特に、絵の背景にある6枚の浮世絵の意味と、タンギー爺さんとは一体何者かという点に焦点が絞られていた。
「タンギー爺さん」は縦92cm、幅75cmの作品。
手を重ねて座る爺さんは真っ直ぐ正面を見つめている。
爺さんの名はジュリアン・フランソワ・タンギーで、当時モンマルトルで小さな画材屋を営んでいた。ゴッホはその店の常連客。
フィンセント・ファン・ゴッホは1853年オランダで牧師の長男として生まれた。牧師を志すも果たせず、その後、画家として活動出来たのは僅か10年。そのうち32歳からの2年間をフランスのモンマルトルで過ごした。
タンギーの画材屋は貧しい画家たちのたまり場だった。
ゴッホは浮世絵の独創性に注目し自身でも400点以上の浮世絵を集めていたという。
「日本美術を研究すると、明らかに賢く哲学的で知的な人物に出会う」
「その人は、ただ一本の草の芽を研究しているのだ」
「しかし、その芽がやがて、あらゆる植物を、移ろう四季を、そして人間を、描かせるようになる」
「こんな素朴な日本人が教えてくれるものこそ真の宗教ではないだろうか」
と、ゴッホは言った。
浮世絵と真摯に向かい合い、新たな絵画表現をつかんだゴッホは、それを教えてくれた日本画への感謝と尊敬を率直に6枚の浮世絵で伝えている。
「タンギー爺さん」の背景
右上の桜は、歌川広重の「東海道五十三次名所図会 石薬師」を手本にし、ゴッホ特有の強いタッチで満開の様子を描いている。
中央の富士は「富士三十六景 さがみ川」の山の重なりはそのままに、空は茜色に変えた。
左上の雪景色の元絵は不明。
その下は歌川国貞の「三世岩井粂三郎の三浦屋の高尾」を手本にして、花魁の役者の表情や仕草、背景の菖蒲までほぼ忠実に描いている。
左下には「いり谷」(作者不詳)の朝顔。
右下の花魁は当時発行されていた雑誌(『パリ・イリュストレ』)の表紙を参考にしている。
画材屋を開く前、タンギーは獄中にいた。
1870年の普仏戦争にフランスは惨敗。この時、政府に抗してパリ市民が蜂起し自治政府パリ・コミューンを結成。
タンギーもこれに加わっていたが、コミューンは鎮圧されタンギーは逮捕された。
そんな経歴を持つタンギーは、社会的弱者を排除する世の中が許せなかった。
貧しい画家たちには画材だけでなく食事や一夜の宿まで提供した。
そんなタンギーは画家たちにとって最大の理解者であり庇護者であった。
ゴッホはタンギーについて「もし僕がかなり高齢になるまで生きのびられたらタンギー爺さんのようになるだろう」と言っていた。
ゴッホにとって「タンギー爺さん」は単なる肖像画ではなく、聖なる像イコンなのだ。
そのためタンギーの周りには聖人を讃えるかのごとく浮世絵が描かれている。
孤独な画家がやっとパリで見つけた芸術的恩恵に対する深い感謝が「タンギー爺さん」であった。
番組では簡単に紹介されただけだが、もう一枚のタンギー爺さんの背景にも浮世絵が描かれている。
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