2016年1月26日火曜日

堀田善衛『ゴヤ』(84)「絢爛たる悪意」(2) 「さもあらばあれ、好意を持つべき理由のまったくない相手を、立派に、絢爛たる悪意の表現として、したたかに描き切ることが出来るということ自体、われわれのゴヤが元気を恢復しているということの証左ととることが出来よう。」

ゴヤ『フェルナン・ヌーニェス伯爵像』1803

しかし、この時期の肖像画の仕事は、・・・バルガス、リベーロ、フォラステール三氏のそれのような興の乗らない駄作ばかりではない。
 例によって(・・・)女性のそれに秀作が多いのであるが、男子像のなかではフェルナン・ヌーニェス伯爵像は矢張り傑作の一つである。
 この頃に、英国風な、たとえばケインズボロー流の芝居がかったような大袈裟な肖像画の手法がスペインに紹介されたこともあって、この若い、アカデミイ会員でもあるにやけた伯爵は、まるで芝居の書割りを背景にでもしたような具合で立っている。大きな、羽根つきの三角帽をかぶり、袖なしで裾割れの二重まわしのようなケープをはおって、赤ら顔にもみあげをもじゃもじゃにしてあたかもバイロンのスペイン版の如き観がある。

 ・・・背景の、嵐を含んだような不気味な空の下の遠い山嶽風景を注目して、そこから再びこの青年像に戻って来ることにすると、ゴヤはやはり描くものは描いている。何かを見抜いて描いているということがしみじみとわかって来るように思う。

 フェルナン・ヌーニェス伯爵は、この肖像画の制作された一八〇三年の翌年に、アカデミイの院長が死に、その院長選挙に立候補した(またしても!)ゴヤに投票をしてくれた八人のうちの一人であったが(二九票対八票でゴヤは落選、またしても!)そういうことはともかくとして、このいかにも尻の軽そうな伯爵は、一八〇八年の大変動が起きそうになると、衆に先がけてフランスのトウールへ駈けつけ、ナポレオン皇帝にまっ先さにお目にかかる光栄に浴した。そうしてジョセフ・ボナパルトがホセ一世としてスペインに君臨するとなると、またまっ先さに忠誠を誓う。ついで、この”侵入王”に抗しての独立戦争が開始され、フランス車がバイレーンで大敗を喫したと知ると、今度はあの大きな袖なし裾割れの二重まわしをパッとひるがえして”自費で”軍隊を組織し、英国軍、つまりはウェリントン将軍の方へ浸返った。そうして一八一五年、メッテルニッヒが主宰をして、エルバ島を脱出して来た百日天下のナポレオンを最終的に追放するウィーン会議にスペイン代表として参加した。

 ・・・
 ゴヤは、あたかもすべてを見通しているかに、この肖像画を眺めていればいるほど、そう思われて来るのである。彼はこの青年貴族が一〇歳のときにも父のフェルナン・ヌーニェス伯爵一家の図中に描き込んだことがあり、それが立派に成人したことをめでたく思ってこの肖像画に気を入れて描いたものであったろうが、こじつけなどということではなくて、恐るべきは画家の眼であると、つくづくと思われて来るのである。
 ・・・そうしてフェルナン・ヌーニェス伯爵は、しかし、最終的にはかえり咲いて来た反動王のフェルナンド七世に対してだけはケープをひるがえしそこない、亡命先のパリでさびしく死なざるをえなかった。

 もう一人の遊治郎がいる、これも若いサン・アドリアン侯爵である。鹿皮のキュロットをはいて右手に鞭をもち、左手には詩集か、『ウェルテルの悲しみ』の仏訳かをもっていかにもロマンティクらしく憂鬱ぶっている。がしかし、いかに憂鬱ぶっても虚ろな眼とお喋りらしい口許は、彼の期待を裏切っている。描きながらニタニタと笑っているゴヤの顔が見えて来る。・・・


 このほかに、ゴドイの副官をつとめ、ゴドイ同様に王妃マリア・ルイーサの男妾でもあったテバ伯爵像がある。この軍人は、これも当時の物憂げに、憂鬱そうにする流行に従って髪の毛を額に散らし、陰険そうな眼と薄い唇は、軍隊の指揮などよりも陰謀にたけていることを物語っている。・・・後日、皇太子がアランホエース離宮で謀叛、あるいはクーデターを敢行してカルロス四世とゴドイの退位及び失脚を招いたときの主要作戦参謀はほかならぬこのテバ伯爵であった。若くしてゴドイと王妃によって高位にとりあげてもらいながら、彼らを見事に裏切ることになる。

 ゴヤは功成り名遂げた老人の、いわば記念撮影的な尚像画には明瞭に興味を示さない。博物学者であったフェリス・デ・アサーラ博士の肖像は、本をまきちらした円卓やら、動物や鳥類の剥製を詰めこんだ棚やらでごたごたと飾られている。モデルの本人そのものなどはこの場合どうでもいいわけである、如何に仰々しい、赤い折りかえしのあるルダンゴートを着ていて剣までをぶらさげていたとしても、この人は博物学者ですよ、という次第である。

 後述する筈の女性像は別として、男のモデルを前にしたときは、やはり、何事かをやらかし、またこれからも陰謀だろうが裏切りだろうが、あるいは政治的ケープひるがえしの軽業であろうが、とにかく何事かをおっぽじめそうな若者を前にしたとき、彼の興は動くのである。自分から乗り出して行って描く。

ゴヤ『カバリェーロ侯爵像』1807

 かくてこの時期の男のモデルとしては最後のものとなる、若者ではなかったが、大礼服に勲章姿のカバリェーロ侯爵夫妻の別々の肖像が来る。一八〇七年に制作されたこの肖像画は、これも人物についての些少のことを知ってみれば興味深いものとなる。夫の侯爵は司法大臣であり、夫人はもと王妃マリア・ルイーサの侍女であった。ということは司法大臣と王妃のスパイが夫婦になっているということであり、ホベリァーノスをはじめとする開明派のすべてがこの大臣によって裁かれ投獄されたのである。・・・

 ゴドイでさえがこの司法大臣を嫌忌して、「奴の顔はもっとも見苦しい、太っちょで背が低く、腰が曲っている。顔色は青ざめ無表情で、悪意にみちていて人に危害を及ぼすことだけしか考えていないのだ。あらゆる美徳に対しての敵であり、寛容さなどはひとかけらもないのだ」と言う。
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・・・これを描いた一八〇七年は、皇太子のクーデター失敗、事前露顕のことがあって司法大臣は多忙をきわめた筈であった。・・・

 またゴヤにはこの司法大臣の奥さんを嫌うべき理由は何もなかった筈であるが、嫌悪はむしろ夫人の方へぶっつけられていて、マリア・ルイーサとともに、ゴヤが描いた女性としてはもっとも醜く下品な女として描かれている。
 この司法大臣夫婦もまた、如何に権威を誇っていても、やがてはフランスへ亡命してそこで死ななければならぬ。

 さもあらばあれ、好意を持つべき理由のまったくない相手を、立派に、絢爛たる悪意の表現として、したたかに描き切ることが出来るということ自体、われわれのゴヤが元気を恢復しているということの証左ととることが出来よう。

 これらの肖像画は、いわばスペインの Sturm und Drang 狂瀾怒涛の、その政治的運命の静的な表現にほかならず、大いなる人間観察者としてのゴヤがカンバスの前に、またその背後にいるのである。
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