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— ハフィントンポスト日本版 (@HuffPostJapan) 2016, 1月 29
天皇陛下が今回のフィリピン訪問に託したメッセージは「貴国の国内において日米両国間の熾烈な戦闘が行われ、(略)貴国の多くの人が命を失い、傷つきました。このことは、私ども日本人が決して忘れてはならないこと」という晩餐会での言葉に凝縮されていた。
太平洋戦争でフィリピンでは51万8千人の日本人が命を落とした。外地では最大である。食糧も兵站も乏しいなかの悲惨な戦いについて、日本では多くの記録が残され、小説や映画にもなった。多数の慰霊碑がフィリピン国内に建立された。だがフィリピン側の犠牲について思いを寄せたり、悔悟をつづったりした例は極めて限られている。
フィリピン側の死者は111万人に及んだ。当時の国民の16人に1人にあたり、ロムロ元外相は「人口に比してアジアで最も大なる惨禍を受けた国」と語っている。
太平洋戦争を始めた日本は7200万の人口のうち310万人を失った。つまりフィリピン人の死亡率がはるかに高い。なぜかくも多くの人々が戦渦に巻き込まれたのか。日本が侵略したからにほかならない。
しかしながら、われわれ日本人の多くは、忘れる以前に歴史的事実そのものを知らない、あるいは関心がないように私にはみえる。天皇は旅立ち前の羽田空港で「マニラの市街戦においては,膨大な数に及ぶ無辜のフィリピン市民が犠牲になりました」と述べたが、1945年2月のマニラで10万人もの命が奪われたことをどれほどの日本人が知っているだろうか。
自国に不都合な歴史的事実を知ろうとしない、認めたがらない風潮が強まるなか、天皇の言葉は重く響いた。さらに言えば「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」いう昨年8月の安倍首相談話に相対する考え方だと私には思えた。
今回の訪問は、日比国交正常化60年を記念し、昨年訪日したアキノ大統領の招待にこたえるという形をとったが、天皇自身の強い意志を反映した「巡礼の旅」という印象が強かった。
(略)
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インタビュー マニラ市街戦から70年 作家 F・ショニール・ホセ (『朝日新聞』2015-02-27) : 「日本人は不可解な存在だ。変化へ向けてムードが変わると、すべてを受け入れる。国民的雰囲気とでもいうか。しかも一夜にして変わることがある。常に理性に基づいて行動するわけではないことは41年の開戦で明らかだ。国粋主義的になれば危ない。第2次大戦の黒幕のような扇動者が出てきたら、簡単に説得されてしまうのではないか。平和を求める雰囲気が続くことを願う」
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