したと見ることができる。

母の院女房
『源平盛衰記』 は、清盛の父は忠盛ではなく、白河法皇が祀園女御(ぎおんのにようご)との間に儲けたという説を記している。だがこの書は鎌倉末期以後の成立でもあり、そのままに従うことはできない。
近江の「胡宮(このみや)神社文書」に見える『仏舎利相承系図』もその点ついて触れているが、清盛の母は祇園女御の妹の女房であって、その女房が白河院の子を身籠もって忠盛に下賜され生まれたのが清盛であるとし、その女房の死後には姉の祇園女御の猶子となっていたとする。しかしこれもまた後世の記事であ。、当該期の記録から確かめられるものではなく、それがそのまま事実と認めるわけにはゆかない。

清盛の祖父・父がともに院の側近くに仕え、母も院の近くに仕えていて、院の側近くで生まれたのが清盛であったことから、のちの清盛の異例な出世とが結びつけられ、白河院の落胤説が生まれた。
だが落胤であることは、この時代にはむしろマイナスに作用することが多い。将来の皇統の後継者と見られ、反対勢力の監視にあい、その成長が阻まれることが多かったから。

天皇の落胤という記事をしばしば載せている『今鏡』はこう語る。
「清盛非蔵人などいひて、院の六位の殿上して、うるはしくはなさせ給(たまは)で、冠たまはりて、兵衛のすけになりたりしも、蔵人はなはかたきことと聞こえ侍りき。」
白河院はさほどに厚遇しておらず、蔵人にも任じなかったことがうかがえる。
『仏舎利相承系図』に見える祇園女御の妹を母とする場合は、祀園女御が妹の死後に清盛を育てたという理解である。

祇園女御について『今鏡』は次のように記す。
「白河殿(しらかわどの)と聞え給ふ人おはしましき。その人待賢門院をば養ひたてまつり給ひて、院も御娘とて、もてなし聞えさせ給ひしなり。その白河殿、あさましき御宿世(すくせ)おはしましける人なるべし。宣旨などは下されざりけれども、世の人は祇園の女御とぞ申すめりし。もとよりかの院の、内の局(つぼね)わたりにおはしけるを、はつかに御覧じつけさせ給ひて、三千の寵愛ひとりのみなりけり。ただ人にはおはせざるべし。」

祀園女御は白河院の晩年の思い人であって、女御の宣旨が下されはしなかったが、その寵愛のさまから女御と呼ばれ、また祇園に住んでいたことから祇園女御とも、白河殿とも称されていたという。
『中右記』長治2年(1105)10月26日条に、
この日に「院の女御」と称される人が祇園の南辺に堂を建立して供養したが、その「天下美麗過差(かさ)」のさまは人の耳目を驚かすものがあったという。

祇園女御が待賢門院を養っていたことは、『殿暦(でんれき)』永久5年(1117)10月15日条に
「院の祇園女御、同じく姫君、去る十日より精進すと云々」とあって、待賢門院の入内(じゆだい)の祈りのために精進しているという記事から知られる。
平氏の出世はこの祀園女御との関係によるものであると、『今鏡』は記している。

「かの白河殿とて祇園におはせしは、ゆかりまでさりがたく、院に思(おぼ)し召されておはせしに、始めつ方(かた)平氏の正盛といひし、参り仕うまつりければ、隠岐守などいひけるも、後にはしかるべき国々の司(つかさ)などなりたりけれど、なほ下北面(げほくめん)の人にてありけれど、その子より院の殿上人にて、四位五位の舞人などしけれ、」

正盛は早くからこの女御に仕えていたことからやがて受領を歴任するようになったという。
事実、祇園女御の養っていた待賢門院が女御になった時には、正盛や忠盛が政所の別当になっており、天永4年(1113)10月1日には正盛の建立した六波羅蜜堂において祇園女御が一切経供養を行っている。

この忠盛の女御への奉仕のさまは『古事談』の説話も伝えている。
白河法皇が全国に殺生禁断を命じていた時の話である。加藤大夫成家が鷹を使ったという噂が聞こえ、御所に召し出された。どうして鷹を使ったのかと尋問された成家は、「自分は忠盛殿の相伝の家人であって、祇園女御殿の食事に鮮鳥を差し出すことを命じられており、もしそれを欠いたならば、重科に処されることになる。源氏・平氏の習では、重科というのは首を切られることだが、勅勘ならば禁獄・流罪で済むので、命も惜しくあり、鷹を使ったのだ」と答えたという。

このように祇園女御に仕えるなかで、忠盛はその妹との間に清盛を儲け、清盛はその母の死後、祇園女御の庇護の下で育ったという説。

清盛の成長と白河法皇独裁体制
清盛の幼少期は白河法皇の独裁体制が固まった時代であった。
白河の長年の悩みであった異母弟の三宮輔仁(すけひと)親王が没し、その子の有仁(ありひと)が臣籍に下り(源有仁)、皇統は白河の流れに伝えられることになった。
また、待賢門院の入内問題を巡り不和となった摂関藤原忠実を退けその子の忠通を摂関に据える。
政策面では、殺生禁断令による山野河海(さんやかかい)への支配を強化し、また、荘園整理の方針を転換して、宣旨や院庁下文などによって荘園の設立を認めるようになる。

当初、白河は古代国家復興を目論み、旧儀を復興し、旧来の官僚制維持を図っていったが、新たな時代の動きに対応するため、法皇を頂点とした主従制的関係を形成してゆく。

法皇が官職や土地を恩給として臣下に与え、その見返りに様々な奉仕を求め、諸国では知行国制度が展開してゆき、各地から寄進された荘園が広く認可されていく。

平氏(伊勢平氏、正盛ー忠盛ー清盛)はこうした法皇の政治の転換とともに成長していく。
重任(ちようにん)・遷任(せんにん)による知行国の継続があまり認められていなかった時期に、正盛は若狭守に任じられて以降、諸国を継続して知行するようになっていた。
正盛は院北面で終わる、子の忠盛は若くして大国の受領を歴任し、院殿上人(いんのでんじようびと)に遇せられる。
そして孫の清盛に至っては12歳で叙爵、さらに左兵衛佐(さひようのすけ)に任じられる。

清盛は、正盛・忠盛が院の近習として、院政の武力的支柱として、政界に地歩を築いたのをうけ、さらに発展させる。
彼も西国の国守を歴任し、忠盛の死後、後継者として多数の郎等・郎従を率いた。

(背景)武士の役割の増大
白河のつぎ、鳥羽院政期には、荘園は全国に以前とは比べものにならない勢いで増大する。
私的大土地所有制としての荘園は、王権(朝廷)が貴族・大寺社に収入を保証するために認めたもので、それ以前に国衙(諸国の国司が政務を執る役所)が管轄していた公の土地を割き取る形をとる。
荘園の激増は、国衙と荘園の間に、荘園の範囲、住民の帰属、国衙に納めるべき負担や朝廷への上納物の種類や額、種々の夫役や雑役の免除・非免除などをめぐる、暴力をともなう対立・紛争を引き起こすことになる。

国衛も荘園も都市(都)による地方収奪のシステムであるから、両者は互いの取り分をめぐって争わざるをえなく、対決は中央にもちこまれ、しかも根本的な解決は至難のわざだった。
荘園領主は、在地の有力者を荘官(現地の管理者)に任命し、一面、彼らの地域社会における成長を後押しするが、要求される負担の重さと、何か問題があれば簡単に荘官の職を解任されてしまう不安定な立場は、しだいに彼らの不満や反抗を増大させていった。

一方、院政の成立は王家内部に一家の長たる治天と国王たる天皇という二つの中心をつくりだす。これにより、それぞれをいただく勢力の対立という事態が生じた。
王位の継承をめぐって諸政治勢力の対立と連合が見られ、同じころ摂関家の分裂も深刻化した。

また院政期は、法皇による巨大寺院の統制が進み、各寺院は王権への忠誠競争に駆り立てられていた。
そのために寺院間の競いあいがしばしば力の対決に発展し、寺領をめぐる国衙との紛争もあって、それらを有利に導くため寺院大衆の強訴があいついだ。
武士が存在意義を増したのは、各種の衝突が社会の緊張を著しく高めたからである。
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1月18日
・藤原顕頼、丹後守に任命(~保安元年11月29日)。祖父は院近臣の勧修寺流の為房。父顕隆は元永2年頃、鳥羽天皇の蔵人頭で御厨子所別当を兼ね(「中右記」元永2年6月8日条)、永久5年(1117)正月~保安元年6月頃、越前権守(永長元年正月~承徳元年正月、若狭守)。
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1月20日
・同月23日に行う臨時百座仁王会の布施供養などの費用、若狭守高階宗章の重任の功の物を使うことになる(「中右記」)。
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1月26日
・女御藤原璋子(18、待賢門院)に中宮の宣下。 鳥羽天皇は2歳年下。
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